【森忠大】国際プロレスpart23【田中元和】
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
国際の場合はタイトルマッチよりも「金網デスマッチ」の方が遥かにプレミア感、集客効果があったんじゃない?
実際俺が昔見た浜松大会では、IWA世界タッグ戦が行われたにもかかわらず、ポスターで大々的にうたわれたのは
「壮絶金網デスマッチ」の方だった そういや国際でリングアナやってた竹下民夫って元力士・プロ野球選手だったらしいけど
力士時代やプロ野球選手時代のデータいくら探しても出てこないんだよな >>843
90年代だって、地方じゃやっぱり馬場やハンセンみたいに知ってる選手や、オブライトやウィリアムスみたいに
見た目からしてデカイガイジンの方がわかりやすくて嬉しかったんじゃない。
四天王プロレスって言われても、田上以外は一般よりちょとデカイニイちゃん達がよくわからない技で長々やってる
風に見えてたと思う。 ノーテレビのタイトルマッチは新日でもあった。
健吾がブレットハートに勝ってNWAインター世界Jr.奪取もノーテレビ。
田園コロシアムでピートロバーツとの防衛戦もノーテレビ。
この日のメインは猪木&バックランドが初タッグ結成でハンセン&ラリー・シャープ。
コロシアムのでかいライトも付けず、地方のようにリング上にワイヤー張って小さな照明だった。
http://blog.livedoor.jp/norarinhouse/archives/1744982.html 40年前の今日、1980年3月31、後楽園で井上&浜口のIWAタッグに健吾&永源が挑戦。
試合内容で押され、浜口が健吾のプランチャーで失神KO、長期欠場。
この日の試合でのイメージダウンで国際崩壊への序曲となる。 佐山タイガーとブラックタイガーの田コロのタイトル戦もノーテレビか
タイガーのタイトル戦で唯一のノーテレビマッチ? 1975年4月のIWA世界ヘビー級移動劇
足立区体育館でのバション>井上はテレビマッチ
次の放送では木村がIWA王者で視聴者は「???」
実はその直前の札幌中島で木村>バションで木村がIWA戴冠だがノーテレビ。
井上戴冠時の対グラハム3連戦もすべてテレビマッチではなかったのでは?
第1次UWF旗揚げ戦最終戦はノーテレビで照明がない真っ暗な蔵前で
WWFライトヘビー級タイトルマッチ・グラン浜田>ペロ・アグアヨ
日本でのNWA戦記録を見ると日程的に全試合テレビは無理。
http://blog.livedoor.jp/norarinhouse/archives/1729842.html >>858
ジャックブリスコが馬場からNWA王座奪回した試合はノーテレビだった筈。 阿修羅原が自身最大の名勝負という
天龍とのUN連戦がどちらもノーテレビ
なのはイタい。
ジャパン参戦時代に何度かシングルやった
けれどもそれほどいい内容ではなかったし。 猪木対モラレスのNWF世界戦はテレビ放送予定だったけど
猪木があまりにも不甲斐ない試合したので急遽取りやめになったんだっけ >>850
国際のテレビ放送もされないタイトル戦=
ウソのタイトル戦なのかも知れないが
その後、いくつはコメが入ったが、
新日、全日ではノーテレビのタイトル戦、
ビッグマッチがあって、それは生で見にいなくては!
という気にさせたんだよ。
確か、81年5月ハンセン対ホーガンとか86年5月の
アンドレ対K・バンディとか(共に後楽園ホール) 国際でノーテレビのタイトルマッチと言えば
1971年3月、小倉のT杉山対Bミラーの
IWA戦が有名だな!
あれこそ見てみたかった試合だ。
プレミアム感満載だよ。 アンドレ対バンディ戦で思い出したが、海外の試合だと
対戦相手が場外に逃亡してそのままリングアウト負けになるって結果けっこうあるな
トラ―・アトラス対キラー・カーン
アンドレ対アーニー・ラッド
ザ・シーク対アンドレ >>865
俺は、アンドレ対バンディ戦を
ノーテレビというので生観戦したんだが、
バンディは、逃走するというより
やる気をなくして、帰ってしまったという感じだった。
無論、客は怒るやら呆れるやらだった。
まぁメインでないから暴動騒ぎまでは
行かなかったがな。 >>862
それは後年、照明かなんかの関係でほとんど映ってなく放送出来る素材になってなかったって話じゃなかったか >>860
豊橋のNWA王座移動劇だよね。
あの時代は世界王座が移動した場合、映像をNWA総会に提出する義務があった筈
だけど不思議なことにノーテレビだった。
あとノーテレビで一番有名な試合は、今も三冠王座に組み込まれている
至宝インターナショナルヘビー級王座
力道山がルーテーズから奪った重要な試合の映像が残ってない。
過去ロス地区のWWA王座移動劇やハワイの試合映像まで撮影してきた力道山が
最も大事な試合を撮ってないから、いろんな憶測が飛び交った。 俺はアンドレ対シンというゴールデンカードw
を80年12月大田区体育館で見たが、
アッサリ反則がらみで終わった。
メインは猪木バックランド対パワーズベーカーw
セミにハンセンホーガン対藤波木村
意外というか、客入りは3200人で良くなかった。
何でかと首をひねったな タッグリーグとはいえ、ノーテレビの顔見せ試合の
雰囲気だった。
その中でハンセンだけはフルファイト、つられて
ホーガンもラッシュしてた。 >>868
日大講堂でのNWA初防衛戦の翌週の放映で
「残念ながら馬場選手は豊橋で防衛に失敗しブリスコが返り咲きました」
みたいなアナウンスでさらりと流された記憶がある。
思えば東スポもNWAが馬場からブリスコへ移動なんて大々事件なのに
二面で軽い扱いだったように思う(こっちはあいまい)
ぐるでやってるんだろうけど、本部に映像を提出しなきゃならんのなら
それこそ8ミリで収録、なんてことかもしれないね。 タイトルマッチじゃないけど、1975年、新日の第2回Wリーグ戦公式戦、猪木対坂口戦。猪木が坂口にピンフォール勝ち(回転エビ固めだけど)した試合なのにテレビ放映なし。
ついでに、翌日の優勝決定戦、クラップ対猪木戦も、生中継で尻切れトンボのまま放送終了。以後、フォローなし。 >>871
竹内さんが8ミリで収録している可能性もあると思いたいけどね。 猪木vs藤波の初対決、藤波vs長州もノーテレビ。
藤波vs健吾はすべてテレビマッチだと思う。
https://white.ap.teacup.com/corona/1982.html >>874
藤波と健吾は82年?のWWFインター戦がノーテレビだったと思う 83年の全日本のチャンピオンカーニバルの
後半戦に特別参加したブロディは天龍、
テリー、鶴田、ドリーとインターの防衛戦を
10日間で行ったが全てノーテレビ。
この扱いはあんまり。
で、その間最強タッグのリマッチの公式戦も
こなすという使われよう。 商品価値のある選手は、なるべく負け試合を
テレビでやらず地方でこそっと負けさせて、
価値を落とさないようにしてたかもしれないね。 >>877
まあ、そういう主旨のシリーズだったからねえ。 >>877
グランドチャンピオンカーニバルは>>877の言う通りタイトルマッチ乱発が売り物で
テレビはリマッチを中心に放送してたから WWFでアンドレとローデスは超ベビーフェイスのため
MSGシリーズで2人が戦っているのが映像で出るとマズイとのことでノーテレビになったらしい。 >>880
いくらなんでも乱発を売りにしてはいけないな(笑) >>882
既成のタイトルを否定したIWGPに対抗したシリーズだからいいんだよ。 新日外人取り組みでノーテレビ
カネック、ソリタリオVS藤浪、チャボ 79年MSGで実現した夢のジュニアタッグ
アンドレ、アトラスVSホーガン、ムラコ 82年MSGで実現した、丁度ホーガンの前半特参と
アンドレの後半特参の双方が一日だけバッティングした日のタッグマッチ
国際と全然違うな。。w あ、しもうた。 ずっとあいつのこと書いてたんで予測一番目で書いたw >>880
大仁田対ドノバン、ジョーのインターjr。
鶴田対スミルノフのUN。
ケリー対石川のミズーリ戦。
ハンセン・スミルノフ及びハンセン・バス×2
のインタータッグ。
石川・羽田とのアジアタッグ。
そしてインターの4連戦。
ここまでノーテレビがあったというのも
凄いけど、この中に隠れた名勝負が
あったという噂が全くないのもまた凄い。 アンドレ、アトラス対ホーガン、ムラコ
WWFの善玉悪玉最高対決じゃん
日本では想像出来づらいが、前者が善玉ね
トニーアトラスは、来日時写真集を買い込むほど
のミミ萩原ファンだった
各選手が売れてからWWF勢が来なくなったのも、国際がなんか寂しい、寂れた印象を与えたね。
国際に久しぶりに来たアンドレは楽しそうだったが。 >>887
>ケリー対石川のミズーリ戦。
お地蔵さん顔の石川が勝ってミズーリ王者はあり得ないから消化タイトル戦。 国際でいえば
イリノイ州ヘビー級選手権試合
レイ・スチーブンス×寺西
って感じだろうか。 スネーク奄美vs荒川真…鹿児島ジュニアヘビー級選手権 元々、全日の第一回チャンピンカーニバルは
後半、怒涛のタイトルマッチの乱発だったがね。
○PWF世界ヘビー、馬場対ザ・シーク
○US,太平洋ダブルタイトル、
デストロイヤー(US王者)対K・イヤウケア(太平洋王者)
○US,南半球ダブルタイトル、
デストロイヤー(US王者)対M・ルーイン(南半球王者)
○南米ヘビー
Cハリケーン対ヒロ・マツダ 越中と三沢がアジアタッグに挑戦したのはGCCのIIだっけ >>893
83年GCCII 5月20日泉佐野市民総合体育館
アジアタッグ選手権 60分1本勝負
井上・原(1−0)越中・三沢
原(12分51秒片エビ固め)三沢 >>894
ありがとう
しかし極道との試合が高石で、この試合が泉佐野ってまた大阪の地味なとこばかりw 子ども過ぎてTBSプロレス中継の記憶はまったくないが、ウルトラファイトはよく覚えている。
山田二郎アナって、プロレス実況していたからウルトラファイトの起用が決まったらしいけど、
プロレス実況は上手かったのかな?
https://m.youtube.com/watch?v=nPTdt9nLaIY >>889
ケリー石川のミズーリ選手権は石川の地元山形での試合だから
当然石川自身のプロモート興行で勝とうが負けようが客が入って黒字になればOK
>>895
まあ国際の金網と一緒で
売り興行の値段を上げる為のタイトル戦だから ノー・テレビのタイトルマッチとして、ラッシャー木村vsストロング小林の新日マットでの
タイトルマッチがどうだったのか知りたい。
例えば両選手の入場曲が木村=スカイダイバー、小林=ストロングハッグだったかとか、
試合の流れがどんな風に行われ、夏のオールスター戦とどう違っていたのかとか・・・・ >>898
その試合、YouTubeで見た記憶がある。 >>833
ゴングでIWGP対GCCと煽っていたけどPART1の売りは最強タッグリマッチ、
PART2は鶴田の脱・善戦マン挑戦シリーズw、PART3はテリーさょならシリーズと
直接対決になったPART2を完全にIWGPを避けるも猪木失神試合の数日後に行われた
鶴田と馬場のNWA、PWF戦は内容も良くファンの溜飲を下げるいい興業だった。 >>898
「東京12チャンネルの…」でも少し触れられていたね
豪華カードと言っていい興行だったので満員にならなかったというのは意外だった
動画があるなら見たいなあ 国際プロレスでかなりしょっぱい試合をするレスラーって誰ですか?
エピソードも交えて教えてください >>903
ダイナマイトキッド自伝「国際に行った時に一緒だったオックス・ベイカーが酷かった。
ギロチンドロップをやったらケツを相手の顔の上に落としてしまい、客も白けていた」
ケツを顔面に落とされた選手はのびたと思う。
あとは普通に草津、剛、高杉、三流外人とシッョパイだらけだった。 >>901
豪華カードぼいけど、実は
MSGタッグの決勝は終了した後の特別試合。
リーグ戦参加のアンドレ、バックランド、ホーガンは帰国していた。 あの当時は「○○シリーズ追撃戦」という形で、本場所が終わった後のミニシリーズみたいな
興行をけっこうやっていたね
週単位契約の外人レスラーの日程消化だとか、本戦に組み込めなかったプロモーターたちへの
救済措置だとか、色々事情はあったんだろうけど
ワンマッチ形式の「夢のタッグ」とかが実現するのでプロレス雑誌的にはビッグマッチみたいに
掲載されていたけど、カード編成やら苦労したんだろうな 新日は猪木&ローデスvsハンセン&シンとか、猪木&藤波vsボック&ハンセンとか、
夢のタッグ対決を実現させていたね。全日はせっかくテリー&ロビンソンとか組ませても、
地方会場で相手がアステロイド&アベンジャーとか興味半減のマッチメイクだった。 >>906
だから木村小林戦が組まれたのも、
アンドレらが抜けた穴埋め的な意味があったんだろうね。 >>907
それはあまり意味のない問いかけで。
そもそもファンクス対ブッチャーシークのような
ドリームタッグ戦を定着させたのが
全日本のオープンタッグ、最強タッグだったんだから おかげで数合わせ的に参加した?浜口・寺西が好勝負を演じて新日に高く評価されたという話も
【雪の札幌】昭和の新日本プロレス17【藤原テロ事件】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/wres/1579795728/
16 お前名無しだろ 2020/01/24(金) 10:22:46.68
80年大会も追撃戦あったね。
東京体育館で猪木、ローデス対シン、ハンセンという夢のカード。
他にラッシャー木村対ストロング小林も組まれた。
17 お前名無しだろ 2020/01/24(金) 10:46:16.82
それは追撃戦じゃなくて、元から日程に組まれてた興行では?
東京体育館大会は、元から公式戦は組まれて無くて
特別試合のみでカード編成するという興行だった。
例えば、84年タッグリーグ最終戦の広島大会も元から公式戦は組まれて無くて
特別試合(猪木坂口vsアンドレホーガン)とバトルロイヤルが組まれたからね。
83年の追撃戦の時は、日程発表があった後日に追撃戦の2試合が発表されたと思う。
19 お前名無しだろ 2020/01/24(金) 11:36:04.92
優勝戦の後だから追撃戦には変わりない。
誌面にも追撃戦と書いてある。
18 お前名無しだろ 2020/01/24(金) 11:21:25.51
他に藤波&健吾vs浜口&寺西もあったんだよな
すなわち翌年からの国際軍団の三人がここで揃い踏みって >>901 >>905
最終戦の東京体育館の時点ではアンドレ、ボブ、ホーガンの他にも
ルスカ、ハングマン、グレイ(リーグ戦不参加)、それ以前にパワーズとベーカーも途中帰国しており
外人側はメイン登場のローデス、シン、ハンセンの他には上田とアレンが残っていただけだった
それでも豪華ともいえるが同一シリーズ内格差は激しい、それも都内大会場なのに
中盤の大田区体育館ではローデスを除く12人が揃っていたのだから この手の遠征試合?で国際の主力が参加しても井上は新日にはまず来ないw
まあでも、80年末って新日、全日は豪華なタッグリーグ戦で国際は普段通りの興行。
ていうか11月末で終わってんだよな。顔ぶれはクラップ、スミルノフ、ムルンバ(ジンバ・カーン?)
それとカルロスプラタとエルドーベルマン。この初来日の2人のNWA系ルチャは小気味良いファイトで
IWAタッグも挑戦、プラタはルチャ系の外人の窓口としての役割を果たす。 >>911
それなのにその大田区大会が客入り
良くなかったんだよね。3200人。
どうもこの時期の新日はタッグリーグ戦の
プロモーションうまくなかった >>898
新日マットで、ラッシャー木村vsストロング小林の(IWAヘビー級の?)タイトルマッチが行われていたことは知らなかった。
いつ頃行われたのかと、試合内容及び結果をご存知の方、教えてください? >>915
雑誌で見た記憶ある。
木村が、バックドロップで勝ったと思う。バックドロップの写真はあった。 >>911
東京都体育館は1万人クラスの大会場にも関わらず客が入らない。82年の全日本が
15年ぶりの超満員発表だったとか。 CWニコルさんが亡くなった
残念だが、わからないことが一つある
元プロレスラーだったらしいが、日本では試合してなかったのかね。
上がるとしたら国際のリングなんかうってつけだったかもしれないが。 >>847
昭和50年代の正月に鶴田が、ラジオたんぱに出た時、ライバルは?の質問にリックフレイヤーと言っていた。鶴田がなにを語ったか忘れたが、プレイヤーは違和感あったな。 すまん、下記の名前が、プレイヤーになっていたが、フレイヤーでした。 >>921
リック・フレアー 本名Richard Morgan Fliehr
日本語にするとフレイアー、フレイヤー 子供のころ国際だと思うんだが、花柄パンツの選手がいて応援してた記憶があるんだが。
名前を思い出せない。 >>925
有り難うございました。
確か、そんな名前だった。
スッキリしました。 >>914
新日のタッグリーグ戦が最強タッグやシングルのリーグ戦に比べてイマイチなのは
ベビー(日本)側が結局のところ猪木+坂口/ボブ/ホーガンといった最強コンビの実質一択で
全日のようにvs凶悪コンビや有名ガイジンコンビだけでなく
ベビー側でも師弟コンビとファンクスという二極が星を争うというような
レースとしての図式が描きにくかったことと
アンドレというタッグでは賑やかしにはなっても星取り的には扱いにくい存在が大きかったのでは
(パートナーを弱くしないとバランス取れないがいつもそれだと
アンドレにもせめてもう少しマシなの組ませてたら…的な展開にせざるを得ない)
アンドレ組に勝つ=アンドレを暴走させパートナーを孤立させる
アンドレ組に負ける=アンドレが弱体パートナーをカバーして孤軍奮闘
vs猪木組はじめ好カードや優勝戦でもどっちにしてもアンドレ一人に焦点が当たるから >>919
グリンピースが鯨の捕鯨問題で日本を標的に環境テロを行うと宣言した時に激怒して
「来るなら来い!俺は"スタンハンセン"をノックアウトした男だぞ!」と
コメントしていた。 >>919
ニコルさんは地元で空手と柔道の経歴を生かしてアルバイトでサーカスレスラーをやっていたそうな。
得意技はハンマーロックからの蹴り。本当に強い奴と戦わなきゃならないときはカッコよく負ける事が秘訣だと。 子供のころ国際だと思うんだが、黒いステテコはいてて、いつも血だるまにさせられて
反撃したと思ったら急所をかち上げられて悶絶していた選手がいた・・・名前を思い出せない。 月刊プロレス1981年4月号の「我が心の名勝負」櫻井康雄の回を
読み返してるんだが、さすがに当時はあまり突っこんだことは
書けない時代だったのだろうけれど、やっぱり色々面白い
小林国際離脱の原因についてははっきり草津や井上の名前を挙げて
「国際プロレス内部で浮き上がった存在になっており、前年の暮れ
あたりから後援会を通じて吉原社長に辞意を申し入れていた」
と書いているけれど、櫻井さんの文章いわく、門馬さんから小林が
行方不明になっていると聞いて追跡を命じ、吉原社長がまだ記事に
しないでくれという門馬さんの言葉に「お前は知らないことにしろ、
俺が勝手にやったことにしよう」と小林離脱記事を一面で「スクープ」
したのが2月12日のことだった、ということになってる
その晩に「小林から私あてに電話があり」ニューオータニで落ち合い
「小林は私に離脱の真意を説明した。ここに書くことをはばかる
部分もある」「要は外に出て、アメリカでもヨーロッパでも自分自身で
思い切り生きてみたい…というのだ」と書いている ここで櫻井の主張する「離脱年表」はこう
2月10日 櫻井、門馬から「小林失踪」を知らされる
2月11日 櫻井、門馬からこの話は伏せるよう匂わされる
2月12日 櫻井、「独断で」小林離脱をスクープ
この日小林から電話があり、櫻井がニューオータニで
会談をセッティング、小林に「海外へ行く前に大きな
ことをやれ、記者会見を開き馬場と猪木に挑戦しろ」
とアドバイスするも記事にはせず
2月13日 小林、記者会見
櫻井、東スポ井上博社長に個人の考えとして「小林を
使った馬場・猪木との日本選手権構想」を申し入れる
櫻井、青梅の小林宅を訪ね、東スポの全面支援を約束、
猪木・馬場への「挑戦状」を「小林と共に」作成する
2月14日 小林の「挑戦状」内容証明で発送される
新日新間、全日米沢から問い合わせがあるも櫻井は
「取材している範囲でしか分からない」とトボける 2月18日 猪木がグアム、馬場がハワイから帰国、両者の反応を
見た櫻井は「まず猪木vs小林戦を強行し、勝者が馬場に
挑戦する」という方向を決断、井上社長の賛同を得る
2月19日 櫻井、新間と京王プラザホテルで会談、猪木が小林と
対戦するなら東スポが支援すると約束(ただしこの段階
では馬場との日本選手権までは話していなかったという)
新間は「主催は東スポ名義でも興行権は新日がもらう、
という条件なら受ける。ただし小林のファイトマネーは
新日が支払う」と応諾
2月25日 猪木が「電撃的」に会見、小林との対戦受諾を表明、
「馬場も参加しての日本選手権実現」を訴える
櫻井、針ヶ谷東スポ編集局次長に馬場の説得を依頼
2月末日 針ヶ谷、「馬場には全くやる気がない」と報告、井上
社長以下「猪木vs小林を強行し、事実上の日本選手権に
持っていくしかない」という方針を固める この文章で、櫻井は門馬さんから小林失踪を聞かされた時点から
「内紛だの飛び出した原因だのなんて問題じゃない、むしろ小林が
これから何をやろうとしているかだ」と言っていたと書いていて、
「櫻井年表」」だと東スポが小林離脱をスクープしてからのたった
二日の間に一気に事が進んだということになっているが…、いくら
スピード命のマスコミの世界とは言えなんぼ何でも速すぎる
(後に新間が「三カ月かけて小林を口説いた」と言っているように)、
今では常識になっているだろうけど、小林が草津にいびられて国際に
嫌気がさしていると聞いた新間が離脱前年の末頃から離脱を勧め、新日と
一蓮托生、かつプロレス人気の落ち込みに焦燥感を募らせていた櫻井が
早い段階で東スポ上層部を説得し、満を持して「日本選手権構想」を
進めていた総仕上げとしての「馬場・猪木への挑戦表明」だったんだろう
小林の「挑戦状」を自分が作り、全日関係者からの個人的な勧誘連絡を
「公開の場以外では誰にも会うな」と指示した櫻井は「私は小林の作戦
参謀になったつもりだった」と自白している I編集長の喫茶店トーク
https://kissatalk.web.fc2.com/kissa_talk_004.html
やっぱり引き抜いてどうのこうのというのは好ましくないというのが、
当時の常識なんですよね、当時のこの業界の。しかし、それをあえて
やろうと言って動いたのが猪木でしょ。
それでハッキリ言って当時の推進派が、「月刊ゴング」ですよね。
だからこれは「東京スポーツ」さんが中心だったことは確かなんで、
だから東京スポーツの、テレビ解説などをちょいちょいやっておられる
桜井さんとか、新間寿氏とか、ゴングの竹内さんとかね、そういった
人たちがとにかく実現させようじゃないのかということで動いた。
私の「週刊ファイト」というのは大阪だったし、そういったものには
巻き込まれていません。
私はハッキリ言って蚊帳の外でね、どうなるのかなと思って見ておったですね。
だからまあ、名勝負には違いないんだけれども、ドロドロした実現までのね、
そういったものがハッキリ言って嫌だったですね。それがね、ものすごく
個人としては割引の材料ですよ。それはファンにとっては関係ない話だからね。
だから今私がこういった内輪話というか、そういった話をする必要が無いかも
しれないんだけども、私個人としてはやっぱり吉原社長が、国際プロレスのね、
やっぱり泣いてましたよ。そういったことも知ってるしね。
僕は吉原社長が好きだったですから、そういった事もあって「ウーン」という
感慨無量の試合だったですね。
だから試合っていうのは、ただリング上の試合だけじゃないんですよ。
その人によってね、いろんなシチュエーションというのがあるんだよね。
だから、それによって名勝負になったり、ならなかったりするということでしょう。 ところがそんな裏事情は承知の吉原社長は、東スポが「主催」しての
蔵前決戦が発表されたタイミングで、出場停止の仮処分申請に動き、
実質東スポに対して違約金の支払いを要求する
櫻井に言わせると「1月21日で契約切れのはず」と信じ込んでいた
小林のカン違いで、吉原社長の提示した契約書は「半永久的に」
小林を拘束できるものになっていた
結局、東スポの井上社長と高橋総務が話し合い、違約金を払う余裕の
ない小林に代わって1000万円を肩代わりする決断をして試合を実現、
小林が吉原に頭を下げる会見の場をセッティングして、数日前まで
「四月一日付をもってストロング小林のリングネームを剥奪する」と
息まいていた吉原に「笑顔で小林の肩を叩いて健闘を祈る」態度を
見せることに成功した
とはいえ櫻井はこれで東スポ本社に多大な負担をかけたことになり
辞表を用意してこの試合の宣伝に努めることになる
「こうなったら何が何でもイベントとして成功させろ、プロレスを
書かなくなった朝刊スポーツ紙がこの試合を取り上げれば大成功だ」
とハッパをかけ全面支援し、試合後に握手を求めて絶賛してくれた
高橋編集総務に櫻井はいつも感謝の念を語っていた
結局1969年以来5年間、右肩下がりの様相を呈していたプロレス人気が
この試合を契機に息を吹き返し、新日ワールドプロレスリングの視聴率が
初めて20%を記録するようになったのは事実で、櫻井が後年この試合が
実現したこと、翌日のスポーツ紙が報知以外すべて一面でこの試合を
扱ったことを感情的に語るのもまあ仕方ないかなと思う
(ちなみによく櫻井が「凄いぞ、これは本物だ」と言っていたサンスポの
見出しだけど、実際は「こりゃ本気だ」でだいぶニュアンスが違うw) ヤマハブラザーズは国際のリングに上がっていた時が一番輝いていたと思う
山本小鉄は引退が早すぎたよね >>944
プロ野球開幕寸前と言うマスコミや世間から注目される時期も良かった。
あとワープロは黄金コンビ再結成で12〜13%の期待外れに数字がシンの登場で
16%に跳ね上がって上昇気流に乗っていた。
ただ一部関係者は力道山vs.木村戦ような後味悪い結果になるのを恐れる人もいた
らしい・・・ 昭和全日スレに書いたものだけど、プロレス人気はテレビの週合計放映時間が一番長かった
1969年がピークだったと言われていて、「東京12チャンネル…」で流氏も書いてるように、
日プロが日テレ・NET、国際がTBS、両団体とも通常放送以外に若手の試合を流す別番組があり、
これに海外のプロレス、女子プロレスの番組が他局にあって、ほぼ毎日プロレスを見られるのが
当たり前というとんでもない時代だった
で、一時期の格闘技ブームもそうだったけど、これだけ多くの局で放送されれば
視聴者にも
食傷気味になり、いったん視聴率が低下すれば「ブームは終わったな、じゃ次は○○だ」と
争うように撤退合戦になるのもまあ仕方ないところ
TBSの国際中継はこの69年から視聴率が下がり続けて、70年に15%を割り込み、72年から
水曜19時からの30分番組に縮小→
日曜18時からの1時間番組に移行→
日曜18時半から30分に縮小→
土曜昼14時からの30分に移行→
74年3月での打ち切り決定
と事務的に打ち切りに追い込まれていた(ピークからちょうど5年後というのが分かりやすい)
日テレと豪華外人勢を擁した馬場の全日本も視聴率は12〜13%、日プロはひとケタに落ちて
TV中継そのものを打ち切られ、NETが鞍替えした猪木・坂口の新日金曜8時もやっぱり12%程度
全日はへーシンク、新日はシンやマクガイヤー兄弟(同一シリーズに参戦していた!)が
カンフル剤になってはいたものの、ワールド大リーグ戦で猪木が優勝した頃の、視聴率30%超えが
当たり前だった時代は望むべくもなくなっていたわけで、櫻井康雄が猪木-小林戦の実現に
狂奔したのも、「このままだとプロレスそのものが消える」という切迫感にかられた部分が
大きかったんだろうね 小林が全国区TBS放送枠のエースレスラーだった事
その小林を草津がイジメてイジメて苛め抜いた事
その草津の悪行を吉原が見て見ぬフリをしていた事
東スポ連中がプロレス業界底上げに躍起になっていた事
全てがタイミングよく新日の小林獲得に働いた格好だな >>945
「これからは猪木!」と東スポが井上社長の判断の下で”猪木押し”に走るのは最強タッグ戦
からで鉄人&神様vs.黄金コンビ戦を企画し渋る新日が「テーズのギャラを負担してくれれば
・・・」と折れて成立した。マスコミ初の主催試合となり新日と全日の初のニアミス興業
も重なり全日は鶴田の抜擢試合で互いに好試合になり満員にならなかったが
「蔵前にプロレスが帰ってきた!」と煽るに相応しい"プロレス復興"の雰囲気が出始めていた。 両団体の最初の興行合戦がどっちもタッグマッチであったのが興味深い
そしてその間で国際のワールドシリーズが埋没 確かに小林は猪木と日本マット史に残る素晴らしい試合をして
プロレス復興の起爆剤になったけど、
理由はどうあれ、小林は国際の苦境から逃げた。
団体の顔として、負け試合でもBIと大会場で対峙した木村は
もっと称えてもいいよな。 ほぼ一試合限定で名勝負をしたストロング
名勝負はなかったけど何回も何年にもわたって話題になる試合を続けたラッシャー レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。