映画「GODZILLA 怪獣惑星」ゴジラである必要性のない凡庸なSFアクション
この作品は最初からゴジラを想定して書かれた物語なのだろうか。

観終えてすぐに抱いたのが、そんな疑問だった。
本作に登場するゴジラには、これまで私達が抱いていたゴジラ像が
風貌と咆哮を除いてほぼ残っていないし、もっと言えばゴジラである必要性がない。
人間以外の生物が地球を支配する物語を展開するのであれば
「エイリアン惑星」でも「モンハン 恐竜惑星」でも
「コング 猿の惑星」でも成立する。
プロットの段階では未知の生物を想定して書かれていたものに
東宝が横槍を入れてきたので首だけすげ替えてゴジラ映画にした。
そんな気すらしてしまうのだ。
「怪獣惑星」は、ゴジラ愛を感じない。
ただそこにあったSFの脚本にゴジラを乗せてみた、というだけである。
SF映画として観ても、現在の地球の状態やゴジラの生態、
ゴジラ討伐における作戦のグダグダ加減など粗ばかりが気になって
どこに力点を置いたのかが良くわからない。
人間ドラマならばキャラクターの描写が薄過ぎるし
アクション映画ならばほぼ動かないゴジラでは観客は満足すまい。
これでは虚淵ファンもゴジラファンもどちらも納得しないのではないか。
「亜人」のアニメ版では人間っぽさが希薄であることが
プラスに働いていたが、本作では明らかなマイナスになっている。
ギレルモ・デル・トロの「パシフィック・リム」や
ジョーダン・ボート=ロバーツの「キングコング 髑髏島の巨神」
ギャレス・エドワーズの「ゴジラ」など、
近年の怪獣映画は、海外制作のものでも怪獣やゴジラへの愛に溢れた作品が増えている。
レジェンダリー・ピクチャーズは2019年公開予定で
モスラ、ラドン、キングギドラが登場する「三大怪獣 地球最大の決戦」も準備中。
こんな状況で、よりにもよって日本制作のゴジラがこれで良いのだろうか。
圧倒的な強さの前に為す術もない人間の非力さを描くのあれば
主人公がそこまでゴジラにこだわる理由を掘り下げる必要があったし
リーダーに抜擢されたならば、それなりの能力を発揮してくれないと困る。
ややネタバレになってしまうが、映画の終盤で戦闘を終えたところで、
多くの仲間を失ったばかりの主人公が
「もうパターンは見切ったので次はもっと上手くやれるさ!」と
威勢の良い台詞を吐くシーンがあり、あまりの無責任ぶりと
現状把握能力の欠如ぶりに眩暈がした。
アニメであってもそこに居るのは人間ではないのか。

第二弾の「決戦自動増殖都市」は2018年5月公開らしいが、
これを観て次も必ず劇場で観なくては!と思う方がどのぐらいいるだろうか。

映画「GODZILLA 怪獣惑星」は本日公開。