https://youtu.be/HYmF3TleDj8?t=417
今作は主人公の鈴芽が、つまりは作り手が、そして私たちが、自身の喪失と向き合う旅の物語です。

鈴芽が偶然に出会う閉じ師を家業とする青年草太への感情は、単に恋愛とは言い切れ
ないと感じました。
2人が初めに出会う瞬間から、スズメにとって草太の存在は自身の母の己と紐づいています。
要するに合ったことがあるかもしれない、という記憶があるわけですね。
その母の存在が鈴芽のソースと大きく関わっていて、彼女が目を背け続けてきたものでもあります。
その空白地帯に引き寄せられる力が鈴芽の言動力であったように思います。

そのような空白を抱えているためか鈴芽には年齢に似つかわしくなく思える死生観があって、
簡単に言えば、自分の命を軽く見ています。
いつ向こう側に行ってしまっても構わないという意識です。
草太と各地の災いを閉じて廻る旅を続ける理由が、無意識的に死に場所を探しているような心理が
見えてくると違った物語が顔を見せると思いました。

鈴芽のようにあの災害やあるいは近年のパンデミック等を経て、どこが自分が借り物のように
不確実な生を生きているように感じている人は決して少なくないでしょう。
鈴芽はそのような思いに寄り添い、炙り出す存在ですし、だからこそ、彼女の中で死に場所と
生きる理由が反転し、ただ当たり前の挨拶が、当たり前に交わされる日常へと、自らの意思で
帰り着こうとする成長が描く射程は、これまでの作品と比較にならないほど広いのではないか
と思います。

扱う主題はセンシティブですし、表現がダイレクトすぎるのではと私も思います。
賛否両論あって当然で多分それが正しい。
本作の作り手は彼らなりのやり方で私たちを全力で「傷つけよう」としているからです。
ここで大事なのは、発信側も同じかそれ以上に傷つく覚悟があるか、ということで、
それは今作を見れば言うまでもないことだと思います。

扉を閉じる行為は拒むと守るの両面を持っています。
この作品から受け取ったものをどうするのか、それは私たちに戸を閉じる鍵ごと委ねられていて、
手に残るたしかな重さは、振り返った先へと伸びる道に気づかせてくれます。

ラジオネーム レインボーウオッチャー