死は美しい、生は醜い

大怪我をしたお母さんのシーン、包帯姿でうじがわいているお母さんのシーンから
生き延びようとした母親は醜く死んでしまったという意味
母親が担架で運ばれて行くときも、清太は一切触らなかった(担架の端を持つこともなく、お母さんに抱きついたりもしなかった)
無表情で見ているだけ、眺めているだけ

それに比べて
節子が死んだ時は、添い寝して、抱きしめていた

死ぬことに抵抗した母親、生きることにこだわった母親は醜く死んでいった
死ぬことに抵抗しなかった妹は、美しく死んでくれた(抱いて寝れるほどに美しい)
節子をすぐに火葬したのは、母親のようにうじが沸いて醜くなる前に焼いてあげたい
母親の骨は洞穴の中に置いて行くが、妹の骨だけ持ち歩く

カニバリズム

妹を火葬したシーン
生芋をかじる清太このシーンのだぶらしで骨の入った佐久間ドロップを持っている清太に画面がスライド入ります

本編で佐久間ドロップに骨が入っているとわかるのはこのシーンから
にいちゃーんと呼び止められて、節子が亡霊となって呼び止められて、節子自身の骨が入った佐久間ドロップを渡す
そうすると、映画を見ていた人は、冒頭から兄弟がペロペロ食べていたのはドロップではなく、節子の骨だったんだと気づく
高畑さんは映像としてはドロップとして描く、監督は骨をかじるみたいな、なまな表現はしないが
構図を読み取れば、カニバリズム(人肉食い)を描いている
本当に愛しているから、その死体を食べたいという欲求
だから抽象的に兄弟でその骨を分け合って何回も食べるシーンが出ている