ゲド戦記
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原作だとゲドとアレンは世界の果てまで船旅してクモと戦うのに
映画では最初に立ち寄った町で全部話が終わるっていう
原作の改変ぶりが酷すぎる 昔はクソつまらないと思ってたけど
今見ると1周回ってかなりの名作だよな
もうこの時点で吾朗は明らかに駿を超えていた ゲド戦記 主題歌 『テルーの唄』
作詞 : 宮崎吾朗
◆1番 喪男の歌
老境が迫った男がいる。
同じような年頃の者たちはみな仲睦まじいつがいになっている。
しかし男はいつも独りだ。
傍らから見てひどくあわれな存在だ。
男は仕事によって高い地位と収入を得た。
しかし仕事に忙殺され、
大切な者たちとまともに交流する事もできなかった。
その結果皆が男の許を離れていった。
それでもなお男は仕事に囚われ、休む事すら能わない…
この心境を何に喩えろと言うのか──
虚空を一羽で飛ばねばならぬ鷹のごときこの孤独を
この悲哀と怨嗟を誰に訴えれば良いというのか… ◆2番 喪女の歌
地味な顔立ちでコミュ症の女がいる。
同じような年頃の者たちはみな仲睦まじいつがいになっている。
しかし女はいつも独りだ。
傍らから見てひどくみじめな存在だ。
女は結婚適齢期を過ぎ容色がだいぶ衰えてきた。
もはや遅いにもかかわらずなおも必死に化粧したり
かわいい女を演じている。
しかしまったく男に相手にもされず
今夜も寂しい身体を持て余している…
この心境を何に喩えろと言うのか──
自分は素晴らしいヒロインで、
将来はきっと素敵な男と結ばれるだろうと信じ続けてきた
乙女心の虚しさを
常に驟雨のような劣等感と自己嫌悪にさらされねばならぬ
この切なさと苦吟を誰に訴えれば良いというのか… ◆3番 仮面夫婦の歌
人生の下り坂を歩みつづけている者たちがいる。
同じような年頃の者たちはみな幸福な家庭を築いている。
しかし彼らはいつも独りだ。
傍らから見てひどくうつろ存在だ。
世の大部分の者たちは互いに親密に繋がり合い
人生の表通りを笑顔で歩いている。
対して彼らはすぐ傍にいて同じ生活を送っているにもかかわらず
関係が冷え切り、何も言葉を交わす事がない。
何の目的も希望もなく
人生の寂しい裏道を豚のように虚しく生きているのみである…
この心境を何に喩えろと言うのか──
険しく果てしない人生の長途を
独りで歩まざるを得ぬわが身の愚かさと卑小さを
この懊悩と寂寞を誰に訴えれば良いというのか… ぶっちゃけ吾朗はマジで天才だと思う
映画はクソつまらなかった。
ひたすら見ているのが苦痛でしかなかった。
一般的な視聴者はその皮相しか見ずに
口をきわめて批判する。
自分も最初に見た時は
(というかつまらなすぎて今に至るまで一度も見返していないんだが)
才能がない、くだらない、稚拙なつくりだと思い一顧だにしなかった。
しかし今にして思えば
吾朗は世間の批判に晒されるのを覚悟の上で
敢えてわざとつまらく作っていたんだろうと思う。
それする事で現代社会の空疎さ、
そこに生きさざるを得ない事の虚しさと苦痛を
作品全体を通じて余すことなく表現していたわけだ。 『テルーの唄』は、個々の尊重、価値観の多様化、
趣味嗜好の多角化、自由競争の推奨、
自由恋愛などといった美名のもとに
毎年のごとく人々の経済格差が開いていき
価値観の先鋭化、ネット通信の発達に反比例して
個人がどんどん孤立化していく
現代社会の闇を的確に掬い取った名曲だ。
そしてそうした現代社会の問題を、
ファンタジー世界にあって唄っても違和感が出ないよう
うまく翻案して作り上げられている。
作詞を担当した吾朗は天才だ。
その曲を唐突に作中でテルーが唄い始める。
1番だけで済ましておけばいいのに長々と2番まで唄う。
最初に見た時はヒマでヒマで仕方がなかった。
バカじゃねーのかと思った。
しかし歌詞の内容を見れば、なぜ2番まで唄ったのか明白だ。
1番は男(もしくは父親、高き者)の唄、
2番は女(もしくは母親、低き者)の唄で
対になっており、1番のみを唄ったのでは片手落ちであり
男女不平等になるからだ。
この唄は現代社会に生きる人々の孤独を唄ったもので
あの場面で作者は視聴者に対して
問題提起をしてみせたのだ。 この映画では都市部に住まう人々は
皆人生の目的も希望もなくゾンビのように無気力に暮らしており
悪がはびこり、人々は奴隷車に乗せられて売り払われていく。
にも関わらずそれに反抗する事もせず、従順にうな垂れて
手足に枷をかけられたまま運ばれていく。
人々に残されたわずかな愉しみは麻薬くらいのものだが
そのようなものをいくら行ったところで人生が好転するわけでも
何かを得られるわけでもなく
ますます泥沼にはまって転落し、
スラム町の路地裏で、誰にも見取られる事なくみじめ最期死を迎える…
そのような世界観だ。
原作のそれとはまた異なる生々しい荒廃感を持ったこの街は
バブルが弾けて経済が停滞し
以降は迷走と凋落の一途を辿る、閉塞感に囚われた
現代日本を表している。
2003年の労働者派遣法の大幅改正によって
派遣社員というみじめな現代の"奴隷"にされ
おそろしく低い賃金で死ぬまで長時間こき使われ続ける若者たち。
彼らは欧米のように会社や社会に反発する事も
徒党を組んで暴れる事もなく
ただ唯々諾々と上に従い
充実したまともな人生を築くだけの時間も余裕もなく
人生の貴重な時間と精神をすり減らして、
ただ機械のように毎日くだらない作業に従事する。
ないし心を壊して鬱病となり、
通院して抗欝剤と称する合法麻薬の常習者にされるか
社会に出る事ほ拒絶し、独り暗い部屋の中に引きこもり、
親に甘えて過ごすようになる。 彼らのせめてもの楽しみと言えば
スマホだのゲームだの漫画だのドラマだの映画だの音楽だの
アイドルだのオナニーだのSEXだの…
そのような何の意味も価値も生産性もない、くだらなさを極めた娯楽のみだ。
いくら金と時間をつぎこんだところで
何ひとつ自分が変わるわけでも
現実の生活に役立つものを得られるわけでも何でもない
ただむなしく時間と労力と金銭を浪費するだけの
妄想の世界への逃避行動だ。
自身の歪んだ精神性やみじめな生活を変えようともせず
そうした下らない娯楽に麻薬的に没入する
愚かな現代人のありさまを
吾朗はあの都市を通じてカリカチュアライズして描写したのだ。
親殺しをしたアレン、いつもは欝状態のくせに
剣を抜いた途端別人のような邪悪な表情に豹変して
喜々として人を斬りにかかるアレンは
親に反発して暴力や殺人を働き、高齢者を敬わず、
弱い者に対してはいじめを繰り返し、ゲームの中で殺戮を愉しむ
現代の若者の心の闇を表している。 そして吾朗は例のテルーの唄を流す事によって
晩婚化、非婚化が進み、加速度的に少子高齢化に向かう
現代社会の孤独を提起し
「いのちを大切にしない者なんて大っ嫌いだ!」
と、孤独ではあるが自分の意志と生活を持つ
一人暮らしのブス女に言わせた。
これは何を意味しているのか?
皮相のみを追っている視聴者は
主人公のアレンが、危険な行動をしている事を
咎めているもののように思い込んでしまうだろう。
しかし実際のところテルーとアレンに会ったばかりであり
殆ど彼の事を何も知らない。
テルーが目撃したアレンの危険な行為は
せいぜい人攫いの前で剣を振り回して逃亡させた事くらいのものだ。
ではテルーはなぜアレンという
現代の若者の闇を凝集させたようなシンボリックな存在に対し
何をもって「いのちを大切にしない者」と呼んで批判したのか?
ぶっちゃけここで吾朗はテルーの口を通じて現代人を批判したのだ。
「いのちを大切にしない者」とは
「自分の人生を真摯に見据える事なく、無気力かつ刹那的に
周囲に流されるがままに生きている」
大部分の現代人を指している。
その奴隷そのものの愚かな生き方を痛烈に批判してみせたのだ。
これらの視点に乗っ取って考えれば、
おのずとその後の展開や結末が何を意味し、
結局吾朗はこの映画を通じて何を訴えたかったかのかが
わかるようになるだろう。 リンクの歌声とゼルダの歌声のデュエット。
ピアノの演奏者は渚カヲル。
ハイラル城本丸にある上等なグランドピアノで演奏する。
マギアレコードの録音は当然原始的なアコースティック録音で録音がなされた。
ダイレクトカッティングと同じ要領で、原盤に吹き込むため、失敗すればすべてやり直しとなる一発勝負であった。 クシャナの「おまえが私の死か」のオマージュが軽過ぎる 再上映やってるけど、対策無しでソーシャルディスタンスを十分確保出来る作品だね。 さすがに絵だけはもののけ姫より綺麗だったよ
もののけより9年後の作品だから当たり前だけど 観てきたぞー とにかくわからないことが多かった
・真の名の支配の効力?範囲?なんでも命令できるわけではないのか
・竜という存在の立ち位置。死んでも死なない?生き物なの?
・テルーは何なの?多分竜なんだけど
なんで人の姿で生活してるの?親に捨てられた???
・アレンはなんで王様殺したんや?なんとなく不安だったから??
・始まってから主人公把握するのに少しかかったで題名もゲド戦記だし
・結局何の話だったんや?
「アレンは死が不安だった」→「死があるから生があると悟った」に見えるけど
どっちの状態でも結果は「王殺す」→「クモ殺す」で変わってない
・狂気アレンは目赤く光らせるとか
ハイタカ魔法の時魔法陣なり紋切るなり
ケレン味ある演出してった方が良かったのでは
・場を繋ぐためだけのアクションが目についたなあ
俺に思われるくらいだからあまり上手くないんだろう
ゴローには期待してる。世の中を驚かせてくれ。
公開中なのにスレ伸びんな あと、話の都合だろうけど行動がおかしいのはやっぱ気になる
・危険だとわかっているのにハイタカは街でアレンを一人にする
・アレンが悪夢を見る前まででアレンは何度も寝てるけど悪夢見ない
・テルーは家で待ってるはずだったのにクモの城向かう。
なんでそのタイミング?直後じゃ駄目なの? >>759
海がきこえる(1993年)- 脚本(中村香名義)
ゲド戦記(2006年) - 脚本
借りぐらしのアリエッティ(2010年) - 脚本
コクリコ坂から(2011年) - 脚本
風立ちぬ(2013年) - 協力
思い出のマーニー(2014年) - 脚本 良かったことを書こう
音楽の入れ方は悪くなかったと思う 岡田准一のイケメンボイスが魅力の一つ
手嶌葵は歌は良いけど超絶棒読みが難点 そりゃあ宮崎のようにイメージが豊かな人間はラジオドラマもいいんだろうよ >>762
岡田准一のイケメンボイス…?
まだキムタクの方がイケボだろ 今見てる途中なんだけど
面白くなりそうな所で
ずっと面白くならないって
ずっと寸止めされてるみたいだな 開始直後にいきなり船乗りとは思えない格好の連中で思わず吹き出しそうになった
一番の笑いどころはヒロインがいきなり歌い出した場面
歌うのは構わんけどあまりに棒立ちで歌ってて映画館で笑いを堪えるのに必死になってた
まさかジブリ作品でここまで絵の表現が足りてない作品が観れるとは思わなかったからある意味記念すべき作品な気はする ゲド戦記でハイタカがヤックルに乗って歩くシーンが作画崩壊かと思うくらい下手でビックリした
子供の絵かと思うくらい平面的な作画でヤックルの歩き方も不自然にカクカクしてた ボロクソに言われるけど
テルー以外は普通に声優上手い アカペラで歌い出して
ああ、これが例の・・・と思ったらまさか二番まで歌い続けるとは思わなかった >>773
それあるね
「歌聞かせたい、きれいな画面見せたい」て意図だろうけど
尺取ればいいってもんではないと思う
視聴者がどう感じるかって立場で作ってほしい >>774
画面は綺麗なんだけど
表現は稚拙って感じなんだよなあ ゲド戦記の特報だけセリフが流れないのは
棒読みがバレるから? っていうかこのスレ立ったの2008年…12年も前というのに驚き
過疎ってるし未だに埋まらないのは何故だ せっかくだから見てみた
いったいどこで話が盛り上がるのかとまだかまだかと見ていたらたいした盛り上がりもなく終わったw
話しも地味だし画面がずっと茶系か紺系かで色味も暗すぎて暗すぎて
エンドロールで監督名が駿じゃなかったからあーよかったと
これで監督宮崎駿だといわれたらさすがにやばすぎでしょという映画だったわ 大御所俳優っぽいな、菅原文太っぽいな、でもこの頃生きてたかなでスタッフロールの答え合わせで満足した。 この映画、アニメ本来の良さを引き出す為に
敢えて線を省いたり背景をシンプルな作画にしたらしいけど
その結果、絵が雑という批判を受けることに… 吾朗は素人だから、この場合はプロの脚本家がフォローすべきところを全く仕事してない。
共同脚本の丹羽圭子はそれ以前にも脚本を書いていてるが構成の何たるかを理解していない。 ハジアとかクモとかウサギとか
鈴木の匂いがプンプンする場面がある 最後の別れはもののけ姫的だし
父親の作品の摘み食いが目立つ 世界の均衡が崩れようとしているからハイタカがそれを探る為に旅をしていたはずだが
クモを倒したからめでたしめでたしは意味が分からない いっそのこと城とか国王とか出さないで
町でウサギに襲われるとこから始めればよかったのかもね。 ゲド戦記原作者の反応(抜粋)
全体としては、美しい映画です。しかし急いで作られたこの映画のアニメーションでは、多くの細部がカットされています。
そこには『トトロ』の細密な正確さもなければ、『神隠し』の力強い、すばらしく豊かなディテールもありません。作画は効果的ですが、斬新さはありません。
全体としては、エキサイティングです。ただしその興奮は暴力に支えられており、原作の精神に大きく背くものだと感じざるをえません。全体としては、思うに、一貫性に欠けています。
映画の“メッセージ”も、やや強引に思えます。しばしば原作から引用してはいるものの、生と死、均衡などの言葉が、登場人物の行動が伴わないため、メッセージが説教くさく感じます。
原作にある倫理観も、映画では混乱をきたしています。たとえばアレンの父親殺しは、映画では動機がわからず、恣意的なものに見えます。影/分身に命じられたという説明はあとで出てきますが、説得力がありません。なぜ少年は2つに分裂したのか?
手がかりは何もありません。わたしたちの心の闇は、魔法の剣の一振りで追い払えるようなものではないのです。
しかし映画では、邪悪さはわかりやすく悪党という形で外部化され、魔法使いクモが殺されて、すべての問題は解決してしまいます。 クモとかウサギとかなんで動物の名前が
本名以外についているんだよと。
そういう動物じゃなくて物の名前じゃいけないのかと。 吾朗なんて今までのジブリ映画の材料を組み合わせて作っちまってるんだよ
女のドアップの顔が出てきたときはかえってわざとらしく見えたよ 世界の均衡が崩れてるんなら、アレンが父親を殺す前に、
アレンの心に邪悪な影が湧き上がってくる描写が必要だったな
あれでは唐突に殺したようにしかみえないな クモはあの剣を奪うために
アレンを不安定にしたわけじゃあなくと。
何か特別な魔法の剣ではあったようだけれども。 続編とかがあれば
こう漠然とした造りでもいいのかもしれないけども
そうでにないならまずい。
いわゆる布石回収をしないならば。 吾朗なんか映画を作る熱意も何もないね
「鈴木さんに言われましたから」という具合で アレン「ハイタカ」
ハイタカ「ハイタカで良い」
?
この会話要る? 本名はダニーだし。
たぶん
魔法使いとしてのハイタカと
大賢人としてのゲドなんだと思った。 芬蘭はK−3から15+まで全て親同伴でも不可能にしろ EOCSh12歳以上対象を12禁にして15禁復活を ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています