マラソン日本最強は瀬古か中山である
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>>243 日本語での中継があったのが凄い。また中山が最後の一周で2位との差をかなり詰めている
のは大したもの。 スピードがないと言われていた中山が結構ラストで火事場のクソ力を発揮する。
86年にもあった。スポニチ国際だったか。直前の兵庫リレーカーニバルで
イカンガー(タンザニア)にラスト勝負で敗れていたが、この日のラストは
超絶ラストスパートを掛けた新宅雅也の横で必死の追走。新宅には競り負けたが
二人揃ってイカンガーを大逆転。兵庫で敗れていた相手にリベンジを果たし、
だんだん「スピードがない」という外野の声を黙らせていった感がある。
この時期、1万の記録は右肩上がりで上昇。翌年の日本新につなげる。 中山は実は27分台は一度きり。28分07秒台がセカンドタイム。 こうして見ると、やはり中山の最盛期は87年だなあ。 >>248
最盛期があと1年遅れていれば五輪のメダリストになれただろうにね。 瀬古は言動とかがなんか勘違いしてるんだよな
頭が悪いことを自覚したほうがいいと思う 瀬古のイメージを悪くしたのはやはりソウル五輪予選における未練がましさだろう
故障で福岡を欠場し満を持して臨んだびわ湖毎日マラソン
優勝したものの後半は完全にばてて2時間12分41秒の低調な記録でゴール
更にインタビューでは「暑くてが向かい風が強かった」など言い訳ばかり
「納得できる走りだった」と自画自賛するに至り解説者の宇佐美彰朗氏もあきれていた 琵琶湖が暑かったのは本当
西監督が昔暑さのあまりふらふらでゴール後
倒れとったよ オリンピック選手に夢の大挑戦スペシャル マラソン中山竹通に挑戦!!
その1 そのまん東・ダチョウ倶楽部
https://www.youtube.com/watch?v=HzUW8BSEbf0
その2
https://www.youtube.com/watch?v=0J-AqF7WaGs
その3
https://www.youtube.com/watch?v=bmJos1Wizhc
10kmちょいのレース。中山は15分遅れでスタート。
そのまんま東は4分10秒/kmくらいで走り続け、ラスト3分40秒/kmまでペース上げててすごい >>254
暑かったにせよ本番の五輪程ではないので、結局のところソウルでの惨敗は必至だった。
そんな奴を救済措置で選んでどうするという声は多かった。また計算高く言い訳がましく
ずるいのが、ソウルで凡走をして9位でゴールする際にガッツポーズだか万歳をして、体調不良
の割に好走した、を強烈にアピールしようとした事。 >>255
瀬古日本新は、ロンドンのプジョータルボット・ゲームズですね。
この年はロンドン・マラソンに優勝していてロンドンで2勝。
スティーブ・ジョーンズに先着したのも実に意義深いレースでした。 中山が1万で日本新をだした時、世界記録との差は22秒くらい。世界が意外に近かった。 当時10000m世界記録者がポルトガルのフェルナンド・マメーデ
しかしロペスと違って大試合に弱くオリンピックも世界陸上も入賞さえできなかった
87年の福岡国際マラソンに出場したが全く見せ場を作れないまま途中棄権した あの時瀬古が選ばれたのは日本マラソン史上最悪に不公平な選考だと思う。
瀬古利彦枠を1つ用意していたようなものだと思ったよ。でもソウル五輪での
走りは悪くなかった。ゴールでのあれは完全燃焼したという気持ちの表れだ
と思う。 選手層の厚さを世界に誇示したかった日本陸連。五輪代表ごっこでルンルン。しかし大好きな瀬古がまさかの骨折で温泉気分も吹っ飛んだ。 当時陸連の五輪マラソン選考会で必ずと言っていいほど口を出したのが小掛照二
まだ選考会が残っているにも拘らず個人の判断で有力選手の五輪出場内定をマスコミに漏らすなど軽率な言動が多い人だった 三段跳びの選手だった人がオリンピックマラソン強化委員長 スポンジの水も口に含むほど、なりふり構わず走っていた。「強い瀬古」の面影なし。
しかし優勝は優勝。 >>267
もう31年も前の懐かしい映像ですなあ。 小掛もメルボルン前に公認世界記録を大幅に破って期待されながらコンディションニングを
失敗して入賞出来なかったので、瀬古と似たような面を併せ持つ。 「瀬古はマシン。間違いなく世界最強」と評したのがスティーブ・ジョーンズ。 86年ソウルアジア大会は瀬古が5000m出場する予定だった
ところが10000mにエントリーされていたことが試合前日に判明
急いでソウルに行って試合に臨んだが腹痛を起こし銅メダルに終わる 29分半くらい掛かる。途中、歩き出す場面も。それでも3位。
1か月後のシカゴでは快勝。 >>274
このアジア大会で中山はマラソンに出場し2時間8分21秒の大会新記録で優勝した
その雄姿を見た韓国人の黄は感動してマラソン選手になることを決意したという
この頃から中山が陸連の瀬古優遇を批判し始めたように記憶している https://sports9.5ch.net/test/read.cgi/athletics/1148916008/
この過去スレを読めばもう十分論議は尽くされていたと思う
389(前略)
瀬古という目標があっての中山だったのだろう
何かソウル五輪後は輝きを失っていた感じがした ソウル以降、緩やかに下降傾向にあったが、それでもバルセロナまで、良く持った。 バルセロナでは、映像では映らなかったが、最後、競技場に入ってから、フライガングと3位争いをしていた中山が、一旦、フライガングを引き離したらしいからな 87年の福岡の映像を見返すと、サイモンの入りが驚異的で尚且つ5-10kmでスピードアップ。
さしものの中山も10km過ぎまでサイモンを捕らえることが出来なかった。中山も25kmまでは
軽快だったけど、35kmから急落、ゴール後のインタビューでは思いの外ヘロヘロだったね。 サイモンは、追いつかれると、あわててペース上げて引き離しにかかる無茶苦茶なレース運びだな。
これが終盤ならともかくな。
喜多の解説が結構的確。 喜多は五輪争いからは一歩引いた立場だったが、この後も渋い活躍があった。
90ロッテルダムで上位に入っている筈。 サイモンが中山の闘争心に火をつけてしまった。
中山の敵は「見えない瀬古」であり、レースに参加していた選手たちは、正直誰も
眼中になかっただろう。 >>280
間違えた、中山はドリンクを一度もとってなかった。
+寒さで失速した。 >>270
結果論だがソウル五輪は新宅より上だったわけだし瀬古さん選出は
間違ってはいなかったと思う。 >>287
特別措置で選んだのに9位では意味がないだろう。選手にやる気をなくすばかりか、
その後の選考のゴタゴタの元凶にもなった。工藤でも9位程度にはなれたかもしれない。
よしんば40位程度でもスッキリした選考は何にも代え難い。 1986年のソウルアジア大会
https://m.youtube.com/watch?v=h4B7N4y35Mc
26分辺りから5000m、最後にマラソンがある。5000には新宅、金井のヱスビーコンビが出て
ラスト2周からのスパートで勝負あったかに見えたが、スパートが早すぎて韓国の金に追い抜かれ、
確実に金と思われた5000を落とす。マラソンは2kmも行かないうちに中山が谷口を千切って、
世界記録ペースで爆走。後半ペースダウンしたものの8分21秒で圧勝。
因みに10000では瀬古と新宅が登場したが、新宅が合図してペースアップした6200付近で
瀬古は付いて行けず、腹を抑えて立ち止まる信じられない光景。結局新宅が楽勝したが、
瀬古は1分遅れの銅。衰えを感じさせる信じられないシーンであった。尤も、この原因には
陸連(小掛監督)の失態があった。というのも瀬古は10000にエントリーしていたものの、
小掛の意向で2週間前に5000にエントリー変更を依頼された。その準備で走り込みをしていた
ところエントリー変更が却下されて元の10000で走らざるを得なくなった点に同情の余地がある。 >>289
エスビーの中村清監督は1年前に渓流釣り出掛けに足を滑らせ川に転落し亡くなっていた
代わりにアジア大会の結果に怒り心頭だったのは織田幹雄氏だった
特に5000mの試合内容がお粗末で韓国選手に自信をつけさせてしまったと語った 因みに86年のアジア大会での10000は9月29日。瀬古が生涯最高記録で優勝した
シカゴマラソンが10月26日。無理からぬ点もあった。最初から出場要請を断る
べきであったろう。中村監督が健在だったら出ていない。 出る必要もない。もともと新宅と金井で勝たせる計画のアジア大会。 >>292
そもそも混乱の一端は金井の不調にあって、全くあてに出来んから瀬古に頼み込んだ。
5000は10月3日で、よりシカゴに近くなるので表に出た話は小掛が自らを悪者に仕立て上げ
たお話である可能性もある。どちらにせよ瀬古は9月24日に40kmの走り込みをしている。
若い頃でも過集中で連戦の効かないタイプだったから器用な切り替えは尚更出来なかった
のだろう。この時、無理にアジア大会に出て貰ったのがソウル代表選考の伏線になっている
というのが自然なストーリー。 瀬古はその年の4月ロンドンマラソンで優勝し6月日本選手権10000mに出場した。
その試合に中山も出場し新宅が優勝、瀬古が2位で中山が4位か5位だったはず。 >>296
ありがとうございました。
阿久津は病院で職員をしながら練習しソウル五輪10000mに出場した努力家。
もっと世間から評価されるべき選手だと思う。 小柄で地味に凄い選手。86年あたりから、にわかに台頭。 >>294
アテネ五輪選考会の時も小掛は小出監督に高橋尚子は名古屋に出場しなくても当確と言ったらしい
結果落選で高橋尚子のアテネ五輪出場に賛成した委員は他にいなかったという (瀬古の無理なスケジュールはあるにせよ)86年アジア大会でのSB勢の惨敗はかなり
批判されていた。急先鋒が中山であるが、当時の月陸等の雑誌を見ても選手権を嘗めて
いるとしか思えない、猛省を促す、等の過激な言葉が並んでおり、後の政治的発言を
極力控える編集方針と真逆の記事が並んでいた。 金井は早大入学当時から瀬古二世と呼ばれたがマラソン向きではなかったと思う。
800m日本記録保持者の森本葵氏が中距離選手層の枯渇を憂いていた。 >>303
そうだね。高校時代に800mで高校新を出し同着優勝しているし、トラックで切れ味鋭い
ラストスパートを極めた方が良かった。実際、ロードでは箱根で区間賞も取れていないし、
中村孝生や遠藤司同様マラソン向きではなかった。ロスで期待以上の入賞をしてから85年前半まで
絶好調で瀬古を一蹴する力を発揮していたけど、故障だったのか体調不良だったのか覚えて
いないが元の金井に戻ってしまった。 高校時代400の選手だった篠田正浩氏も中村氏の勧めによって長距離転向。
箱根駅伝2区を走っている。 >>307
http://www5.nikkansports.com/sports/hakone-ekiden/2011/column/archives/20101223_6679.html
だね。篠田は区間5位の好走だったが、その後は走っていない。走る事より映画製作に没頭したか。
中村も(幾らベルリン五輪で惨敗して孫基禎の優勝を目の当たりにしたと言っても)中距離選手だった
のにマラソンのみならず駅伝好きというのも変わっているよね。戦後の第一期競争部監督時代は
箱根優勝こそ2回あったものの、大した選手は育っていない。やはり瀬古は彼にとっても宝だった
のだろう。 篠田氏の高校時代の400のベストタイムは52秒台。大学入学直後、
中村監督から「キミのスピードでは400では通用しない。だけどキミの
400のスピードを生かして長距離に転向すれば通用するな」と転向を
持ちかけられた。
中村監督の長距離信奉は揺るぎない。もし現代に生きていたら、
クレイアーロン竜波は何が何でも欲しがるだろう。
そうして箱根駅伝を走らせようとするに違いない。 中村と言えば、昭和29年の箱根駅伝の昼田の失神ゴールが有名。早大の10区・昼田は、新橋付近で失神しながらも中村監督の
「都の西北」に励まされ、 そのままゴールし、優勝。 次に早稲田が優勝するのが30年後。その時も中村氏が指導していた。 昭和59年の早稲田は2位の日体大を除いてすべての大学を繰り上げスタートにしてしまう
現代では考えられないほどの圧勝だった。 >>313
1区 田原貴之 区間5位
2区 坂口泰 区間2位
3区 高橋昇 区間4位
4区 高橋雅哉 区間1位(区間新)
5区 木下哲彦 区間2位
6区 越智房樹 区間5位
7区 伊藤雅弘 区間1位
8区 川越学 区間1位
9区 谷口伴之 区間1位
10区 遠藤司 区間1位(区間新)
http://www13.plala.or.jp/jwmiurat/taikai/60kai/60_m.html 早大の総合優勝より東大が予選会を通過して箱根駅伝に初出場したことの方が凄いと思う 東大、17位で明治に先着していたんだ。東京学芸大とか慶応とか記念大会の
恩恵を受けたとしか思えない出場校もある。 この時はもう卒業していたけど、東大の瀬古君と呼ばれた坂本 修一が活躍して関東インカレで
2位等の実力を示していた。東大卒業後、旭化成で暫く走っていたけど、現在は専務だな。
https://www.asahi-kasei.co.jp/asahi/jp/aboutasahi/officer/ 早稲田は翌年も伊藤雅弘7区だったが、ややこしいことに別人。
田原→遠藤→坂内→高橋雅→木下→赤堀→伊藤→尾崎→川越→豊福で2連覇 朝鮮籍の木下哲彦を韓国籍にしてソウル五輪に出場させたがっていた。 >>324
結局、金さんは韓国籍に変更して4年遅れでバルセロナを目指したが、金メダルを
取る等、急激にレベルアップした韓国勢の中で代表権を勝ち取る事は叶わなかった。
中村見込み通り早く準備してソウルを目指せたら代表になれただろう。 >>327
自分が中山竹通の名を始めて知ったのは1983年の中日ロードレースだった。
男子30kmは中村孝生が優勝し女子20kmは佐々木七恵が2位だったと記憶している。
その時の男子30kmの3位に当時無名の中山竹通という名前が新聞に書いてあった。
おそらくこの時のことだと思う。
中村清とマラソンに対する考え方が正反対の中山だから決裂したと思う。 究極の一匹狼・中山は、今見ても異端児で、面白さは別格だった。
こういう男を逆に指導者にしたら面白いのだが。 >>330
中山ネタで100幾つしかレスが付かなかったのは残念としか言いようがない。 スタートから高速で飛び出して優勝した選手はフランク・ショーター
ショータ―福岡国際マラソン4連覇した時の最初5kmのラップタイム
71年 14:44
72年 14:52
73年 14:36
74年 15:00
以降の福岡国際マラソン優勝者5kmラップタイム
75年 15:15 ドレイトン
76年 15:19 ドレイトン
77年 15:19 ロジャース
78年 15:27 瀬古
79年 15:25 瀬古
80年 15:27 瀬古
81年 15:31 キャステラ
82年 15:25 バリンジャ―
83年 15:18 瀬古
84年 15:36 中山
85年 14:56 新宅
86年 15:15 イカンガ―
87年 14:35 中山
88年 15:35 渋谷
89年 15:29 マティアス ショーターの後、ビル・ロジャースが台頭する。アメリカ華やかなりし時代。 ペースメーカーがいない時代は毎年ペース展開が変わって面白いな 中村清は独占欲が強く有望選手を全部自分の支配下に置きたかったのではないか。
有名なのは急遽台頭してきた増田明美に秋波を送ったが、瀧田を通して袖にされた
事と、それに対抗すべく駄馬と思っていた佐々木七重を徹底的に鍛えて意趣返しを
しようとした事。ロス五輪でも増田だけには負けられないとおかしな対抗意識を
燃やし、微妙な成績で佐々木がゴールし、増田は棄権で実質的に引退に追い込まれた。
その一方で、中村不在の瀬古は暑い北海道で調整を失敗し、血尿を出し、ロス五輪の
惨敗に繋がった。 >>335
記録でも彼がベストを出した72年の福岡の優勝タイムは当時世界歴代3位。
レース中の大便も複数回やっている。 勿論今の方が記録は上だけど個々のキャラが際立っていた当時のマラソンのほうが親しみ深い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています