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そして昭和三十八年に、鶴政会(現稲川会)に博打の負債を背負わされた
三代目鈴木巳松氏が、シマ一切を鶴政会に譲り渡し、昭和三十八年三月三日
明石町の冶作にて跡目披露を行いました。四代目は鶴政会相談役で
稲川総裁が、「あんちゃん」と呼んでいた井上与一氏が総長になりました。
ただ本来ならば佃政一家は、本当は一家ごと鶴政会に行かなければ
おかしいのに、井上氏もチラシの上では国粋会の方に出ていた事が
多かった様です。総長代行には当時日本国粋会副理事長
佃政一家築地二代目田中政吉氏がついておりました。

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田中氏と尾関氏は五分兄弟分です。生井一家九代目山口一義氏
生井一家大山で国粋会事務局長のち総本部長吉川知秀氏も兄弟分です。
ちなみに、田中氏は国粋会から脱会した二率会会長で小金井一家
納谷富蔵氏、親之助一家大月の田中潤一氏、落合一家の渋川清太郎氏も
兄弟分です。佃政一家は総長が稲川会で、残りの人達は全て国粋会と言う
変則的な形が続いていました。そして田中政吉氏の後を継いでいた
築地三代目で当時の総長代行加藤勇氏が亡くなると、稲川会は方針を打ち出してきました。
国粋会にいる佃政一家は、稲川会に入れと言う事です。井上与一氏の隠退にともない
六代目富山正一氏が跡目になりました。
この方針に反発したのが、現佃繁会会長尾関裕計氏と現国粋会事務局長小島輝雄氏です。
当時、国粋会に残ったメンバーで、佃繁一家を興そうとした時、一家は認めないという
稲川会の言い分聞き佃繁会になったということです。国粋会に残ったのは
木挽町と佃、晴海です。不思議なのは五代目がいないのですが、徳間書店から出た
藤田五郎氏著書「関東の仁義」のなかで、佃政一家の田中政吉氏の半生が描かれていますが
その中で、佃政五代目田中政吉と書いてあるのは?
正式に披露はしてないはずですが、五代目格と言う事でしょうか。
佃繁会については、今現在やくざ通の人は皆知っていると思いますが、
厳しい状況にある様です。早く国粋会の分裂騒動も、収まって欲しいと思います。