「ようハラをくくって書いてくれた。この手記で今までよくわからなかった謎の部分がはっきりした。
執筆は遅きに失したくらいだ」佐々木将城幹事長はこういった内容の電話や手紙で、反響の重さを実感として受けとめている。そして今後予想される激動の日々に震え、田岡一雄三代目組長から学んだ任侠道を、極道の筋を貫こうと決意を新たに――

「親分の遺言はなかった」と
六月五日の山口組定例会で、「竹中正久若頭の四代目就任」もはや決定的となった。
私をはじめとする“山広擁立派”は正直なところ、どう対処すべきか迷った。
いまさらながら、あの時、姐さん(文子未亡人)の切なる願いを叶えたことが悔やまれてならなかった。
たしかあれは五十七年九月十四日、四代目決定の入れ札(選挙)を行う前日だった。
「このまま入れ札をやると二十数人の脱退者が出る。どうしても親分(田岡一雄三代目組長)の遺産をこわしたくない。全員の賛同を得るまで待ってくれないか、ねえ山広」
涙ながらに訴えた姐さん、親分の遺産をことのほか大事にした山本広組長代行の、心ある行動がよもや裏目に出ようとは……。