【伊藤計劃】屍者の帝国・虐殺器官・ハーモニー8 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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意志を失うんじゃ無くて、意識を失うってことじゃ無かったっけ 意識を失ってたらそれじゃただの植物人間
ミァハの一族のように一見普通に意思があるように見えて合理的な選択のみを行うロボットのような存在、そこに感情は何もない
人類全体が一個の思考に統一されたかのような世界になるわけだからあっという間に停滞する世界になる
不変性という意味ではかなり平和な世界ではある差別も争いも格差も無くなるわけだからな 蟻や蜂などの昆虫に近い存在になるのかもしれんな
集団の存続という目的のために、人々はそれぞれ最適化された行動を取るようになるのだろう
朝起きたら服を着て、食事時になればご飯を料理して食べ、割り当てられたスケジュール通りに勉学や技能獲得、仕事に励む
でもそれは社会を維持するために必要だから自明的に行われるのであって、個人個人には、意志も思索も葛藤もこれっぽっちもないのだ
言ってみれば、エヴゲーニイ・ザミャーチンのディストピア小説「われら」に近い世界なのかもしれん。かつてソ連が目指した理想社会が、伊藤計劃のハーモニーで実現されたのだろう 関係ないけど
ヒトは自分の意思で自由に行動してるように見えるが実は全て生体内の化学反応による必然的な行動って説が好きだよ その後科学技術の発展があるかどうかだけど、意思の有無が発想や閃きの有無につながるかは分からんな >>564
「意識を失う」という表現はたしかに日常的には「眠りに落ちる」「覚醒状態でなくなる」的な意味で使われるけど、
>563が言う「意識」とはそっちの意味ではなくて、
いわゆる自意識、自分が何かを感じたり考えたりしているという事が自覚されており、
自分の中にそのような主体が確かに存在しているという感覚のことでしょ。
ハーモニーの影響下にある人間からはそのような自意識は失われ、
外から見ればちゃんと何かを主体的に考えたり感じたり自分の意志を持って様々な行動をしたりしているように見えるが、
その内面にそのような思考や感覚や行動を意識している自分というものは存在していないんでしょ。
哲学的ゾンビというやつだな。 真に社会的な存在で構成される人類社会は一個の生命体のように振る舞うのかな
ハチやアリみたいに ふとガイア理論は発達したAIネットワークから殆んど無視されてそう 第四世界に生きる主人公達が哲学的ゾンビと化した一般ピーポーを狩りまくるサバイバルACTゲームとか出そうぜ 全てが自明で選択される世界において、人は自分の命を守るために行動するのか、社会の存続のために行動するのかどっちだろう? もし伊藤計劃が屍者の帝国を完結させていたらどんな物語になってただろうか? >>567
ハーモニーの「私」の喪失は、自我(私)の獲得も人間の進化によるからその機能を退化させる事も進化の道筋としてあるよって感じかな 屍者の帝国のストーリーって、端的に言えば、
「ヴィクターの手記」「ジャーンの書」には無数の解釈の方法があって、
それのせいでワトソンとザ・ワンとハダリーとフライデーとMとロシア人と日本人がそれぞれ食い違った解釈をして翻弄されていくというものだよな
これって要するに、伊藤計劃の残したたった数枚の原稿用紙を巡って、どう解釈したものかと円城塔と編集者が思案投げ首の体で何度も議論したという様子を暗喩したメタな話である気がするわ
つまり「ヴィクターの手記」「ジャーンの書」とは、伊藤計劃のなけなしの遺稿そのものを指すのだろう
小説のラストシーンでは、ヘルシング教授が「ジャーンの書」を指して、
「こいつも物質化した言葉の一種だ。あらゆる書物と同じくな。手記が勝手に存在するなら、書き手が存在する必要はどこにあるのかね?」
「考える時間は充分にある。結論を急がないことだ」
と言ってたけど、これは、
「伊藤計劃の遺稿について僕はこう解釈したけど、勿論他の解釈もあるんだよ。読者のみんなで考えていこうね」
っていう円城塔なりの問い掛けな気がしてならないんだよな
と、風呂に入ってたらそんな考えが浮かんだ なけなしの遺稿を元に円城塔が膨らませた話なのにそっからどうやって伊藤の考えを解釈しろと言うのかね Netflixで「虐殺器官」「ハーモニー」「屍者の帝国」配信してたんで3本続けて見た。
「屍者の帝国」がいちばん面白かった。「ハーモニー」がいちばんクソ。
「虐殺器官」は作画も演出も良かったんだがラストがクソ。 どこら辺がどうクソなのかを書かないと話題的に面白くないぞ 理想の虐殺ラストは何だろうか
ハリウッド的には、ルツィアを助けて愛の逃避行かな
ジョンを連れ帰って、院内総務と戦うシリーズ化を狙うラストもありか。
ジョンカーペンターっぽく行くなら、ラストは核戦争が起きてアフリカだけ無事って展開か >>596
伊藤計劃的にはあのラストがハッピーエンドだったのかもしれん
俺はもうすぐ死ぬから皆も一緒に死ね!死んでくれないならせめて小説の中で殺してやる!
っていうのが彼の願いであるような気が 原作のクラヴィスは最後自暴自棄というかヤケクソだったけど映画はもっと能動的だったよね
ルツィアの意思でない事は理解しつつ、自分の意思で虐殺文法をばら撒く
映画版はジョンをカフカの城に例えたオリジナルの独白が好きだったけどここの人的には映画の改変部分の評価ってどう? ヤケクソだったのはむしろ映画版で、能動的だったのが原作版だろ
更に映画版はジョンから明確に文法を託されている
しかも「それがルツィアの為でもある」的な事迄言わせているのに、結果それを裏切って虐殺の文法をばら撒いている
そして原作版のシェパードはバラード的世界に対するフェティッシュな感情を持っている点は描かれていないから
動機の全てがルツィアに対する恋愛に収束してしまっている
一方で原作版は、主人公はハナから終末世界の光景を望んでいた訳で、
その点においてはジョンの理想とかルツィアへの想いとかは実はあんま関係無くて、確信犯的行動だったりする 間違えた
ヤケクソだったのはむしろ映画版で、能動的だったのが原作版
映画版はジョンから明確に文法を託されている
しかも「それがルツィアの為でもある」的な事迄言わせているのに、結果それを裏切って虐殺の文法をばら撒いている
そして映画版のシェパードはバラード的世界に対するフェティッシュな感情を持っている点は描かれていないから
動機の全てがルツィアに対する恋愛に収束してしまっている
一方で原作版は、主人公はハナから終末世界の光景を望んでいた訳で、
その点においてはジョンの理想とかルツィアへの想いとかは実はあんま関係無くて、確信犯的行動だったりする >>599
私も劇場版のカフカの城のたとえは原作にない良い改変だと思う。
>>601
私は逆の印象かな。
クラヴィスは罪の意識を感じずに人を殺す兵士として、ルツィアの願った真実を伝えて、罰を受けなければならないとも思ってたんだと思う。
ただ、自分達以外の世界に地獄を押しつけて平和でいるアメリカ人も罪を背負っているのだとしたら、自分と等しく罰を受けなければならないと考えたのかもしれない。
作者は劇場版のパトレイバーが好きだったみたいだけど、後藤さんと荒川の会話のシーン(あのシーンは私も大好き)にあった「正当な対価を余所の国の戦争で支払い、そのことから目を逸らし続ける不正義の平和」が劇中のアメリカで、
「そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される」「神がやらなきゃ人がやる」のがクラヴィスだとしたら、あの結末はどうあっても避けられなかったのかもね
原作の方は、母親が自分を見ていなかったことに受けた虚無感(穴?)に、虐殺の文法が滑り込んできたって言ってる。
「ここ以外は静か」ってただの詭弁で、あれは「皆も自分と同じ虚無に落ちろ」って言ってるようにも読めた。
ああいう虚無的というか鬱のような心理的な状態って、感覚したひとじゃないと多分分からないものだと思うし、それを病魔に襲われた作者が味わっていたとしてもおかしくない。
だからヤケクソとはちょっと違うと思う。 漫画では、母親以外にも、死んだ隊員が
「お前の所為でみんな死んじゃったよ」
と言われて「ルツィアぼくを罰してくれ」と
母親以外に心変わりしたから、アメリカを滅ぼしたのかも ただし、強化形態で龍騎並みとやばいことになっている だが、オーディン並みのリュウガサバイブとも互角に戦うことができる 更により強力な形態が存在し、攻撃力は15000もある スーパーライジングアメイジングアルティメットを超える そういや虐殺は実写化の話があったと思うんだけどどうなったんだろうか ハリウッドならあんまり期待しない方がいいかもしれん >>644
ハナヤマタエグゼイド
関谷なる=宝生永夢
ハナ・N・フォンテーンスタンド=鏡飛彩
笹目ヤヤ=花家大我
西御門多美=九条貴利矢
常盤真智=檀黎斗
常盤沙里=パラド
笛田蘭=西馬ニコ
十二所わ子=檀正宗
山ノ下祥子=ポッピーピポパポ 俺の好きな桜坂のあれを糞USA映画にしたハリウッドは許さない 監督はパク・チャヌクって話だったから典型的なハリウッド映画にはならなそうだったが
でももう1年くらい新しい情報は来てないか >>648
あれは大分頑張ってただろ
オチはどうかと思ったが AYNIKはまあハリウッド的には娯楽映画としてまるっと収めたかったんだろうなとは思う
でも映画自体はそれはそれでよく出来てた
ちゃんと金かかってたし 虐殺器官をハッピーエンドにするのは、虐殺器官じゃなくする以外に方法が無い気がする。 個人的に伊藤作品の魅力は一人称での軽妙な語り口だと思ってるから
例えば『四畳半神話大系』みたいな、アレ以上にナレーション漬けでも良かった気がする
冒頭からラストまでシェパードが延々と早口でナレーションしっ放しみたいな、そういうのが観たかったわ 一人称での軽妙な語り口、といえば、最高作品はThe Indifference Engineだと思ってる
主人公はアフリカかどこかの内戦国の少年兵で、英語は話せるけど物は知らないガキという設定だからか、素直な文体になってる
地の文に難しい単語や教養を織り交ぜたり余計な装飾を凝らしたりせず、素直に心情を吐露しているぶん、子供らしい純粋さで鋭敏に研ぎ澄まされた殺意が表出していて好きだ
虐殺器官でお馴染みのウィリアムズが登場するシーンなんか、初見のときには大笑いしてしまった
ちょ、お前そこで何やってんの、みたいな
描写からして、SOCOMの特殊部隊員になる前の一般部隊の兵士だった頃のウィリアムズだろうな >>653
ハッピーの定義をクラヴィスにとってか世界にとってかで絞ればハッピーエンドには出来るんじゃないか クラヴィスのハッピーって何だルツィア生存文法ばらまくの止めるエンドか?
なにもしなければジョンの考え通りテロ頻発するだろうし
ジョンの後継げば後進国で相変わらず虐殺は続くどっちにしろ詰んでそうだが アメリカ合衆国にとってのハッピーエンドといえば、
クラヴィスたち特殊検索群i分遣隊の隊員たちがインドの地で一人残らず全滅し、ジョン・ポールがまんまとヴィクトリア湖へ逃げおおせ、相変わらず途上国で虐殺文法がバラ撒かるという世界が存続することだったろうな
俺もプライベートライアンの冒頭15分を観ながら、他人事のようにピザを食いつビールを飲みつ、余った食品をどばどば捨てて、
平和と豊かさを謳歌する人間だから、院内総務の気持ちはそれなりに分かる >>658
俺もウィリアムズに一番共感したわ
ビックマックを食べきれないと捨てる生活って言い回し好き ガサツなお調子者と思わせてある意味至極まともっつうか
クラヴィスより余程大人をやってたんだなあっていうシーンだな
関係ないけどウィリアムズはエスコン5のチョッパーを思い出す エスコン5らしいという指摘は言い得て妙だな
エスコン5と虐殺器官。両者の共通点は、一つの戦争を徹底して一人称視点で描いているということだろう
主人公が自分の目で見た光景だけが深く描写されているのだ
敵兵の視点、他の兵科や職種の視点、軍事戦略や政治など上部階層の視点、銃後の市民など下部階層の視点。そういった主人公以外から見た戦争の姿が、意図的に抜け落ちている
(一人称といっても、エスコン5の場合はIよりもWeの方が近いかもしれないが)
それに、まるで私小説のように淡白な文体で坦々と綴っていくというスタイルも、そっくりだ
このような手法はおそらくハンガリーの作家、アゴタ・クリストフの「悪童日記」から影響を受けたものだと思う
平和な日常が戦争に塗り替えられていく光景。路傍で焼け焦げる敵の臭い。ページの空白の中にまで染み込んだ硝煙と腐臭と消毒液の匂いが、読者の心を掴んで離さない
つまり伊藤計劃とエスコンは、同じ父親を持つ異母兄弟のような関係なのだと俺には思えてならないんだ
もはやウィリアムズのキャラクター性とは何の関係もない話を長々と書いてしまったが 悪童日記は違うだろ
あれは叙述トリックの為に、徹底して主観を排除した文体で出来ている
虐殺器官というか、伊藤作品は基本主人公の主観で、主人公がどう思っているかを饒舌に語る事で話が進んで行く
アプローチの仕方がむしろ真逆 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています