>>711 一度、権力の中枢で甘い汁吸った人間は、その味が忘れられんもんなんや。
自民党の存在意義が政権与党であること、って話と同じで、政権与党でなくなった山健組に用はないんやなw
この半世紀、山健組で蓄積された玉石混淆のノウハウ、情報、ネットワークを、
弘道会に持ち込めば、双方にメリットがあるからな。弘道会にとっても、悪い話でもないんや。

御内人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%86%85%E4%BA%BA

鎌倉幕府滅亡後、御内人の中には建武政権に抵抗して北条氏の復活を図る者と
反対に建武政権の鎌倉将軍府などに出仕して建武政権の下で
幕府体制そのものの再建を図ろうとする者がいた。御内人の1人であった
諏訪頼重が北条時行を擁して起こした中先代の乱では結果的には
御内人同士が分裂して戦うことになった。後者の中には飯尾氏などのように
鎌倉将軍府から足利将軍家に仕えて、室町幕府・鎌倉府で活躍する者もいた[2]。

得宗専制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E5%AE%97%E5%B0%82%E5%88%B6
中先代の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%85%88%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

北条時行に従った武士には名越氏のような北条氏一門もいたが、大部分が
諏訪頼重のような御内人であった。彼らの中には千葉氏・宇都宮氏・三浦氏などの
関東有力武家の庶流の出身者が多数含まれており、結果的に関東武士が多数含まれることになった。

これに対して佐竹氏・小山氏などの関東の御家人が鎌倉将軍府側に加わり、
更に既に将軍府に出仕していた旧幕府吏僚や御内人の多くも時行の動きには従わずに、
直義ともに鎌倉から脱出している。このため、鎌倉に入った時行は公式の幕府文書を発給することが出来ず、
御内人のみで出せる得宗家の奉行人連署奉書で命令を下している。
そして、建武政権に仕えていた旧幕府吏僚や御内人の中にも尊氏とともに
時行討伐に参加する者がおり、時行および御内人の挙兵は結果的には
御内人同士の戦いとなって鎌倉幕府再興の可能性を失わせるとともに、
室町幕府や鎌倉府を支える吏僚層を形成するきっかけとなった[7]。