押井:富野さんとは、個人的には全然面識はないのですが、「ガンダムは」見ています。
とくに「逆襲のシャア」は、かなりしつこく見ました。
あれは特筆すべき作品ですね。それまでの「ガンダム」にあった、思春期の少年たちのドラマ、その甘い部分とか、
ほろ苦い部分とか、全部とっぱらっちゃって、ものすごい「中年」になっちゃった。
思春期のドラマを取り払ったときに「ガンダム」という作品の本質に残っているのは何か?
それが、全部わかってしまった作品だと思いました。元祖の「ガンダム」から10年かけてあそこまでエスカレートしてきた。
だから究極の「ガンダム」といえるんじゃないでしょうか。
そこで感じたのはそれまで「ガンダム」でやってきた思想はやっぱり「本気」だったんだなということでした。
それは、簡単にはいえませんが、要するに人間は進化しつづけるという「進化論」の人ではないな、ということ。
むしろそういうものを憎悪しているんじゃないか。それがよくわかりすぎて、気持ち悪いほどでした。
もし僕が、同じことをやるとしたら、あそこまで(自分自身の)生な思想をドカンといれたりはしません。
へたをすると、それまでていねいに作ってきた虚構とか、キャラクターの存在感がふっとびかねないから。
そういうタブーのない方なんだと思っています。とくに、「逆襲のシャア」では富野さん自身と作品の距離というこでいえば、
それは果てしなくゼロに近づいているのではないでしょうか。
極端にいえば、富野さんは人間がすきじゃないってことに尽きるんじゃないか。
人間とは許しがたい劣性であると…。でもこれは人にいわないだけで、富野さんに限らず誰しも持っている考えなんじゃないでしょうか。
宮崎駿さんにだってありますよ。
だいたい演出家は悪役を活躍させると、そこに思わず本音がでちゃう。悪役っていうのは、物語の必然性以上に、演出家がいいたいことをいうために
必要なんです。富野さんにとってシャアは究極の悪役ですよ。
そのシャアを使っていいたいことをいっているんじゃないですか。
さらに、ブランドである「ガンダム」だからそういうことができたのではないかと思います。
それはちょうどぼくが「うる星やつら」のメガネっていうキャラクターで、そうとうひどいことをわめいてもOKなのといっしょだと思うんです。
「ガンダム」っていうロボットもののアニメという認識が、なにをいってもすべて飲み込んでしまうから。だからなんでもいえる。
でもそういう状況だけでしかいえないっていうのは、むしろ悲壮です。
そういうところでいってもだれにも届かないだろうということを知って、富野さんは「逆襲のシャア」をやっている。
それも一回見ただけで圧倒されてしまうほどの内容で。
そのやり方は僕も肯定し納得できます。その製作スタッフが張りを持って作っているんですから。
作品を仕上げる上で現場的な管理も含めて、手練手管はある方だと。
でもその映画に対して、世のなかがどうリアクションして、どうフィードバックしていくのかということは、
あまり気にしない方なんじゃないかと思いました。
僕自身は、自分の作っているものに本気になっちゃおしまいだと思っています。自分が作っているものに距離を持とうと思ってやっているんです。