【四代目山口組】山一抗争part17【一和会】
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これは支持できんもんはね
我々が四代目を支持する訳にいかんし
また本当に四代目にするんやったら
今の代行をするのが儂は極道の道やと思います
※前スレ
【四代目山口組】山一抗争part16【一和会】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/4649/1587035310/ 一和の方が骨のある人間がいたのに上があれで残念だな
石川、後藤、長野みたいなのは山健や宅見では無理だ
中野会ですら宅見殺す時はかなり無理しているほど 一和だなんて 名前が悪い 怖くない
丸い代紋もださい どこかのお寺の家紋か? うちのオヤジはおめえさんが身内になっても一緒に死ねる人だよ 竹中はあの時殺されなくても どのみちいずれ殺されたと思う
あの強引なやり方みれば トラブルに次ぐトラブルで平和はこないだろ
他団体とも摩擦起こすだろう
現実に襲名後後見人の返礼挨拶で稲川に行った時も常識に欠けたセリフを言ったらしいし
その時の事、宅見が山之内にぼやいてたよ、なんやコイツって >>7
宅見は竹中の性分を分かってて神輿を担いだんやから、ほんまに罪作りな御人やで >>5
一和の代紋は播磨の赤松氏や丹波の九鬼氏が使っとった巴紋やな、兵庫県由来の大名からパクっただけやろな うちわ代紋と組織名マジックテープだったぞ
外に出る時は、外していた。 前スレ
姫路の竹中組本部まで、抗議に行った組長は、佐々木組長じゃなく破門者を拾われた4代目派の直参組長 >>9
由緒ある名家の紋章なんやね
風格があったと思うけどね >>5
山菱の代紋をパックる輩なんかより断然良いわ
おまけに山口組の名称まで無断使用してんねんから、あんな外道なんかより一和会の方が支持出来るわ 竹中組長の武骨さは宅見さんのような銭勘定とは合わなかっただろうよ。
でも経済支えてのはナニをしている会計の宅見さんや。 >>11
加茂田さんが、竹中は引退した細田組長に諮らずに勝手に細田組組員を竹中組に引き入れるような機転を利かす側面があったと、烈侠で著述してはったな 523:名無し募集中。。。:2020/05/10(日) 17:07:41
スレ立てよろしくお願いいたします
【状況】ホスト規制中
【板名】アウトロー
【板URL】https://medaka.5ch.net/4649/
【スレッドタイトル】【四代目山口組】山一抗争part17【一和会】
【メール欄】age
【名前】一和会副会長兼理事長 加茂田重政
【本文】↓ >>8
面従腹背やったんちゃう
どう考えても宅見さんがヤクザとして
竹中四代目を評価してたとは思えないし
竹中四代目亡き後、山口組執行部を総動員して竹中組を潰しにかかった >>14
武骨というよりただの池沼やわ
インタビューを受けてた時も受け答えが出来ずキョドりアホ丸出しやわ
生きていても宅見に絵を書かれ放り出されるやろ >>18
なんか山之内から聞いてた話と違うやんか、みたいな感じの表情で竹中組長は側に控える中山若頭と中西舎弟頭に視線を向けてたなw
後ろに控えてた宅見若頭補佐のニヤケ顔が竹中組長に対する評価を表してたわ NHKのインタビューはアカンかったね。
山ノ内さんも失敗やった言うてたし。
中西さんと宅見の饒舌さが目立っちゃった。 >>11
わかった
そうだろうな
佐々木が行くわけないもんな
怖いし >>13
でもな 認知されんのじゃ ポット出の丸代紋じゃ
神戸山口組みてみいや
まだ存続してるだろ これからも存続するだろ
名は体を表すということ >>19
儂がおもうに 何かの映像で(四代目執行部が椅子に座ってる)
竹中・中山・宅見がいて
竹中がカメラマンに(お前男前に写せよ、不細工に写すなよ)
の場面で 中山・宅見の表情見たら(お追従笑い)
関係性、力関係が見えた気がしたけど 儂だけかな >>22
時代背景の違いがあるやろ
山一抗争当時は景気が上向きで暴力団対策法や暴力団排除条例なんか無かった
だから、ヤクザ組織自体に勢いがあったし、堅気の社会と同様にヤクザ業界も好況だったわ
翻って、現代はヤクザ業界を取り巻く環境が厳しく衰退の過程にあるわな。抗争なんかもっての他やから、山一抗争の時とは業界が様変わりしてしまっとる。
拡大路線よりも生き残る事が目的化してしまったから、神戸山口組みたいな組織でも生き残れるんや。 金正恩とかけまして 買いたてのシャーペンと解く
その心は? 本当にしんでるの? >>25
せやな。要約すれば、ヤクザが十分に食うて行ける時代やったら、伝統がある老舗の代紋の方が良かった。今は、寧ろ得する処か損するかも >>29
それで宜しい 皆が読みやすいように書くのも腕 賃貸住宅サービス東三国の松田はゆうパックシール詐欺で逮捕の犯罪者ですか? 賃貸住宅サービス東三国の松田はゆうパックシール詐欺で逮捕の犯罪者ですか? >>21
金田に芋引く佐々木が姫路に行ける訳無いやろ。 >>34
山之内弁護士の本に書いてあった
どの本かはっきりしないけど 2,3年前に発売した本
大型書店かアマゾンで 売っていると思う
熱海に挨拶いってる立場もわきまえず
執行部の前で稲川会に喧嘩売るような言葉・・・
その時竹中の後ろで宅見が・・・
なんや こいつ これ俺らの親分か あかんわ がっくりと・・
との思いを後日山之内に話した うちは喧嘩やったらいつでも相手するで、みたいな事やったかな gi.i.i;i;i.i.i;i;i;i;i;i;i;i;i;i;i;i;i;i;i;i;i.i.i.i.i;i;lilililii;i;i.i.]
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喧嘩だったらいつでも買いますよ
だったかな? 三宮の松下組の事務所も他の会社が入っているし、寂しい限りですわ >>46
>>40と被っとるぞ
ちゃんとむいとけよ >>39
竹中兄弟は宅見みたいに表裏のある人間とは違うからな
今でも竹中兄弟を慕う声が多いのはそこ
逆に宅見を慕う声は多くない 最近この竹中って人知ったけど
何やこのキョロキョロしてる豚みたいなオッサン
これが大組織のトップかいや思たら
案の定殺されてんねんな >>50
それは認める
けどそういう問題では無く
極道世界での常識がない、時と場所と相手を選んで言葉を使えない
相手を尊重しない 尊敬はされないと思う >>50
渡邊芳則氏曰く、武の兄弟は自分(渡邊氏)が五代目を継いだら良いと言ってくれてたのに、陰で正反対の事を吹聴してた…と 中西は逮捕されたことがなかったらしいけど、そういう人ってヤクザ社会では認められんの? >>40
竹中山口四代目確立を後方支援してくた稲川会の恩義を知ってんたかいな?
まぁ竹中さんやったら「そんなもんワシが知ったこっちゃないわい!」って感じやろな >>23
タクミさんの黒いお顔。
心の黒さもあの頃から。
ヤクザじゃないタクミさんはエエ人やのに。
ヤクザ恨んでタクミ恨まずや。 結局、宅見さんが信用してた人って誰だったの?
なんか誰もいないように思える >>60
当たり前やがな
ロング行っただの指落としただのそんなのは下手打ったドジ自慢や >>50
司、高山はしっかりしているわ
猫をかぶるのは上手い
裏表どころか3枚舌、4枚舌 >>67
相談役に中川組長ってだれ
三代目舎弟の方ですか 三代目以降の山口組は、神輿制度なんだよな
四代目なんかも動画の通り、仲西と岸本と宅見で
談合政権を維持してたやろ。なんせ竹中も中山も
その三人に、後押し根回し説得され誕生した。 >>60
逮捕歴はあるけど懲役が無い
若い時、南道会時代に諏訪組との抗争で逮捕されてる >>1
山一抗争激戦中、1985年神戸ユニバーシアード大会一時休戦中
ホテルに集まった一和会最高幹部の面々
http://get.secret.jp/pt/file/1589121072.jpg
右から一和会 山本広会長、加茂田重政副会長、佐々木道雄幹事長、北山悟組織委員長 訂正
右から一和会 山本広会長、佐々木道雄幹事長、加茂田重政副会長、北山悟組織委員長 >>77
そんなのシランな 四代目の組織図に載って無いやろ 超激レア
山口組竹中正久四代目暗殺5日前に行われた
グラスを傾ける一和会最高幹部会の秘密会合写真
http://get.secret.jp/pt/file/1589122138.jpg
右から竹中四代目暗殺部隊総指揮をした伝説の石川裕雄
松本勝美本部長、白神英雄常任顧問、山本広会長 自分が4代目のどこかに入るとしたらまごうことなくサンズイさんの金田組に入りたい。 「ようハラをくくって書いてくれた。この手記で今までよくわからなかった謎の部分がはっきりした。
執筆は遅きに失したくらいだ」佐々木将城幹事長はこういった内容の電話や手紙で、反響の重さを実感として受けとめている。そして今後予想される激動の日々に震え、田岡一雄三代目組長から学んだ任侠道を、極道の筋を貫こうと決意を新たに――
「親分の遺言はなかった」と
六月五日の山口組定例会で、「竹中正久若頭の四代目就任」もはや決定的となった。
私をはじめとする“山広擁立派”は正直なところ、どう対処すべきか迷った。
いまさらながら、あの時、姐さん(文子未亡人)の切なる願いを叶えたことが悔やまれてならなかった。
たしかあれは五十七年九月十四日、四代目決定の入れ札(選挙)を行う前日だった。
「このまま入れ札をやると二十数人の脱退者が出る。どうしても親分(田岡一雄三代目組長)の遺産をこわしたくない。全員の賛同を得るまで待ってくれないか、ねえ山広」
涙ながらに訴えた姐さん、親分の遺産をことのほか大事にした山本広組長代行の、心ある行動がよもや裏目に出ようとは……。 どうしようもない暗い気持ちで定例会に出席し、「親分の遺言」というにわかづくりの“金科玉条”に従うか。
それとも、「親分の遺言は存在しない。組員の総意で当代を選ぶべきだ」として姐さん−竹中派に対抗すべきか。
私たちは迷った。誰からともなく、「このままではいかん。日本一の山菱代紋が泣く。
最後の最後まで打開策を検討すべきだ」として、急遽、定例会の前日(四日)、私の家で顔を合わせることになった。
山本広代行、加茂田重政組長、小田秀臣組長、北山悟組長、大川覚組長ら三十四名、それに私だった。
当家先祖代々とともに祀ってある田岡親分の遺影に、一人一人手を合わせて始まった話し合いは、延々と続いた。
結局、「親分の遺言はなかった。四代目はあくまでも組員の総意で決めるべきだ――と主張したら、
親分の(遺影と位牌)前で竹中派と争うことになり、姐さんに恥をかかせることになる。喧嘩だけは絶対に避けねばならない。
それには、定例会に出ず、出席者の良識で流会になるのを願うしかない。それがわれわれに残された唯一の方法だ」との結論に達したのである。
だが、誰もが流会は信じていないようだった。竹中派が拳銃持参で強行突破する、との情報がすでにわれわれの耳に入っていたからだ。 生存中の親分は、週に一、二度夜の街に姿を見せた。ウサばらしのお忍びもあったが、関西他組織の当代――
例えば五代目酒梅組・谷口正雄組長、三代目倭奈良組・橋本正男組長、四代目砂子川組・山本英貴組長、
三代目会津小鉄会代行・高山登久太郎理事長、松浦組、松浦繁明組長らと語らって友好を深める席にもしばしば顔を出した。
その場合、側にいるのは大抵、加茂田組長であり、時として黒沢明組長(のち引退)であった。
竹中四代目はほとんどといっていいほどついていない。
たしか、双愛会の畔田武夫会長の葬儀が千葉・鴨川で行われた時、親分のお供をしたのが、私の記憶に残っている程度だ。
ことほどさように、親分は竹中若頭補佐(当時)重要視していなかった。
重要視したのは、山健若頭であり山広若頭補佐であり、加茂田組長であった。
そんな竹中若頭補佐を、果たして親分が跡目として考えていただろうか。
だからこそ、拳銃持参で“親分の遺言”を認めさせようとしたのだろう。
私ら“山広シンパ”の話し合いは、なんら光明を見出せることなく、いたずらに時間を費やすのみだった。
出席者の多くはそれぞれの想いにふけり、なかには心なしか涙を浮かべている者さえいた。
おそらくその者の胸中は、「山健さえ生きていてくれたら……」との思いに駆られていたに違いない。
もちろん私も、他の直系組長と同様、「健ちゃん、早すぎたで……」と、
二人でともに闘った日々、ウサを捨てにネオンの巷をさまよった日々を想い浮かべていた。 「引退しろ」と銃口を兄弟に
四代目問題が議題にのぼるのを極度に恐れた姐さんの指示で三ヶ月間も凍結されていた定例化が、
山口組意思決定機関の最高幹部会を飛び越え、六月五日に開かれた。
だが、出席者の誰もが自由に発言できる“開かれた定例会”は、この日も実現されなかった。
出席した直系組長は約百名中、三十名。三分の一を割る数だった。
定例会は、幹部数人の独断で、竹中“四代目の就任”を決めたのである。
ただひとつの救いは、中西一男組長(当時、組長代行補佐)が発した言葉だった。
「(四代目の)新体制から静かに去る者は、これまた静かに見送ります。別の組織を構えても山口組は黙視します。」
だがこれはあくまでもタテマエでしかなかった。
あとで知ったことだが、中西組長の良識ある言葉は完全に黙殺され、見境のない強引卑劣な組員増やしに形を変えていくのである。
国領屋亀吉の流れを汲む浜松の名門・伊堂組の伊堂敏雄組長の場合は、じつに悲劇だった。 伊堂組長は席上、こう質した。「(山口組を」出た人間の舎弟と私の舎弟が兄弟分の盃を交わしている。
こんご、これをどう扱ったらいいのか」
盃事は親子、兄・弟、兄弟の三つが代表的で、親子の場合は盃を受ける子が、親を選ぶ権利を持つ。
兄・弟の盃は、いつまでも兄を立てなければならない。兄弟盃は、互いの気持ちに惚れて交わすものだから、
場合によっては乞食とでも交わすことだってあり得る。
いずれも、媒酌人が威儀を正して、「いまさら媒酌人からこのような口上を申しのべることは必要ないと思いますが、
兄のため(親子盃の場合は親のため)身命を擲つ覚悟ができましたら一気に飲み干し、懐中ふかくしまって下さい」と口上をのべる。
連綿と続いてきた古式にのっとる厳粛かつ神聖な行事なのである。
この任侠道の固い掟の一つをもって、こんご取扱いが微妙になる“盃”問題に伊堂組長は触れたのだ。。
だが、これを受けた竹中四代目はこう応じた。「そんなもん、水にしたらええ」
なんという不遜な言葉か――
とくに兄弟盃は、代紋違いであっても“生れた時は別々だが、死ぬ時は一緒”という固い契りであり、
任侠の世界では体を賭して守るものなのである。
極道の鉄則、イロハのイである盃を、にべもなく「水にしたらええ……」とは。
「それはおかしい……」伊堂組長は納得しかねる顔つきで、こう反論した。
後になって伊堂組長は、この時の発言がアダとなってカタギにされ、若頭や舎弟頭らはそっくり山口組に吸収され、
名門・伊堂組は消えてしまったのである。 伊堂問題はさらに尾をひいた。盃を交わした舎弟二人はのちに直系となったが、一人は二ヶ月の謹慎処分を受けた。
気の毒なのは同じ国領屋亀吉の流れを汲む鈴国組・鈴木国太郎組長と滝沢組・滝沢仁志組長だ。
この二人は伊堂組長と同罪ということで、やはりカタギにされてしまったのである。
伊堂組長ら三人の親は田岡親分。竹中四代目ではない。
彼らをカタギにする権利のない竹中四代目が、なぜこんな暴挙に出たのか。
任侠道の筋を曲げること恐れぬ竹中四代目の一面をのぞかせる。
実は、伊堂組長と竹中四代目はそれこそ、それまで同じバクチ打ちとして肝胆相照らす仲だったのである。 六月五日、私たちが大阪の松美会(松本勝美組長、現一和会本部長)本部事務所で記者会見を行い、
数日後に一和会を結成したことは周知のとおりである。
翌六月六日、竹中四代目を認めないわれわれは、伊原金一(六十年一月に絶縁)の組事務所で、
より一層の結束を固めるため血判状まで作った。
その後、不幸にも脱退した組長も何人かはいたが、われわれは追わなかった。
往くも来るも、また一本(独立)になるも、それぞれの立場で判断し、行動する――
これが親分の教えを守って任侠道を志すわれわれ“竹中反対派”の基本方針だった。
竹中組長が四代目を継いだ後の一和会への切り崩し、中立派に対する攻勢は、それこそ度を超し、任侠道を頭から否定するものだった。
実際に私が耳にし、体験した切り崩しの例は、こうだった。
ロシアン・ルーレットという拳銃を使った決闘がある。六つある回転式の弾倉にタマを一発つめる。
それから弾倉を回転させる。タマの所在は分からなくなる。
それを交互に、自分の側頭部に銃口をつけて引き金を引く。弾倉にタマが入っていないと、「カチッ。」と、なんともイヤな音がする。
これを交互に一発ずつやる。タマの出る――つまり死ぬ確率は六分の一だ。
四代目山口組の場合は、同じロシアン・ルーレットでも交互にはやらない。片方だけがずっと引き金を引き続けるのだ。
銃口を向けられたほうは、必ず被弾する――つまり必ず死ぬ。
一方、銃を手にしているほうは絶対に死ぬことはない。 四代目山口組は、一和会の切り崩しと中立派の抱き込みのため、この残忍な方法を使ったのである。
一和会の組織構成を発表した(六月十八日)翌日のことだった。私の兄弟のA組長から電話がはいった。
A組長は電話口で約一時間、引退を詫び、「兄弟、申し訳ない」と号泣したのである。
A組長の話はこうだ。
「どうしても話したいことがある」と、懇意にしていた山口組のB組長から呼び出しがあって彼の自宅へおもむいた。
兄弟を待っていたのは、“田岡家の番人”といわれるC組長だった。
C組長は、ロシアン・ルーレットよろしく銃口を兄弟の心臓に向け、「引退してもらわな……。
自分(あんた)の若頭や舎弟は直系に直すことになっとるんや。もう承知してるんで。どや、言うとおりにするか……」
それから間もなく、A組長は引退してしまった。
突きつけた拳銃にタマが入っていたかどうか、私は知らない。しかし、退くも寄るも組
それぞれの自主性にまかせると発表したにもかかわらず、それをホゴにし、拳銃でコトを運んだのである。
また、もう一人の兄弟は、若頭や舎弟頭を直系に直さないという条件で山口組に戻った。
が、この条件は無きに等しく、数ヶ月後に兄・弟の盃を交わした三名の幹部が直若に抜かれ、兄弟は「極道は地に墜ちた」と嘆いた。
電話での話がいかにもその心情を伝えて私の心を暗くした。「みっちゃん(私のこと)、堪忍してくれ、
オレは四代目の盃をもらうんじゃない。山口組の代紋に帰るんだ。そうしなければ、ワシの組がバラバラになってしまう」 男同士の「血の涙」を見た!
もう一つ実例を挙げる。これは、私が一方の当事者だった。
私の数多い舎弟のなかでも、最も信頼に足る黒沢明(黒沢組組長・のち引退)とのできごとだ。
昭和三十四年、私と黒沢は兄・弟の盃を交わした。当時、私は三代目山口組若頭・地道行雄(故人)率いる地道組の若頭であり、
黒沢はその後、山口組傘下となった“殺し屋軍団”柳川組・柳川次郎組長の舎弟だった。
学生時代(近畿大学)から硬派で熱血漢、大阪・南海沿線の不良グループから「南海の虎」と恐れられていた黒沢は、
その後、山口組内では、“キッシンジャー”とアダナされるほどの外交手腕を発揮する。
親分が究極目的としていた他団体との“平和共存路線”が踏襲されていたなら、近い将来、重要ポストを占め、
「最高幹部間違いなし」といわれた山口組の逸材だった。
小田秀臣本部長(当時、のち引退)の強い要請で本部長補佐を務め、北海道から沖縄まで、
日本国中を対外折衝で飛び回っていた。頭がよく度胸もすわっており、私も感心することしばしばだった。
分裂から二、三日経っただろうか。松宮(黒沢組)本部長と二人で私の許を訪ねてきた黒沢だったが、
どうもいつもの黒沢ではなかった。顔を合わせると目を伏せる。話をしても、いつものように滑らかではなかった。
「なにか隠してるなッ」と、感じとった私は、「ワシにいいたいことがあるんだろう。サシ(二人)で話そう」
私たちは大広間で対座した。向かい合ったまま、しばらく無言だった。黒沢は、今度はしっかり私の目を見ている。
いつもの黒沢に戻っていた。――突然、黒沢は両手をついて、「兄貴……」と悲痛な声を上げ、頭をたれた。タタミの上に大粒の涙がこぼれ落ちた。 黒沢のその姿を見て、私はすべてを察知したのである。事前に四代目山口組幹部と話をつけ、
「席をあけて待っている」との了解を取りつけ、その見返りに、「佐々木(私)の命を取れ」と、強要されていたのであった。
黒沢はいった。「どんなことがあっても兄貴を裏切ることはできない。兄貴、極道の社会がわからなくなった。もう、この世界になんの未練もない」
私も泣いた。黒沢はもっと泣いた。男同士の血の涙を、私は見たのであった。
その後、黒沢はカタギになり、前田和男副組長らはそっくり四代目山口組に直り、黒誠会を名乗ったのである。
私はしばらくの間、黒沢の悲痛な心情を察して胸が痛んだ。
同時に、四代目山口組の、兄弟盃の契りを屁とも思わぬ卑劣なやり方に、底知れぬ怒りを覚えたのだった。 竹中四代目の節目を無視したやり口はさらに続いた。(四代目山口組から)破門、絶縁された人間を竹中組で拾い、実弟(竹中武組長)の組員にしたのである。
破門、絶縁した組長は“竹中シンパ”だったが、任侠道を無視した行為だとして竹中組の本部がある姫路まで足を運んだ。
だが、竹中四代目の口から出た言葉は、「なんか不服があるんか、お前んとこ『いらん』いうから、オレんとこで取ったんや。
文句あるんかい。あるんやったら、どうとでもせいッ。」
極道の世界には叱責、謹慎、破門、絶縁の四つの掟があり、これが戒律となって統制が保たれる。
絶縁は、一般社会においては「死刑」と同じような重さを持つ。
全国の組織に通達される絶縁状は、その時点でどこの団体も組も拾わない。
絶縁した者を拾っただけでも、「メンツを汚した」として、大抗争に発展しかねない。
それほど重要な意味を持つシキタリを、竹中四代目はなんのためらいもなく、平然と破ったのである。
ただただ、組員の数を増やすため、任侠道の掟を無視したのである。
古来、日本民族はつね日頃、世人の謗りを招き恥をかくことのないように対処し、それが、あたかも日本武士のそれに類似するがゆえに、
また、戦国時代の武将・上杉謙信の武田信玄に贈った塩の故事をもって知るとおり、逆境の相手に対して礼をもって接するのが真の武士道――
いや“任侠の道”とされてきた。
“任侠の道”、極道とは何ぞやと問うたとき、最終的に田岡親分の手になる「山口組綱領」の心に到達する。
だが、竹中四代目には、その心がなかった、としか私の目には映らない。
ある意味では、竹中四代目は不幸だった。恥を知らなかった。恥を知って、己のメンツを守ることを知らなかった。
「恥を知って自らを律し、犠牲をもって自ら任ずるに至って侠客道の奥義に達する」ことを知らなかった。 「断絶状」に怒りが爆発して
八月二十三日、私にとってもはや黙視できない事態が起きた。
中西一男舎弟頭(現四代目組長代行)がことの重大さにひとり反対したというが、結局、大勢に流されて全国の任侠団体に配布された、
いわゆる一和会に対する断絶状である。
この断絶状は、それまで強引な切り崩し、任侠道を逸脱した行為に耐えていた私の怒りを一気に爆発させるものだった。
断絶状は、「……先代親分亡き跡の最も責任ある立場にある身が、また、それを補佐する身でありながら、
我意を主張するの余りに私党を募り、責務を放棄して跡目を決定する重大極まる去る本年六月五日の定例組長会議を忌避し、
その会議における決定を無視するのみならず、自らの代紋を否定(中略)。
……極道にもあるまじき卑劣な手段をろうして徒に世間を騒がせるばかりか(中略)……
斯道の本質を失いたる不逞不遜の行為は断じて容認為し難く、当山口組は永久に一切の関係を断絶するものであります」
まさに言語道断、正視できないものであった。この断絶状は他の任侠団体にも波紋を投げかけた。
岸本才三(山口組本部長)が呼ばれ、釈明に大童(わらわ)だった。が、いずれも姐さんと(長男の田岡)満ちゃんが
仕組んだものとして責任を転嫁、逆に失笑を買った。
だが、私をはじめ一和会にはせ参じた組長たちは、それでもかつての身内の非道をさらすことなく、ただただ自重し、稼業に精進してきたのであった。
しかし、この断絶状は全国の各種諸団体に大きな影響を与えはじめた。
このまま黙視すれば、一和会の存亡はもとより、任侠道そのものが侮蔑される、との判断で十月、一和会は文書にて“正すべきはただす”との行動に出たのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています