こうした「馬場プロレス(フェイク)」に対するライバルや先輩たちの
猛烈な反撥、嫉妬、ジェラシーの怨嗟がドス黒く燻っていたのは
確かであった。その源流は「見かけだけでセメント勝負も出来ず実力も無いのに
化け物(長身)人気だけで高給高待遇を得ている」
という憤怒感情からであった。

1965年(昭和40年)6月3日。札幌中島スポーツセンターで開かれた
アジア・タッグ戦で王座組である豊登&馬場チームは
ザ・デストロイヤー&B・R・ライオンの義兄コンビに敗れるという波乱が起きた。

この年の秋には芳の里グループの強力な後押しで
NWAに権利金の2万5千ドル(900万円)の裏金を積み、
復活インターナショナルのチャンピオンになることが
既に約束されていた順風満帆の馬場に対し、
最後まで反対していたのが力道山亡き後、日プロの社長でもあった豊登であった。