多数派工作
あるいは読者は不思議に思うかもしれない。仮にも組長である司忍自身が模索している改革案に対して、直参たちが反対を唱えることは許されるのか、と。
その通り、親子の盃のときには、「親が黒いものを白いと言っても、子分はそれに従う」といった口上がある。

それは事実だが、現代ヤクザ世界では、だいたいは親子の力関係で決まる。誰が見ても黒いものを白いと言い張るのは難事である。

六代目山口組の場合、買われているのは高山若頭の力量であって、司組長の力量ではない。出身母体である弘道会の中にも「司組長はどうでもいい。
わしが孝行を尽くさなければならない相手は高山若頭だ」と広言する幹部は少なくない。「若いころ、高山若頭の世話になった」と思う者は、高山若頭に対してつねに忠節を尽くしたいと願う。

だから、司組長が山口組改革をしたいと思うなら、親子盃の重みだけを頼りにすることはできない。
いまだに高山若頭を信奉している者たちを孤立化させ、司派を多数化していく工作がどうしても必要である。


言うまでもなく、これは危険を伴う行為になる。失敗すれば、司6代目体制は瓦解しかねない。
しかし考えてみれば、来年10月、高山若頭が府中刑務所を出所すれば、嫌も応もなく「司組長引退。次の7代目組長は高山清司に」という機運が盛り上がってくるのは間違いないとみられる。

問題は司組長自身がこうした交代は正しく、適切なことなのかと疑っている点である。司組長は76歳、健康オタクといっていいほど健康である。対して高山若頭は71歳、脊椎が悪く、自立歩行が覚束ないほど健康に不安がある。
どちらの余命が長いかといえば、おそらく司組長の方だろうが、それでも高山若頭は7代目組長に就きたいと願っている。