【STUDIO GHIBLI】スタジオジブリ総合 9
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>>532
羽衣伝説はわかるが
かぐや姫とは人種は同じかもしれないけど別人の話だと思っていたから
「え?アニメかぐや姫では、羽衣伝説とかぐや姫は同一人物設定なのか?」と混乱する 誤差はどうあれ
結構なオタクな人達の感想だと思うけど
後、男性比率が高いから女性へのメッセージは低いかなとは思う
かぐや姫の感想
凄いとは思うけど、正直面白くない 51.0%
登場する男が全員クズ 12.6%
何だか分からんが気に入らん 13.3%
精一杯生きたかぐや姫と
爺婆の別れが切ない 8.0%
現代もなお女という役割を押し付けられた
女性へのメッセージに泣いた 4.1%
何だか分からんが泣ける 10.6% だけど、高畑勲がやってきた事って10年くらいすると普通だからな。
スタンダードの最初の一歩はだいたい高畑勲。 つうかさー
パクさんみたいな人に国民栄誉賞あげようよ
あげる基準がおかしすぎるよ >>585
本人は働かず何も言わなくても助手が全部やってくれるのが夢だったみたいだからなあ(苦笑)
M監督「(パクさんは)大ナマケモノの子孫」 理屈で作った映画は込められている皮肉も理屈で
そんなものわざわざ汲み取りたくもない
パヤオのように感情に訴える作り方ではない 日本代表のロリコンキモヲタブサオヤジはとっとと消えろよ^^;
日本代表のロリコンキモヲタブサオヤジはとっとと消えろよ^^;
日本代表のロリコンキモヲタブサオヤジはとっとと消えろよ^^; 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 『かぐや姫の物語』解説2 「タケノコはセックスを連想させる場面で急成長する」
http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51548003.html
一番最初、竹林の中から翁が見つけた時のかぐや姫は、“すごく小さな姫君”だったんですよ。
だけど、家に連れて帰って、それを媼に見せると“赤ん坊”になるんです。
媼が抱いて歩いて、「ああ、これはおっぱいをもらわないとダメだわ」と言って、橋を渡ろうとすると、
お婆さんの媼のおっぱいが張ってしまって、いきなり母乳が出るようになります。
描写を見ている限り、この媼と翁の間には、子供がいないような感じなんですね。
つまり、この媼は、“石女”という、いわゆる子供を産めない女の人なんです。
にも関わらず、いきなり乳が張って、おっぱいが出るようになる。これは一応、民話とか神話とかではよくある話です。
そして、このおっぱいを吸うと、また、いきなり成長しはじめます。「なんだか急に重くなりました」というふうに、お婆さんが言うんですよね。
これ、赤ん坊がおっぱいを吸うだけのシーンだから、僕らは「ああ、それだけのことなんだ」と、ごく自然に受け止めてしまうんですけども。
これは、一番最初の大きな成長を「赤ん坊がおっぱいを吸うシーン」として見せることで、ミスリードしているんですね。
・・・
実は、幼少期に“タケノコ”と周りから呼ばれていたかぐや姫には、「セックスを暗示する場面でのみ大きく成長する」という特徴があるんです。
例えば、この次にタケノコが大きくなったのは、「カエルを追いかけてる時」なんですよ。
まだハイハイもできない状態から、カエルがピョンピョンと跳んでいるのを見て、急に嬉しそうに寄っていきます。
すると、そのカエルが2匹で繋がるんです。そうしたら、いきなり成長して、近づいていくんですね。
これについては、絵コンテにも「急に加速して追いかける」というふうに指示が書いてあります。
(パネルを見せる:カエルの抱接) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/6/4/64253251.png
このくっついている状態のカエルというのは何かというと、カエルの求愛行動なんですよ。交尾ではなくて、“抱接”と言います。
これ、何をやってるかというと、オスのカエルがメスのカエルの上に乗っかってお腹を激しく抱えることによって、
メスのカエルに卵を産ませているんですね。
そうやって産ませた無精卵の上からオスのカエルが精子をかけることによって繁殖しようとしてるんですけど。
ただカエルを見て喜ぶ無邪気な姿を描きたいのなら、こんなものをわざわざ描かなくていいんですよ。
普通にカエルだけを描けばいいのに、わざわざ絵コンテにも「抱接をしているカエル」という指示があるんです。 そして、それを見た瞬間に、タケノコは、それを捕まえようとして、いきなりハイハイをして、その後、立ち上がって歩いてしまいます。
(パネルを見せる:ハイハイして立ち上か?る) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/c/f/cf2dd0f2.png
タケノコは、カエルのオスを捕まえると翁に渡します。
おじいさんは、わけがわからないから、ただ「ああ、いい子だいい子だ。急に大きくなったな」と言って笑うんですけども。
・・・
このカットの後、それを庭から見ていた村の子供達が
「なんだ? あいつ急に大きくならなかったか? 急に大きくなったよな。変だよな。まるでタケノコみたいなヤツだ。ターケノコ! ターケノコ!」
と言って囃します。
(パネルを見せる:タケノコと囃す男の子) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/1/c/1c395ab7.png
で、村の子供達に囃されたタケノコは、また大きくなるんですけど。
これを見たらわかる通り、ここでタケノコを囃す村の子供達は、全員“男の子”なんですよ。
この後にも、村の中のシーンは結構出てくるんですけども、基本的にタケノコと絡んで遊ぶ子供達というのは全員男子なんですね。
もちろん、村には女子もいるんですけど、画面から巧みに外されていたり、「一緒に遊ばない」という設定になっています。
こういうところからもわかる通り、タケノコというのは、ずーっと周りに男性を侍らせている、いわゆる“サークルの姫”状態なんですよ。
これも、普通に見ていたら、まず気付かないことなんですよね。僕らは、画面の中に、こういうふうに「
おちんちんを放り出した男の子がいる」ということには気付いても、「この中には女の子が1人もいない」ということには、なかなか気付かない。
子供達が「ターケノコ! ターケノコ!」と囃すと、おじいさんは一生懸命「姫、姫!」って呼び掛けるんですよ。
そして、おじいさんと男の子達という両方の男性から同時に呼ばれることによって、タケノコはまた何センチか急に身長がグググっと伸びるんです。
こんなふうに、「男と交わることによって、彼女は成長する」と、しっかり描かれているんですよ。
・・・
タケノコは、その後、何日かして、本当にあっという間に成長していくんですけども。
(パネルを見せる) http://bmimg.nic ovideo.jp/image/ch923/580516/a0e3762451319e3c441fa817e4eb68f35b82946d.png
これを見てください。これは、じいさんと一緒に竹林に行って、竹を取る手伝いをしているタケノコですね。
http://bmimg.ni covideo.jp/image/ch923/580517/fd419b977f6626ab9a782cb39fb3d5bf3827aabb.png 次の成長は、水浴びのシーンです。
(パネルを見せる:水浴ひ?) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/4/5/453c24cd.png
子供たちで水浴びをしている時に、男の子たちが「こっちこいよ!」と言うんです。
そう言う男の子たちは全員、素っ裸です。
つまり、「女のタケノコが裸になるなんて、恥ずかしくてできないだろう」と男の子たちは思っているんですね。
しかし、呼ばれたタケノコは、もう本当にためらいもせずに素っ裸になって、水の中にドーンと飛び込むんです。
http://bmimg.ni covideo.jp/image/ch923/580522/8b78bf70fc5ab60e4f5fba32b6845d8768616f2d.png
素っ裸で飛び込んだタケノコを見た男の子たちは「えー!?」って見てるんですけども。
http://bmimg.ni covideo.jp/image/ch923/580523/0a0be655cc5075bae035fb0d22e44ecc7f8925f8.png
水から出てきたタケノコは髪の毛も伸びて、美少女になってるんですね。
http://bmimg.ni covideo.jp/image/ch923/580524/fd2be2347f07e22126d9e322151e425666a8d9e8.png
これもやっぱり「男に裸を見せると成長してしまう」ということなんですね。
カエルの抱接を見たら成長して、男とおじいちゃんに交互に呼ばれたら成長して、捨丸兄ちゃんに抱かれたら成長して、
村の男の子たちに裸を見せるとまた成長するという。もう言い逃れができない状態になってるんですね。
かぐや姫というのは、このように極めてエロティックな……というか、性的な話です。
ちなみに、このシーンでは、一応、端っこの方に赤ちゃんを抱えた他の女の子も言い訳みたいに立っているんですけども。
この女の子はここでは何も活躍しません。
http://bmimg.nic ovideo.jp/image/ch923/580525/e281f2d61206e494ab6abd748ac524e20d76a014.png
他にも、後で村の中で藁とかを叩いている女の子なんかもいるんですけど、タケノコはその女の子たちの仲間に入ろうとせずに、
すぐに男の子たちと一緒に遊びにいっちゃったりするんですね。
・・・ 男の子と一緒に遊びに行ったその先で起きたのが、キジ事件です。捨丸兄ちゃんがキジを捕まえて殺します。
ここでの捨丸兄ちゃんは、本当に見事に「獲ったどー!」のポーズをちゃんとしてくれるんですけども(笑)。
「危ない」と言われているにも関わらず、タケノコが兄ちゃんのところに行くと、
そこから落ちてしまい、捨丸兄ちゃんに抱きかかえられます。
(パネルを見せる:また助けられる) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/a/a/aa149764.png
この時、タケノコは、捨丸兄ちゃんにおっぱいの部分をまともにガッと掴まれるんですけど。
するとまた、あっという間に髪の毛が伸びて、「え? お前、また、デカくなってないか?」と捨丸兄ちゃんに言われてしまうことになります。
http://bmimg.ni covideo.jp/image/ch923/580527/e8a72ea10f31bd04718a56050aaeb31c2d422a29.png
これも、「気になる男とくっつくと、更に成長が早くなってくる」ということですね。
『かぐや姫の物語』を見ていると、ついつい「前半は幸せだったかぐや姫は、
後半からは男から欲望の対象にされた」というふうに見えがちなんですけど。
実は、前半の最初から“そういう世界にいる存在”だったことが、ちゃんと描かれているんですよね。
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この記事は『岡田斗司夫ニコ生ゼミ』5月20日(#231)から一部抜粋してお届けしました。 高畑の隠遁学者のような作り方には付き合っちゃいられませんねぇ 『かぐや姫の物語』解説3 「男がみんなクズに見えるのは姫の超能力のせい」
http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51548004.html
「『かぐや姫の物語』に出てくる男って、みんなクズばっかり」と言われてるんですけど、これ、違うんですよ。
原因は、かぐや姫が魅力(チャーム)というアビリティを持っていることにあるんです。
そんな能力があるもんだから、周囲の男の行動とか判断の全てを歪ませてしまうんですね。
僕が昔、小学校の頃に読んだ宇宙論の本があるんです。図書館にあった分厚い本で、
当時小学校6年生だった僕にとっては難しくて全部は読めなかったんですけども。
その本に書いてあったことの中で1番面白かったのが“重力場”の説明なんですね。
「重力場とは何かというと、ゴムでできた薄い膜が教室中の高さ1mくらいの位置に張り巡らせてあると思え」と。
そこにボーリングの玉をドンと置くと、その重みの分だけ、ゴムの膜はギューンとヘコむ。
では、その周りにビー玉があったらどうなるか?
ビー玉は、ゴムの膜のヘコんだ部分に向かって、吸い込まれるように転がり落ちていくだろう。
ビー玉を真っ直ぐに転がそうとしても、ボーリングの玉によって作られたヘコみに沿ってギューンとコースを変えることになる。
これが、重力場というものだと書いてあったんです。
つまり、強い力というものは、周りの物を歪ませる効果を発生させるということです。
かぐや姫もそれと同じなんですね。人間関係や、周りの人間の欲望とか決心を歪ませる。
そういった強いチャームの能力を持っている。重力場を強く発してるんですよ。
・・・
でも、この能力というのはかぐや姫のせいじゃないんですよね。
だから、本人にもどうしようもできないし、制御できないんです。
これ、例えて言えば「脇の下からマタタビの匂いが出てる」というのと同じなんですよね。
もし自分の脇の下からマタタビの匂いがしてしまったら、そりゃ、猫が近くによってきて、始終ニャーニャー言いますよ。
で、そんなことがずっと続いたら、猫嫌いになって当たりまえですよね。
「もう、猫はクズばっかり! 私の脇の下ばっかり狙ってる!」って思って当たり前なんですよ。
でも、それは猫の責任でもなければ、本人の責任でもないんです。
猫はマタタビの匂いには抗えない。
それと同じように「基本的に、かぐや姫の魅力には人類は逆らえない」というふうに、
このアニメの中では設定されてるんです。
「理性が強かったら逆らえる」とか、そんな描き方をされてないんですよ。
「かぐや姫の姿を見たり、もしくは演奏している琴の音を聴いたら、チャームの魔法に掛かってしまうし、
それは地上の者である以上は仕方がない」というふうに設定されています。
・・・ このチャームの能力を証明するシーンがあります。
(パネルを見せる。かぐや姫の琴の音を聞く5人の貴族のカット)
http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/3/8/386b90cb.png
これなんですけど、5枚同じ絵が並んでいるように見えますよね。
http://bmimg.ni covideo.jp/image/ch923/580553/567616d5872cc4e783fd2a879d3cd889a2b15f5e.png
これは、開始から1時間8分55秒のカットです。DVDを持っている人は、後で確認してください。
この1カット、実に20秒もの間、このまま続くんですよ。
全く同じで、画面に動きがないように見えますが、実は動いているものがあります。何かというと――
http://bmimg.ni covideo.jp/image/ch923/580554/1a609dfc43a16bb91298134cfb9678222c42af12.png
(岡田、パネルにマジックで書き込みを入れる)
http://bmimg.nic ovideo.jp/image/ch923/580555/decc81bbb2b2c18f39a13ecdd94b96cabe577b0d.png
ここに蝶か?飛んて?いる
わかりにくいんですけど、○をした位置に蝶々が飛んでるんですよ。
全く動きが無い画面の中を、蝶々がヒラヒラと飛ぶという、それだけのシーンに丸々20秒も使ってるんです。
この蝶々というのは何かというと、これ、日本の古典とかに詳しい人だったらわかる通り、
『吾妻鏡』に出てくる、“あやかし”が人を化かす時の象徴的な表現なんですね。
まあ、中国の文学では、幻想、夢幻を象徴するシーンなんですけど。
吾妻鏡によると、これは「これから何か怪しい現象が起こる」という明確なサインなんです。
つまり、高畑勲監督としては、この20秒間、蝶が飛んでいるシーンを見せただけで、
「この男たちは、今、魔法に掛かりましたよ」という状況を説明できたと思っちゃってるんですよ。
「そんなこと、日本人だったらわかるだろ?」とばかりに。
僕なんかは「悪いけど、高畑さん、それ、無理だから」って思うんですけども(笑)。
・・・
要するに、この瞬間、5人の貴族たちは、かぐや姫のチャームの魔法に掛かっているんです。
もちろん、噂を聞いた後、かぐや姫のところへ牛車レースで行った時は、単なるスケベ心なんですよ。
ところが、かぐや姫と会えるとなって、琴の音と肉声を聴いた瞬間に、彼らは魔法に掛かっちゃった。
そして、その後は、かぐや姫から押し付けられた無理難題に、ひたすら誠意を持って答え続けるハメになります。
ある者は海中を旅をしたり、ある者は命を掛けてツバメの巣を高い所から拾おうとしたり、
ある者は財力の全てを掛けて偽物を作ろうとした。
偽物を作るのは、やってることはダメなんだけど、ただ、熱意だけはものすごいんですね。
なぜ、彼らがそんなに熱意を注いだのかと言うと、
かぐや姫によってチャームの魔法を掛けられてしまったからなんです。
いわば被害者なんですよね。 この蝶のシーンのコンテには、「ものみなくっきりと鮮やかさを増し、まるでLSDか何かの覚醒作用が働いたかのよう」
という指示が、ハッキリ書いてあるんですよ。
高畑さんとしては、「ある種の幻覚作用が働いている」と描いてるんです。
・・・
貴族たちだけでなく、親代わりのおじいさんについても
「かぐや姫の望みを無視して、通俗的な幸せばっかりを押し付けてるクズだ」と言う人もいるんですけども。
かぐや姫に対するおじいさんの愛情というのも、かぐや姫の幻術の影響の1つなんですよ。
だから、おばあさんには掛からないんですね。
嫗はかぐや姫のチャームの魔法に掛からないからナチュラルに接することが出来るだけ。
それに対して、翁の方は、まともにかぐや姫のチャームの魔法にかかってしまったので、
タケノコの幸せだけを延々と思ってしまうんです。
不幸があったとすると、彼女を幸せにしようとした結果、5人の貴族と同じように、
自分が思いついた稚拙な方法しかできなくなっちゃっているところです。
これはなぜかというと、当たり前ですけど、チャームの魔法によって知能指数も下がっちゃってるからですよね。
「タケノコの幸せだけを願っている」と言いながら、翁がやったことは、
かぐやの幸せには直結していないという現象は、マタタビで興奮してる猫がいくら周りによってきても、
脇の下がマタタビ臭い人が幸せにならないのと同じですね。
ちなみに、この幻術は男にしか通じません。
だから、家庭教師の相模っていう嫌味なおばさんには全く通用しませんし、
村の女の子もタケノコに対して一貫してフラットな態度です。
タケノコの家で雇われている侍女たちも、タケノコに対して態度が変わったりしません。男ばかりが変なんですよ。
「それは、彼女が美人だから」って、アニメを見ている人は、ついつい思っちゃうんですけども。
この蝶々のシーンを見逃さなければ、何か特殊な能力が発動しているというのがわかります。
・・・
結果として言えば、『かぐや姫の物語』というのは、
「かぐや姫の魔力から捨丸兄ちゃんだけが助かる」という話なんですよね。
実は、かぐや姫というのは、言い方は悪いけど、捨丸兄ちゃんもチャームの魔法でたらしこんで、
「一緒に逃げよう」と言わせることになったんです。 だけど、一緒に空を飛んで逃げる最中に、後ろからでっかい月が現れて、
「バカヤロウ、かぐや姫、見てるぞ!」って感じで、
“罰当たり光線”が発射されることになるんですけど。
それに当たったかぐや姫と捨丸兄ちゃんは「あぁー!」って落ちてしまうんですけども。
なんと、月には“時間戻し”の能力まであるんですね。
結果、記憶はあるんだけど、そんなことはなかったことになってしまいます。
でも、この駆け落ちは、本当にあったんですよ。
だから、「かぐや姫がそこにいた」という証拠は残るんです。
その後、奥さんと子供が近づいてきた時に、捨丸兄ちゃんは慌てて誤魔化して、子供を抱きかかえるんですけども。
コンテには「妻の目を見ないようにしている。やましい。妻も何か気づいているが、言えない」って書いてあるんですよね(笑)。
つまり、捨丸兄ちゃんは月の光によって助けられたということなんです。
そういった、「バンパイアに噛まれずにすんだ」みたいな話になってるんですよね。
この辺りのかぐや姫の丁々発止の面白さ!
実は、かぐや姫の「私は私らしく生きたい!」とか、
「そんなの私の幸せじゃない!」みたいなセリフから読み取れるテーマと、
絵としては何が描かれているのかという部分の両方を見ていると、
この『かぐや姫の物語』が持っている、ものすごく複雑な構造がわかってくるんです。
ここら辺のレイヤー構造を、さすが最後の作品だけあって、高畑さんはメチャクチャ上手く組んでるんですよ。 (^^;)あらためて高畑はへどが出るような理屈親父なんだなあと思いますね。 宮崎アニメへの容赦ない反論としての『かぐや姫の物語』
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』ですけども、このアニメの何が凄いのか。
常識なんですけど、実はこの作品の原作は 竹取の翁 の物語なんですよ。
本来は 竹取の翁 の物語が、かぐや姫の物語にされたっていうのが最大ポイント。
つまり、これは お爺さんが主役の話なんですよ。
本来は お爺さんが主役の話を、女の子の方を主役にしちゃった。
元々は竹の中に赤ん坊がいて、その子を育てていたんだけども、その子が月に帰っちゃったと。
本来は、残される方の寂しさとか切なさを描いてたんですね。
この枠組みっていうのは、元々は “貴種流離譚” といって、神様とか英雄とかが、自分の生まれ故郷を追放されて、彷徨って、試練を克服するとか罪を償った結果、尊い存在になって元の国へ戻るってやつ。
これは世界中である神話の、貴種流離譚の枠組みになってるんですね。
なので、たとえば『スターウォーズ』でいうと、アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに落ちてダース・ベイダーになったと。
そうするとルーク・スカイウォーカーが、そのアナキン・スカイウォーカーが落ちたダークサイドの誘惑に勝って、そしてちゃんと英雄になるんだっていう。
このスターウォーズも、貴種流離譚の枠組みに入ってるんですよ。 なので、かぐや姫っていうのは本当は “より良き神”になるために、地上で苦労をして、罪を償って、天上に帰るっていう必要があるんですね。
それで お爺さんっていうのは、その場に居合わせて、たまたま姫に心を移してしまい、好きになってしまって尽くそうとした結果、悲しい目に会うと。
それが民話的な構造です。
これが全世界に共通の民話的な構造なんですけども。
しかし高畑勲はですね、貴種流離譚で この かぐや姫 の方を主役にするという、わりとこれまで『竹取物語』を扱ったりアレンジした中で、誰も思いつかなかった大転換っていうのをやるんですね。
なんでかというと、高畑勲にとってこれは『おもひでぽろぽろ』のリベンジだからです。
これはどちらかというと現代の女の子の話で、テレビの中の東京に憧れて、東京に出てきて、また田舎に戻るみたいな話って考えると、この『竹取物語』をどれぐらいダイナミックに変えようとしているのかっていうのが分るかと思います。
それで同時にですね、これは『天空の城ラピュタ』のアレンジなんですね。
ストーリーではなく、構造として。
パズーが翁で、シータが かぐや姫。
??
シータを主役にした『天空の城ラピュタ』っていうのを考えてみたら、こういう話になるんですよ。
天から女の子が降ってきて、「何があっても守るぞ!」と決意したパズー翁ってヤツがいてですね(笑)。
しかし、シータかぐやは、貴族たちドーラ一家とか、帝ムスカにさらわれてしまいそうになると。
そして、ついに天空の城ラピュタにシータだけ帰ってしまうっていう(笑)。
その時にシータは、都合のいい事を言ってくれないんですよ。
「人は大地に生きなければいけないのよ」っていうふうに言うんですけども、ラピュタの光がピカンと光ると「いや、それは気のせいだったわ」と言ってラピュタに帰ってしまうっていう、現実的な話を描いていると。
おまけに高畑勲っていうのは、無類なまでに登場人物の誰にも感情移入をしない作家なんですね。 登場人物の誰かに自分の本音を言わせたり、信念を言わせたりするのではなく。
登場人物に感情移入はしないし、『火垂る墓』でも話した通り、「見ている人も、登場人物にあまり感情移入しないでくださいね」って言う作家なんですよ。
なので、キャラクターが発しているセリフにテーマを探してはいけないと。
たとえば かぐや姫は、不老不死の、死のない世界から来たんです。
お釈迦様が仏門に入るようになったキッカケというのが、この世の中には四つの苦しみというのがあるのだと。
生きる苦しみ。
老いる苦しみ。
病気になる苦しみ。
??死ぬ苦しみ。
この四つの苦しみがあるからなんですよね。
でも かぐや姫は、こういう四つの苦しみが無い、死のない世界から来たんですね。
お月様っていうお釈迦様の世界から来たので、“生きる苦しみ”っていうのを “生きる喜び” だというふうに捉えてしまったんですよ。
人間は、元々は命が有限で、いずれ死んじゃうからこそ 「生きる事は喜びだ」 っていう幻想を持っていると。
でも不老不死の月の世界の人たちは、「生きる事は喜びだ」なんていう幻想を持たなくて済むんですよ。
死なないんですから。
で、この大構造が見えてないと、『かぐや姫の物語』って変な事になっちゃうんですね。
“生きる喜び” っていうのは、死ぬ事が避けられない運命である人間にのみ与えられた幻想なんですよ。 「いつか死ぬんだ」と思うからこそ、「“生きる事は喜びだ”と考えないと、やってられねぇよ!」っていうのが人間ですから(笑)。
なので、もちろん穢れた地上に憧れた事も罪なんですけども、その地上に生きて穢れたものを味わって、その結果、月に帰りたいと思うと。
これが、罪と罰の “罰” ですね。
これは第一段階の かぐや姫 の罪と罰です。
その後で「いやいや、でも やっぱり私は地上で生きたい」と願っても、それは麻薬中毒者が一時期「麻薬をやめる!」と決意して、また麻薬をやるっていうのと同じなんですね(笑)。
お医者さんである月の人たちは、「そんな かぐや姫の世迷い言は、聞いてられない」っていうのが、不老不死の世界から見た、穢れた世界を見るときの見え方なんですよ。
??
穢れた世界がいけない というのではなくて。
“穢れた世界” っていうのが どういうものかっていうと、穢れたものを食べていて、盗んだ瓜とか、殺した雉とかを食べる穢れた世界だからこそ、人は死んでしまって。
人が死んでしまうからこそ、そこに生きる喜びっていうのを無理やり見つけなきゃいけないんだけども。
「私たちは、そんな事は最初から考えなきゃいいじゃないか」って世界観だから、本当にギャップがものすごいんですね。
じゃあ、かぐや姫っていうのは、どうなるのか?
あのまま月に帰ったら、どうなっちゃうのか?
不老不死で過ごすんでしょうけども、あの不思議な、月で ずーっと歌を歌って泣いていたご婦人と同じく、毎日わらべ歌を歌って泣いて過ごすようになるのかっていうと、違うんですね。
もっと壮絶な運命が かぐや姫には待っています。
それは希望であるかも分からないですし、絶望かも分からないと思います。
詳細は後半でw 【氷川教授の「アニメに歴史あり」】第4回 固い空間・柔らかい空間
高畑勲監督逝去で考えた話を、もう少し掘り下げてみたい。最大の疑問は「『アルプスの少女ハイジ』(1974)で空間を緊密に固めたのに、なぜボカシと余白の日本画調を選ぶように変わったのか」ということだ。
高畑監督には「十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの」(徳間書店)という著書もあり、「かぐや姫の物語」(2013)で実践したのは当然ではある。劇中、姫が鳥獣戯画めいたスケッチを描くカットでもそれを示している。
しかし気になるのは、晩年の高畑監督が「アニメの閉鎖性」に苦言を呈していたことだ。アニメを含む娯楽映画が情報を盛りすぎるようになった結果、解釈の振り幅が乏しくなって想像力が囲いこまれてはいないか。
映画の機能にも「共感」や「感動」ばかりが求められ、観客のほうで触発されて思考する余地がなくなってはいないか……。
??
自分にとっては概要そんな問題提起だ。
これは筆者の中では、安彦良和インタビューで聞いた「先にレイアウトで空間を決めてから芝居という作り方が信じられない」という話につながっている。
「機動戦士ガンダム」(79)は高畑勲・宮崎駿コンビの「ハイジ」と「母をたずねて三千里」(76)から大きな影響を受けた。両作に絵コンテで参加した富野由悠季監督自身も「人間を描く」という点でそれを語っている。
??
そして実はアニメーションディレクターとして作画面を支えた安彦良和にも、影響は大であった。
アニメーターが背景原図と動きの軌跡を描くことでマッチングさせる「レイアウトシステム」自体は古くからある。
だが「ハイジ」にシンパシーを抱いた安彦が調べたら、同作の場合は宮崎駿が原図を描くだけではなく、演技のガイドとなる最低限のラフを入れる手法だと判明した。
これを応用すれば、安彦良和1人で1話分の原画制作も可能だ。それが「機動戦士ガンダム」における作画の革新だった。 それには「作画監督(原画修正)」という作業が虚しくなった述懐する安彦の心情も作用している。
キャラクターが統一されていれば、修正は本来必要ない作業だ。部分修(正)ならともかく全修(正)なら、原画を捨てたも同然。
それを避けたいという事情も含めて開発されたシステムで、レイアウト(原図)とラフ原画を1話分全カット先行して安彦が描き、その代わり修正は入れないことにした(入れても必要最小限)。
テレビシリーズでは第1話など限定された回で採用され、完成を見るのは動画マンを原画マンに昇格させた第19話「ランバ・ラル特攻!」であった。
このシステムが劇場用新作で本格稼働したとき、ムックで第一原画として紹介したのは他ならぬ筆者なのだが、やがて長編をこの手法で作れるという実証作業でもあったという。
事実、安彦良和初監督作品の「クラッシャージョウ」(83)では2時間を超える映画の大半のカットのラフ原画を1人で描ききり、世界的に見てもレアな事例となっている。
??
さて、そうなると矛盾が気になる。現在「クオリティ主義」のため主流になった「第一原画」「第二原画」のシステムは、筆者なりに「ハイジ」「ガンダム」の進化形だと理解していた。
ところが安彦良和がそれに違和感を覚えたことから、思い違いだと分かったのである。安彦流の描き方は、絵コンテ上でもっとも大事な瞬間のヒトコマから始まる。
そのとき、「キャラクターの眼」を重視する。たとえばシャアはアムロを殺意の目線で見つめ、アムロはそれを受けて殺意を返す。
両者の眼は空間上の一直線で結ばれ、コマ単位でドラマが発生する。これが決まれば後は自然に描ける。剣を交える手前、交える瞬間、かわしていく動き。
目線のラインを基軸に動きをつけることで、前後は自動的に決まるという。観客は主に「眼」しか見ないので、その最重要な部分からアニメートするわけだ。
??
こうしてラフ原画がそろったら、そのための舞台として原図を後から描く……と言われて、筆者は「あっ!」と驚いた。それはガンダムのレイアウトでは、なぜか原画の2枚目、3枚目と途中に原図が描きこまれたカットが多く、長年疑問を覚えていたからだ。 まさかキャラクターの芝居が先に決まっているからだとは。
しかし「アニメーター」であるならば、動きを先に描き、目線に生命を宿し、そこから世界を創造していくという順番は、言われてみれば理にかなった発想法なのだ。
まず「動きあれ!」ということである。
90年代以後「アニメはやらない」と言い続けてきた安彦良和が総監督に就任した奇跡の作品「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」(15〜18)の取材では、
「現場ではレイアウトという言葉を禁止した」と聞いて「やっぱり」と納得した。絵コンテの拡大コピーで作業を進めたが、問題ないという。
それが30数年前のシステムと同じ機能をはたしているのであろう。始めた人だからやめて、別の方法をとれるということでもある。
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誤解ないようにしたいが、筆者としては「空間先行」の作り方を否定してはいない。すべてのアニメーターが宮崎駿や安彦良和のように動きと空間を一体として把握できない以上、必要であろう しかし近年、3DCGでレイアウトや人物のガイドを出すことが主流になると、機械化されたカチカチの空間にキャラクターを閉じこめるようにも見えて、作品によっては若干の違和感と危惧も同時に覚えるようになってきた。
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と、ここまで考えたとき、脳裏にひらめくのは先述の「かぐや姫」の映像である。姫が絵を描くカットとリンクして、「籠に閉じこめられた鳥を解放する」というショットが入っている。
もちろんストーリー上は「都という制度の檻に封じこめられた姫の解放」の暗喩だが、それをボカシと余白の多い映像で見せることは「表現と内容の一致」につながっている。
高畑勲監督もまた「始めた人だからこそ、やめたくなった」のではないか。そんなことも、映像の余白から想像できる。
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こうした連鎖の発見が自分なりの「アニメの楽しみ方」なのである(敬称略)。
http://anime.eiga.com/news/column/hikawa_rekishi/106435/ https://twitter.com/miraikonishi/status/1002414151963037696?s=19
ラセターのセクハラや偏狭で横暴な振る舞いがいまになって次々と明るみになっている。
「アロハシャツを着た愉快なおじさん」は、周到に作られた虚像であるらしい。
実は、かつて単独取材のときに「カーズ」をやんわりと批判したら、理不尽にキレられたことがある。 今年のはじめに宮崎駿さんと立ち話程度にお話しさせてもらう機会があって、そこで僕が今27歳であると伝えたら「27年なんてついこの間だね」と言われた。それはほんの与太話だったけど、まだまだ先は長く、続けていくことの大事さを教えてくれたような気持ちでいる、勝手に。
これ多分草取りだろ ロリコンは誘拐犯!!!!!!
ロリコンは殺人犯!!!!!!!!1
ロリコンはこの世のクソ野郎!!!!!!!!!!とっとと逝け! くそロリコン野郎!!女児誘拐殺人ばっかしやがって
ロリコンは誘拐犯!!!!!!
ロリコンは殺人犯!!!!!!!!1
ロリコンはこの世のクソ野郎!!!!!!!!!!とっとと逝け! 新作の絵コンテはクライマックスを迎えてるころ?それならプラン通りオリンピック前に公開もあり得るか
Pからすれば宮崎駿はほんとありがたいな >>619
どうかな。
まあ、普通に考えると
ハヤオが描き直すとか言い始めて
トシちゃんと揉めてるところ。 ジブリ美術館の短編もあと2本残ってるし
長編と並行してやってほしいわ >>623
ジブリ美術館は
当初月1で短編入れ換える計画でいまちょうど10本できてる。
この前、鈴木さんが宮さんにボロを3部作にして
あと二本作ったらどう?って言ってたわ。 高畑はギャグを入れたつもりで、古い人間でさえ笑わないほどすべってると
岡田が言っているが、
よほど江戸時代か何かの別世界に逃避している人なんだね >>624
へー
もともとボロ一本で長編一作を作るつもりだったくらいだから、いろいろアイディアがあるんだろうね 死ね!!!!!!!!!!エロリコン!!!!!!!!!!! >>624
なるほど
個人的には最後の出撃、鉄砲侍、ジジ、カルシファー、巴御前の物語・・・キリがないな(^^; >>605
草刈り行ってみたいんだけど、淵の森だよりが更新されてなくてどうすればいいんだろう・・・ >>630
それで飯食っていけるんだからどんどん考えるよ 実況でも、瓜盗んで2人で食べるシーンは、破瓜だってみんな叫んでたし
後これも実況で教えてもらったけど、空飛ぶシーンもあれだって言ってる人いたけど
読み解ける層の人は少しはいるみたいだけど それと、かぐや姫が雪道で倒れたシーンを夢落ちじゃない根拠として、
妖精が舞っているから
月が介入したって教えてもらった
実況で 岡田斗司夫の解釈は深読みかもしれないけど、なんにしても高畑勲は深く考えてはいると思う
でも、深い映画がいい映画というわけではない >>635
いつもは基本的に岡田の妄想だけど、今回は全て高畑のコンテに明記されてるからなぁ。 >>637
深読みはしてるよ。
ただ、普段は個人の洞察による深読みであるだけなんだけど、今回はコンテに証拠が明記されてるってだけ。 >>625
いや岡田の方が寒い事言って信者しか笑ってないし。
高畑監督は関西系の笑いはセンスあるよ。
チエや山田くんとか上手かったし。 マサル(紳助ver,)の「チ↓エ〜〜↑」ってムカつく呼び方好きだったわ 人間活動を緩和させられるような映画作ってほしいな。温暖化による災害やら戦争やら
食料不足でしにたくない。 >>642
もしそれら全てが故意に引き起こされるとしたら・・・ >>624パヤオがだらだら作るより、尾田栄郎か平野文鳥を読んで作らせた方が早い。 人間は嫌いでも幼女は大好き
ロリコンのキモブサメンは死ねよ^^;
ロリコンのブサメンは死ねよ^^; ロリコン活動を緩和させられるような映画作ってほしいな。キモメンによる誘拐やら
レイプやら殺人で幼女がしにたくない。 要するに高畑は、月の世界の奴らは人間世界の苦労の大切さも知らない赤ん坊野郎だと言ってるんだ。 >>642
バルタン星人が「宇宙船で地球まで逃げたのが30億人いる」とか言ってたが
ほとんどは冬眠状態になって、食料とエネルギー節約している設定らしいね
そういう形の未来設定なアニメが作られるかもね >>642
そこを意識して作られた良作はたくさんある。が、それを良しとは思えない人たちが奪うことに血眼になり災害や戦争が起こされていく 要するに高畑は宗教を批判するガチガチの共産主義のイデオロギーの奴なんだ 千と千尋の幻のエンディングについて、出てる情報よりもうちょい詳細なところを話したいんだが聞いてくれないか 寝れないから投下しておく。許してくれ。
絶対見たことがあるしモヤモヤするから、覚えている範囲でもうちょっと詳細に。
最後のシーン、車が出発して冒頭の千尋が後部座席に乗っているシーンに戻る。
母親が「キレイな髪留めね、それどうしたの?」(セリフは少し曖昧
千尋は、髪留めを確認して、うーんと、思い出せないといった表情をしていたと思う。(名前カードに関する下りもあったような気がする
この車内のシーンで、引越し業者のトラックついている旨を母親が父親に伝える。
そのまま、冒頭のシーンの一本上の道を走る(冒頭とは逆方向に進行
家の前にはトラックが着いていて、青い作業服の引越し業者が作業をしている。
(庭先、道の反対側にトラックを寄せている、トラックの左側はガードレール、高台の突き当たりに見える場所。冒頭、一本下の森に差し掛かった時に停車したのは、家がつきあたりにあるからだと考えてる。
ここで、既出の引越し業者の下りがある。
そこから既出の小川までのシーン
千尋「ねえ、散歩してきてもいい?(的なニュアンスのセリフ」
母親「早く帰ってきてね、引越しの片付け、まだ終わってないんだから」
千尋「はーい」
ここから、小川を見つけ
千尋「こんなところに川がある...」(とセリフがあった気がする。
ここで思い出したようになり、終了だ。
ハクが転校してくるシーンがあったような気もするんだが、ブレイブストーリーも見た事があるので、似たようなシーンだから確かだとは言えない。
絶対に見たことがあるんだよ、しかも劇場公開1週間以内ではない。話題になってから見にいった。
地方だから最初のフィルムを使っていた説もあるけれど。
現実世界に戻る過程は、幻のエンディングのラストまで続いていたんだと自分は思っている。 千尋俺もそのシーン劇場で見た記憶あるから本当に不思議 >>657
人間の記憶って不思議だね。
一応岡田斗司夫もゼミでその噂を取り上げたことがあって、作り手側に取材掛けてもそれらのシーンのコンテもセルも描いたという
アニメーターも出て来ないから、都市伝説に過ぎないと一蹴してたよ。
もしホントにフィルムがあったら、それ俺描いたよってアニメーターが出て来ない筈ないから、噂にすぎないって。 >>660
先行上映とかじゃなくて、一般の劇場で千尋を見たのは間違いない
ただまあ、多分そんなシーンないんだけど、ものすごくあった気がしてるw
記憶って不思議だなあw 大した違いじゃないし、
スレチなんだけど似たようなのがあったなぁ。
ゲド戦記の原作3巻のラストシーンは
俺の頭の中ではゲドが船の上から
いい王にならん事を!と叫んで手を振っている。
でも読み返すと頬にキスしながらそれを小声で言ってる。 年代とその時住んでた地域を思い出せばだいたいどこの映画館で見たかなんて分かると思うけど
都市伝説とごっちゃになって混同しちゃってるんだね
記憶はほんとうに適当に嘘をつくもんだ 俺いい歳だから、映画館の名前だってはっきり覚えてるからw いい年こいてジブリを楽しんでる奴は
童貞くさく頭が逝ってるタイプの奴が多い
やばい ベネチア映画祭審査委員も道程臭くて頭いっちゃってるんだろうなw ベルリンなんて金熊だからなぁ。
頭がおかしいどころの騒ぎじゃないよな、多分。 「ミヤザキサーン。ボクをジブリに入れてクダサーイ!!」 てか、そこまで鈴木敏夫のシナリオだったらどうする?
ラセターは欲しい、でも、ね、カネはない。
で、どうしたかって言うとね、ちょうどその頃、アメリカはセクハラ問題で映画業界が凄い事になってて、
ボクはそれをうまく利用できないかって考えたんですよねぇ。 ジブリにピクサー級のCG映画を作る機材や資金があるのか? ラセターが手書きで書くに決まってるだろ
ジブリ来るならw 児ブリ「環境破壊するゴミ人間どもは死ね!美幼女は生きろwブス幼女も死ね!w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています