ゲド戦記
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ゲド戦記に詳しい人にしつもーん
アレンとテルーってどういう関係なの? ようやく録画したのを観た
今さら初見だったんだがなんだこれ…意味不明というか説明不足すぎだろ 「ゲド戦記」作者A・K・ル=グウィン氏死去 88歳 かなりショックだ
大好きな作品がもう続編は無くなるんだな あの作品はゴローがやるべきじゃなかったなぁ
ゴローがやれる作品は何かあるのかわからないんだけど >>684
ちょっとまった!
ゲド愛人?テナーのこと?
あの世界ではDT失うと魔法の力失くすんだけど 原作好きすぎて未だにアニメ見れてない
多分一生見ない
そして見ない方がいいということも知っている 賢明だね
おれはジブリのためにわざわざ小説四冊読んでから映画みたんだよ
マジでヒドかった… 命を大切にしないものは大嫌いだ
ってまあ、一応はキャッチーなセリフではあるけど
何も響いてこないよな
自殺志願者に説教でもするつもりか 別にそいつに嫌われてもどうでもいいしな
嫌いだからなんなの?嫌うってお前も命を大切にしてないのとなにが違うの?って思うが なんか凄い映画だな
闇の側から見られないと意味がない
このスレでも境界例の人から見たらよくわかるってレスがあったが
あっち側、境界の向こう側から見ることができないと何が何だかわからない
嵐の中で自分の居場所がわからない船、当然太陽も月もない
竜の落下
父を殺す若者
(魔法の刀は持ち帰る、それは真っ直ぐなもの、方向のない世界で道しるべになるから)
父殺し、王殺し、しかし、その殺人には意味はない、理由はなくただ不安にかられてやっているんだ
狼の群れに食い殺されるように
不安にかられて襲われた狼を倒すように父親を殺す、嵐の中で居場所のなさで手近な襲いかかる敵を殺すように
そうじゃないと生きていけない
町並みも美しいがそれは星のように
そこにははっきりとした道しるべがない
町並みでは人飼いがいて奴隷がいて人身売買が行われてている
そんな世界で不安にかられて親殺しをしない方がおかしい、些細なことだ、そう考えられるあちら側にいる人間だけが納得し共感できる映画
アレンに売り付けられる麻薬は星空が投影されている
それがわからないと全くわけがわからない、星だけの夜、道しるべのない人間の不安
アレンはテルーを救いだす
画面の中にやたら縦の構図が出る
アレンは夢を見る
夢の中で太陽と方向をはっきり掴むタカを見る
しかし実際は夜でウサギに拐われる
しかし人飼いの車の中で光を見る
ハイタカ、光に包まれた魔法使い
夜の不安と太陽の光への心からの安堵を共感できるものにしかわからない闇の映画
ただ方向のない闇や星だけの世界、夜と、太陽と真っ直ぐの道を見つけたいとの魂の祈求
宮崎駿もル・グウィンも全く作品の闇を理解できなかった
反応しなかった
宮崎駿もル・グウィンも変なようで普通の人間で宮崎吾朗は病気側、あっち側の人間だってことだろう
吾朗が世界的にヒットすることはないけど
でも、本当にやばいのは宮崎吾朗の方だ
アレンとテルーが真の名を互いに知るとき闇は晴れ物語は解決する 二人が真の名を知るとき魔法の剣は鞘から解き放たれ竜の真実の姿が解き放たれる
真の名を役割を引き渡すとき映画は終わる
レバンネン
テハヌー 足が泥にとらわれ死んだ父が出て来たり行く先のない迷い道や足許が崩れ去ったり
それがリアルに体感できる人間じゃないと意味がわからない映画 >>710
長文は悪かったが聞いて欲しい
星を見たり、風のざわめきにアレンは恐怖する
最初、わけがわからない、何が描きたいのか意味がわからない
でも、本当にアレンは恐怖できる
恐怖している病人が描かれているとわかったら驚愕するよ
病人役が描かれているのではなく、映画の中に本当の病人がいるんだよ
本当にアレンは父親を殺したりできる人間だとわかる時、宮崎吾朗の闇にも驚愕する
何で風のざわめきで恐怖できるのか
星ぼしのきらめきで我を忘れられるのか
そこには方向がないから
太陽や月の指し示す方向がわからないから
狼に人拐いに襲われると恐怖するから
風に星空に恐怖する
雑踏の中でアノミーで居場所がなく震えて縮こまっているから
それをちゃんと映画で描いているんだよ
どんだけの闇だと
ジブリ映画でやっていいことだったかはともかく アレンが麻薬に手を伸ばすところがある
あれは夜空一杯の星と同じだ、全く同じものだ
夜の自分の居場所のわからない闇に心の底からアレンは恐怖している
親殺ししといて人身売買を何て酷いんだと嘆いているが
それはアレンにとって実感であって人身売買する世界の中で追い詰められている自分にとって
親殺しも殺されないための自衛の手段でしかない
夜の闇の中で居場所をなくし恐怖に常にさらされているから
ゲドが出てきて父親が出てきて自分が出てきて足許をすくわれる
それは自分がどこにいるかわからないアレンにとっての現実の姿
そういうことが現実のこととしてわからない人間には全く意味不明の映画だが
わかるものには魂をわしづかまれる映画
そしてそっからの脱出も描かれている
一生懸命映画を通じて描かれている
それが太陽であり鳥であり
光輝くゲドであり真の名を役割を知ること
テルーと真の名を知りあい、ここにいる理由を知ること
居場所がわかること
魔法の剣は真っ直ぐの隠喩として意味を持っている
やたらと画面の中に縦と横の直線が出てきて余計な物を排除される
これも闇を抜け出したい夜を星空を出たい
はっきりとした方向を道を知りたいアレンの魂の求めるもの
それが映画できちんと描かれている 心の闇とか居場所のない若者の不安とか言葉で書くと凄い陳腐だが
本当に闇を病人をそこからの脱出を画面として絵として
アニメの中でそのまま否定できない真実としてつきつけるのは心の底から驚いた
そういう目で映画を見れば本当にそうなっていることは誰にもわかる
言葉ではなく台詞で説明せずに絵としてわかるように描いている
心底凄い お前のオ◯ニーみたいなズラズラ書いた文はここで載せるんじゃなくてブログにでも書けばいいんじゃないかな 231: 見ろ!名無しがゴミのようだ! [sage] 2010/11/12(金) 22:53:49 ID:cC63Ud75
皆さんは酷評されてますね…。
実際に虐待されていろいろ悲しい思いを心に抑圧しながら生きてきた私にとって
この作品は心癒されるものでした。
レンタルでは物足りないので販売版を買おうかな?
だけど心の傷が癒えたとき、この作品は急につまらなく感じるかも。
この作品が「つまらない」と言える人は、それだけお幸せなのでしょうね。 お前の文章は随分陳腐だからツイ◯ターにでも書いとけ 別にいいよつまらないものはつまらないし
それで幸せなんだからそれを他人にいちゃもんつける奴は相当ありがた迷惑ってものを知らない
だからずらずら「長文は悪かったが」それはともかく聞いてほしいなんて図々しいことほざけるんだろ
馬鹿らしいんだよなにもかも というかいい加減にしろや自己満足のためなら他の奴がどんなに気分悪くしても構わないってのかよ
ガキじゃねえんだから ゲド戦記は父殺しは唐突でわけがわからないと批判されるし
竜にいきなりなるのも意味わからないと叩かれるが
冒頭の船の場面から真の名=魔法を取り戻すためには竜を復活しないと終わらないことが決まりごと
太陽と竜が見えなくなって、だから人々は居場所を失い乱れる
それだけを映画は執拗に描写しその結果が親殺しであることも、それだけを映画は描いている
これ以上の説得力ある映画なんか無理だし
真の名を、正しい位置付けをする若い二人が世界を救うのも
映画的に当然の帰決 なんでやめろっていってんのに聞いてないんですかー?
頭スカスカなんですかー?
リアルでもそんな感じで自己中なんですかいい加減にしろボケ >>720
お前他の人の話聞く気ないの?
聞いてほしいじゃなくて聞けって感じでなんでそんなに押し付けてんの?
ばか? >>720
原作者がぶちギレてる以上この映画はゲド戦記としては駄作
それがわからないお前は単なる馬鹿
まあこんなオナニー長文書いて悪びれないガキだから何言っても通じないんだろうな 風のざわめきに恐怖し、星空の夜に震える映画の中に本当にいる病人
それがアレン
アレンは魔法の剣を持つが抜けない
真っ直ぐな刀を使えず行くべき場所がわからない
それを知るのは、魔法=真の名をテヌーと共に知り合い、自分のあるべき所を他者の中に位置付けあうとき
その時、魔法の剣は鞘から抜け、竜が復活する
そこに至るまでは延々ひたすら闇の恐怖、町や星々の中に根差した影に怯えながら
ハジアの闇、星夜の闇から影との戦いが描かれている
太陽を光を天上を取り戻すための祈りの彷徨が全編描かれる
父を殺す闇からの離脱が太陽への祈りが描かれている
風のざわめきや星夜への恐怖からの必死の抜け出しが描かれている
ゲドに狼から救ってもらった夜に星空を見ながらアレンは恐怖している
ゲドはそれを見ていう
一緒に歩かないか
治療が始まる
ホートタウンの遠景は星空のようだし、そこには人間が商品になり、ハジアもまた星夜のよう
風のざわめきに恐怖し絶望するアレンは
ウサギ達に人狩されながら光の魔法使いゲドに救い道を示される
風のざわめきへの星空の夜への恐怖を理解できなかったら映画ゲドはわからない 屑の荒らし
ID:dchVCSz3
見ろ!名無しがゴミのようだ!
ゲド戦記
崖の上のポニョは世紀の神大傑作
【宮崎駿】君たちはどう生きるか【ジブリ】
ハウルの動く城 12 宮崎駿やル=グウィンは現在、世界的に評価され名声に満ちた作家だが
50年後に記憶され評価されて残るのは宮崎吾朗なんだろうね
彼等は健全な通俗的な娯楽作家に過ぎず
本当に闇に震えて親を殺してしまう人間を画面に出してしまうこととか理解できない
真の名も彼等の作品ではどうでもいい
ハクの名前を思い出すのも理由はない、とっとと思い出して解放してやれよとしか言えない
千と千尋とかゴミ
クモが倒されるのもアレン以上の闇を抱えていたことで倒すことで救ってやるわけで
小説のゲドみたいな独り善がりの自分に欠けていた物を取り戻すような浅い話じよない
小説より映画の方がはるかに上
アレンとテルーが真の名を打ち明けあって闇から救われるのは必然性がある
庵野は吾朗を評価していたが、駿やル=グウィンには理解できない吾朗の意図や闇の部分が理解できたんだろう >>726
何かかみついてるけど
画面見ればアレンが本当に星空に風に恐怖を感じて
真の名を分かち合って自分の居場所を見つけない限りどんなこともしてしまう
そういう闇が見事に作品化されているのは否定できない事実だよ
認めればいいだけだよ
何が気に食わないか知らないが
事実は事実で目がついていればわかるんだから ハジアが星
太陽が見えない嵐の夜で真の名、物のあるべき位置付けのわからない現代の闇を表し
物語冒頭の嵐や竜の墜落と重なっていることは凄いことだよ
セリフじゃなく物で絵で画面で有無を言わさず描いている 映画は描かれているもの、見える物を語ればいい
・もののけ姫は自然とタタラ場の火の対立の話で、互いに牙や刀、銃器を振り回して
激突しようとしているのをねじ曲げて丸くしいかに我慢し対決を収めるか
・ハウルは赤い火を青く浄化してガラクタを棄て裸になり戦争が止まる話
描かれている物を見れば良い
・ポニョはハウルで中途半端だった魔法を捨てて辛い現実に向き合う話
・風立ちぬは煙草の火が煙になり白いパラソルや白い紙飛行機になる話
見たままを語れば良い
ゲド戦記は嵐の中で太陽が見えずに方向がわからないで恐怖に震えている人間が
太陽を光を進むべき方向を取り戻す話
画面の連鎖が、そういうふうにつながっている、絵が物がそう描かれているのだからそう理解すべき
基本を押さえればいいだけ
何も間違いようがない 千と千尋がゴミっていってるならお前土下座しろよ
他の作品貶しといて人の話聞かないで長々と書き込みって社会のゴミカスそのものだからな
なに評論家ぶってんの?
スレ荒らしのカス つまらない長文過ぎて寒い
聞いてもらえないからって拗ねて荒らすなよガキ 「二ノ国2はゲド戦記だ」という意見に反対する人がいないのが地味に笑えてくるる 2018年8月金曜ロードshow夏ジブリ
8/10ハウルの動く城
8/17となりのトトロ
8/24猫の恩返し
8/31メアリと魔女の花(初放送) 原作だとゲドとアレンは世界の果てまで船旅してクモと戦うのに
映画では最初に立ち寄った町で全部話が終わるっていう
原作の改変ぶりが酷すぎる 昔はクソつまらないと思ってたけど
今見ると1周回ってかなりの名作だよな
もうこの時点で吾朗は明らかに駿を超えていた ゲド戦記 主題歌 『テルーの唄』
作詞 : 宮崎吾朗
◆1番 喪男の歌
老境が迫った男がいる。
同じような年頃の者たちはみな仲睦まじいつがいになっている。
しかし男はいつも独りだ。
傍らから見てひどくあわれな存在だ。
男は仕事によって高い地位と収入を得た。
しかし仕事に忙殺され、
大切な者たちとまともに交流する事もできなかった。
その結果皆が男の許を離れていった。
それでもなお男は仕事に囚われ、休む事すら能わない…
この心境を何に喩えろと言うのか──
虚空を一羽で飛ばねばならぬ鷹のごときこの孤独を
この悲哀と怨嗟を誰に訴えれば良いというのか… ◆2番 喪女の歌
地味な顔立ちでコミュ症の女がいる。
同じような年頃の者たちはみな仲睦まじいつがいになっている。
しかし女はいつも独りだ。
傍らから見てひどくみじめな存在だ。
女は結婚適齢期を過ぎ容色がだいぶ衰えてきた。
もはや遅いにもかかわらずなおも必死に化粧したり
かわいい女を演じている。
しかしまったく男に相手にもされず
今夜も寂しい身体を持て余している…
この心境を何に喩えろと言うのか──
自分は素晴らしいヒロインで、
将来はきっと素敵な男と結ばれるだろうと信じ続けてきた
乙女心の虚しさを
常に驟雨のような劣等感と自己嫌悪にさらされねばならぬ
この切なさと苦吟を誰に訴えれば良いというのか… ◆3番 仮面夫婦の歌
人生の下り坂を歩みつづけている者たちがいる。
同じような年頃の者たちはみな幸福な家庭を築いている。
しかし彼らはいつも独りだ。
傍らから見てひどくうつろ存在だ。
世の大部分の者たちは互いに親密に繋がり合い
人生の表通りを笑顔で歩いている。
対して彼らはすぐ傍にいて同じ生活を送っているにもかかわらず
関係が冷え切り、何も言葉を交わす事がない。
何の目的も希望もなく
人生の寂しい裏道を豚のように虚しく生きているのみである…
この心境を何に喩えろと言うのか──
険しく果てしない人生の長途を
独りで歩まざるを得ぬわが身の愚かさと卑小さを
この懊悩と寂寞を誰に訴えれば良いというのか… ぶっちゃけ吾朗はマジで天才だと思う
映画はクソつまらなかった。
ひたすら見ているのが苦痛でしかなかった。
一般的な視聴者はその皮相しか見ずに
口をきわめて批判する。
自分も最初に見た時は
(というかつまらなすぎて今に至るまで一度も見返していないんだが)
才能がない、くだらない、稚拙なつくりだと思い一顧だにしなかった。
しかし今にして思えば
吾朗は世間の批判に晒されるのを覚悟の上で
敢えてわざとつまらく作っていたんだろうと思う。
それする事で現代社会の空疎さ、
そこに生きさざるを得ない事の虚しさと苦痛を
作品全体を通じて余すことなく表現していたわけだ。 『テルーの唄』は、個々の尊重、価値観の多様化、
趣味嗜好の多角化、自由競争の推奨、
自由恋愛などといった美名のもとに
毎年のごとく人々の経済格差が開いていき
価値観の先鋭化、ネット通信の発達に反比例して
個人がどんどん孤立化していく
現代社会の闇を的確に掬い取った名曲だ。
そしてそうした現代社会の問題を、
ファンタジー世界にあって唄っても違和感が出ないよう
うまく翻案して作り上げられている。
作詞を担当した吾朗は天才だ。
その曲を唐突に作中でテルーが唄い始める。
1番だけで済ましておけばいいのに長々と2番まで唄う。
最初に見た時はヒマでヒマで仕方がなかった。
バカじゃねーのかと思った。
しかし歌詞の内容を見れば、なぜ2番まで唄ったのか明白だ。
1番は男(もしくは父親、高き者)の唄、
2番は女(もしくは母親、低き者)の唄で
対になっており、1番のみを唄ったのでは片手落ちであり
男女不平等になるからだ。
この唄は現代社会に生きる人々の孤独を唄ったもので
あの場面で作者は視聴者に対して
問題提起をしてみせたのだ。 この映画では都市部に住まう人々は
皆人生の目的も希望もなくゾンビのように無気力に暮らしており
悪がはびこり、人々は奴隷車に乗せられて売り払われていく。
にも関わらずそれに反抗する事もせず、従順にうな垂れて
手足に枷をかけられたまま運ばれていく。
人々に残されたわずかな愉しみは麻薬くらいのものだが
そのようなものをいくら行ったところで人生が好転するわけでも
何かを得られるわけでもなく
ますます泥沼にはまって転落し、
スラム町の路地裏で、誰にも見取られる事なくみじめ最期死を迎える…
そのような世界観だ。
原作のそれとはまた異なる生々しい荒廃感を持ったこの街は
バブルが弾けて経済が停滞し
以降は迷走と凋落の一途を辿る、閉塞感に囚われた
現代日本を表している。
2003年の労働者派遣法の大幅改正によって
派遣社員というみじめな現代の"奴隷"にされ
おそろしく低い賃金で死ぬまで長時間こき使われ続ける若者たち。
彼らは欧米のように会社や社会に反発する事も
徒党を組んで暴れる事もなく
ただ唯々諾々と上に従い
充実したまともな人生を築くだけの時間も余裕もなく
人生の貴重な時間と精神をすり減らして、
ただ機械のように毎日くだらない作業に従事する。
ないし心を壊して鬱病となり、
通院して抗欝剤と称する合法麻薬の常習者にされるか
社会に出る事ほ拒絶し、独り暗い部屋の中に引きこもり、
親に甘えて過ごすようになる。 彼らのせめてもの楽しみと言えば
スマホだのゲームだの漫画だのドラマだの映画だの音楽だの
アイドルだのオナニーだのSEXだの…
そのような何の意味も価値も生産性もない、くだらなさを極めた娯楽のみだ。
いくら金と時間をつぎこんだところで
何ひとつ自分が変わるわけでも
現実の生活に役立つものを得られるわけでも何でもない
ただむなしく時間と労力と金銭を浪費するだけの
妄想の世界への逃避行動だ。
自身の歪んだ精神性やみじめな生活を変えようともせず
そうした下らない娯楽に麻薬的に没入する
愚かな現代人のありさまを
吾朗はあの都市を通じてカリカチュアライズして描写したのだ。
親殺しをしたアレン、いつもは欝状態のくせに
剣を抜いた途端別人のような邪悪な表情に豹変して
喜々として人を斬りにかかるアレンは
親に反発して暴力や殺人を働き、高齢者を敬わず、
弱い者に対してはいじめを繰り返し、ゲームの中で殺戮を愉しむ
現代の若者の心の闇を表している。 そして吾朗は例のテルーの唄を流す事によって
晩婚化、非婚化が進み、加速度的に少子高齢化に向かう
現代社会の孤独を提起し
「いのちを大切にしない者なんて大っ嫌いだ!」
と、孤独ではあるが自分の意志と生活を持つ
一人暮らしのブス女に言わせた。
これは何を意味しているのか?
皮相のみを追っている視聴者は
主人公のアレンが、危険な行動をしている事を
咎めているもののように思い込んでしまうだろう。
しかし実際のところテルーとアレンに会ったばかりであり
殆ど彼の事を何も知らない。
テルーが目撃したアレンの危険な行為は
せいぜい人攫いの前で剣を振り回して逃亡させた事くらいのものだ。
ではテルーはなぜアレンという
現代の若者の闇を凝集させたようなシンボリックな存在に対し
何をもって「いのちを大切にしない者」と呼んで批判したのか?
ぶっちゃけここで吾朗はテルーの口を通じて現代人を批判したのだ。
「いのちを大切にしない者」とは
「自分の人生を真摯に見据える事なく、無気力かつ刹那的に
周囲に流されるがままに生きている」
大部分の現代人を指している。
その奴隷そのものの愚かな生き方を痛烈に批判してみせたのだ。
これらの視点に乗っ取って考えれば、
おのずとその後の展開や結末が何を意味し、
結局吾朗はこの映画を通じて何を訴えたかったかのかが
わかるようになるだろう。 リンクの歌声とゼルダの歌声のデュエット。
ピアノの演奏者は渚カヲル。
ハイラル城本丸にある上等なグランドピアノで演奏する。
マギアレコードの録音は当然原始的なアコースティック録音で録音がなされた。
ダイレクトカッティングと同じ要領で、原盤に吹き込むため、失敗すればすべてやり直しとなる一発勝負であった。 クシャナの「おまえが私の死か」のオマージュが軽過ぎる 再上映やってるけど、対策無しでソーシャルディスタンスを十分確保出来る作品だね。 さすがに絵だけはもののけ姫より綺麗だったよ
もののけより9年後の作品だから当たり前だけど 観てきたぞー とにかくわからないことが多かった
・真の名の支配の効力?範囲?なんでも命令できるわけではないのか
・竜という存在の立ち位置。死んでも死なない?生き物なの?
・テルーは何なの?多分竜なんだけど
なんで人の姿で生活してるの?親に捨てられた???
・アレンはなんで王様殺したんや?なんとなく不安だったから??
・始まってから主人公把握するのに少しかかったで題名もゲド戦記だし
・結局何の話だったんや?
「アレンは死が不安だった」→「死があるから生があると悟った」に見えるけど
どっちの状態でも結果は「王殺す」→「クモ殺す」で変わってない
・狂気アレンは目赤く光らせるとか
ハイタカ魔法の時魔法陣なり紋切るなり
ケレン味ある演出してった方が良かったのでは
・場を繋ぐためだけのアクションが目についたなあ
俺に思われるくらいだからあまり上手くないんだろう
ゴローには期待してる。世の中を驚かせてくれ。
公開中なのにスレ伸びんな あと、話の都合だろうけど行動がおかしいのはやっぱ気になる
・危険だとわかっているのにハイタカは街でアレンを一人にする
・アレンが悪夢を見る前まででアレンは何度も寝てるけど悪夢見ない
・テルーは家で待ってるはずだったのにクモの城向かう。
なんでそのタイミング?直後じゃ駄目なの? >>759
海がきこえる(1993年)- 脚本(中村香名義)
ゲド戦記(2006年) - 脚本
借りぐらしのアリエッティ(2010年) - 脚本
コクリコ坂から(2011年) - 脚本
風立ちぬ(2013年) - 協力
思い出のマーニー(2014年) - 脚本 良かったことを書こう
音楽の入れ方は悪くなかったと思う 岡田准一のイケメンボイスが魅力の一つ
手嶌葵は歌は良いけど超絶棒読みが難点 そりゃあ宮崎のようにイメージが豊かな人間はラジオドラマもいいんだろうよ >>762
岡田准一のイケメンボイス…?
まだキムタクの方がイケボだろ 今見てる途中なんだけど
面白くなりそうな所で
ずっと面白くならないって
ずっと寸止めされてるみたいだな 開始直後にいきなり船乗りとは思えない格好の連中で思わず吹き出しそうになった
一番の笑いどころはヒロインがいきなり歌い出した場面
歌うのは構わんけどあまりに棒立ちで歌ってて映画館で笑いを堪えるのに必死になってた
まさかジブリ作品でここまで絵の表現が足りてない作品が観れるとは思わなかったからある意味記念すべき作品な気はする ゲド戦記でハイタカがヤックルに乗って歩くシーンが作画崩壊かと思うくらい下手でビックリした
子供の絵かと思うくらい平面的な作画でヤックルの歩き方も不自然にカクカクしてた ボロクソに言われるけど
テルー以外は普通に声優上手い アカペラで歌い出して
ああ、これが例の・・・と思ったらまさか二番まで歌い続けるとは思わなかった >>773
それあるね
「歌聞かせたい、きれいな画面見せたい」て意図だろうけど
尺取ればいいってもんではないと思う
視聴者がどう感じるかって立場で作ってほしい >>774
画面は綺麗なんだけど
表現は稚拙って感じなんだよなあ ゲド戦記の特報だけセリフが流れないのは
棒読みがバレるから? っていうかこのスレ立ったの2008年…12年も前というのに驚き
過疎ってるし未だに埋まらないのは何故だ せっかくだから見てみた
いったいどこで話が盛り上がるのかとまだかまだかと見ていたらたいした盛り上がりもなく終わったw
話しも地味だし画面がずっと茶系か紺系かで色味も暗すぎて暗すぎて
エンドロールで監督名が駿じゃなかったからあーよかったと
これで監督宮崎駿だといわれたらさすがにやばすぎでしょという映画だったわ 大御所俳優っぽいな、菅原文太っぽいな、でもこの頃生きてたかなでスタッフロールの答え合わせで満足した。 この映画、アニメ本来の良さを引き出す為に
敢えて線を省いたり背景をシンプルな作画にしたらしいけど
その結果、絵が雑という批判を受けることに… 吾朗は素人だから、この場合はプロの脚本家がフォローすべきところを全く仕事してない。
共同脚本の丹羽圭子はそれ以前にも脚本を書いていてるが構成の何たるかを理解していない。 ハジアとかクモとかウサギとか
鈴木の匂いがプンプンする場面がある 最後の別れはもののけ姫的だし
父親の作品の摘み食いが目立つ 世界の均衡が崩れようとしているからハイタカがそれを探る為に旅をしていたはずだが
クモを倒したからめでたしめでたしは意味が分からない いっそのこと城とか国王とか出さないで
町でウサギに襲われるとこから始めればよかったのかもね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています