1991年の新日本、全日本
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新日 G1クライマックス SGタックリーグがスタート、トップオブスーパージュニアの復活の年
全日 超世代軍の人気が大爆発
後楽園のチケットが取れなくなった年 本当に曜日は関係ない客入りだったですね。その後の積み重ねで土曜日使えるようにな
ったらしいけど。カード発表を待ってると遅いので武道館観戦の前に次の武道館の切符
を買うのが常態化したのも多分この年あたりから。特に武道館に限ってはカードも内容
も信頼がおけた時期だった。新日のような開けてビックリ、はないけど5千円のチケな
ら8千円くらいの満足感がありました。 新日はカードの新鮮さに拘ったためか外すときは外すからなぁ
全日は同カードを研鑽しまくった感じする(後の四天王プロレスに繋がるんだろうけど) この年まで武道館は年4回開催だったけど、何時からか新春ジャイアントシリーズ以外、毎回開催されるようになったね >>187
なんで新春Gだけ使わなかったんだろうか?
リングスに遠慮してたわけでもないだろうし。 >>187>>189
松本、千葉公園、大阪、横浜で三冠戦が組まれた年もあったけど、何で武道館は使わなかったんだろうね?
1月だけ使えない理由があったのだろうか? この年から新日に参戦したキムドクのデカさに感動したなぁ
昭和の頃はそこまで気にならなかったけどマシンとかヒロ斉藤と相対するとやたらデカく見えた
栗栖とのこれぞヒールみたいなチームも好きだった
いま、あの雰囲気を持ってるレスラーは見当たらないなぁ… この年の新日大阪城大会はドーム大会より
カードも良かったし盛り上がったし面白かったな
武藤がビガロをジャーマンでフォールしたとき飛び跳ねたよ >>191
シンとドクが組んだ時 同じリングに立った時は感激したな。
かつては同じタイガー同士でも丁度入れ違いで接点なし。
もしどちらかの移籍が少し遅れたら確実に絡んだはず。
戸口の移籍が遅れたら、全日でシンと対戦。
シンの移籍が遅れたら、新日で戸口と対戦。
本当に丁度入れ違いだったから。
でも10年後に新日で遂に接点が。
雑誌では『力量ではシン、上田に劣らぬシン、ドクの大型凶悪コンビ』と書かれて。
この二人相手だとマシーンと後藤が小さく見えた。
シンとドクは結局は一時的に組んだ流れだったが。 フィニッシュのツームストーンでフォールしながら自分でワン、ツー、スリーってやるのもカッコよかった 栗栖・ドクといえばG1で組まれたヒガンテ・ライガー組との試合での
「クリ・ドク」
230pのヒガンテに対抗してドクが栗栖を肩車して「どうだ!」と凄んでいたのが
なんか可笑しかったw 同士討ちがシンドクて負けたとか
SGタッグの時に書かれていたような。
どうせならタイガー・ジェット・シン&タイガー戸口で参加して欲しかった。 >>196
あの当時、ドク43歳 栗栖44歳
いまの棚橋とほぼ同い年とは思えない重鎮ぶり キムドクは当時中学生だったから見ててでかいけどもっさりしてて好きになれなかった
本人も色々言ってたけど新日には合ってなかったと思う >>194
アク禁されてビビって省略やめた負け犬ガラケー爺 6月の武道館のメインは世界タッグ。メインでスパイビーが田上に勝利。武道館のメインでスパイビーが勝ったというのはよくよく考えると凄い。
スパイビーはシングルでもタッグでもゴディ&ウイリアムスに勝ったことが一度も無いのに「外人4強」と言われ続けていたことは釈然としなかった。 そのスパイビーの公式身長203だが、他にいなかったから外人四天王に入った。 >>194
対戦表をみた越中が一言「おっ今日の対戦相手はドクシンかー」 スパイビーはのちにデストの娘とたしか結婚したりもしてるはずだし、レスラーとして
の評価以上に業界の大物先達に気に入られるような社交性とか人間性を持ち合わせてい
たんだろうと想像する。スティングにも勝たせてもらってるし馬場が目をかけてたのは
間違いない。 続けてすんませんが渕も後年のインタビューを読むとスパイビーをずいぶん買っていた
と言ってた。エースは向いてない、なんて言う一方で意外な高評価だった。「10年早け
りゃ馬場さんのいいライバルになったはず」なんて、そこまで言うかねという感じ。 観客「スパイビー!スパイビー!スパイビー!」(スリーパンチにあわせて)
観客「ウ〜ッ!」(ロープへ振るのにあわせて)
観客「スパイビー!!」(ビッグブーツにあわせて)
一時期流行ってたこの手の客の悪ノリ、大キライだったなぁ… この頃の全日はファンもやや調子づいていて、つまらなそうな試合はコールでも掛け声
でも合いの手をいれてでも楽しませてもらうぜ、みたいな変な積極性があったのは確か
オリャとかシャーが発展したというか選手たちからすると好ましくない方へ発展したの
だろう。 209馬場の公式身長だが、新日でも茶化しコールは浸透した。 >>205>>206
スパイビーがスティングに勝ったのは当時、厨房だった俺だが意外な結果だった。
エースは「お前はでかくてマスクがいいからプロレスやれ」と言われて始めたと聞いたことがある。
2人ともしょっぱかったけどやっぱりプロレスって素人が見る以上に難しいのかね。
やっぱりブロディみたいにでかくて動ける選手は奇跡的な存在なのかな。 >>208
シンシン7拍子とか、シンの打撃に合わせて「シン!」の掛け声とか、嫌な観客もいただろうね。
俺は武藤全日本の時の川田のコーナー串刺しハイキックの時の「イ〜〜〜ヤ!!」が耳障りだった。 全日の武道館についてだけどこのころから武道館を本当のシリーズ最終戦にする、とい
う判断も正しかった。90年位だと武道館の翌日に興行が入っていたり数日シリーズが
続くケースもあった。武道館でフィニッシュ、のほうが多少無理もできるだろうし、な
により武道館の価値を選手もファンも再認識したはずだ。アメリカ人レスラーだって
世界に轟くブーダカンの名前と価値とその特別性は理解してたろうな。 >>213
その武道館は東京五輪に向けて改装工事だってね。
今年からか来日頭からだか。
柔道は武道館が会場だからね。 マジソンスクエアガーデン、ウェンブリーアリーナ、日本武道館は世界の三大アリーナ プロレスニュースで取り上げられた小川ファンの女
松戸大会にも現れて例のごとく叫んでたら
うるせぇとか黙れとかヤジが凄かった >>213
この年武道館最終戦は4回中2回だな
CCは2日後にファン感謝デーがあったから実質最強タッグだけって感じ
翌年は5回中3回と増えたけど三沢の三冠奪取は開幕から3戦目だった >>70
遅いカキコミすいません。
それは、93.9.3武道館のハズ。
初めての生観戦、最初の試合だったから覚えている。
コーナーポスト最上段からのダイビングエルボーで、
マイティ失神。
戸惑う大森、促すレフリー、
まだ観客も少ない第一試合だから、やたらに乾いた拍手と、マットの音を覚えている、、 全日中継にて
川田「吉田栄作よりカッコいい!」
小川「プロレス界の加勢大周」 >>210
スパイビーは当時でも何気にもフォール取られることも多かったイメージ
尼崎大会でハンセンのラリアット誤爆で川田にピンフォール取られてた
最強タッグでも三沢、川田と鶴田、田上に敗れてたなぁ >>220
ダニスパはルックスよいし、迫力あったけど、不器用 >>213
武道館を最終戦で組むようになったのは、猪木時代の新日がシリーズ最終戦を
都内大会場で組んでたことが多かったので、全日もそうすべきだとター山が
馬場に進言したから。 この年の最後の全日中継はダイナマイト・キッドの引退試合だった。 >>224
エンディングのあたりはもう、涙ボロボロ流しながら観てたわ… 51分32秒のファン感はなんだかんだで良い興行だったと思う。4.18の後でもあのクオリティの興行を一律3000円だか2000円のチケットでやるんだもん。
そりゃ試合終わった後に週プロ編集部に「今日の試合を表紙にして下さい」と電話するわ >>213
武道館で三沢が活躍して、シリーズ最終戦の地方大会TVマッチで
6人タッグにもかかわらず鶴田に三沢がピン取られてたのってこの年?
武道館で脚光浴びたけど、最終戦で次期シリーズの展開を見せる、
という意味では武道館が決して最終である必要はないのかも。 >>227
ほんとは1000円にする予定が、直前に3000円にされたと、竜さんが嘆いてた >>229
シリーズ最終戦で三沢が取られたのはサマーアクションシリーズの松戸大会。このシリーズでSDDから世界タッグを奪取して鶴田がそうはいくかとなり時期シリーズの世界タッグへと繋がるようになった。 言われてみると武道館が最終戦、というのは確かにいいこと尽くめではないんだね。その後
かつての追撃戦みたいな感じで次期シリーズに新展開で繋げたり星勘定の調整もできる
しね。武道館で完全燃焼、みたいな了解が共有されだしたと同時に四天王ハンセンウィリアムス
の三冠たらい回しが始まったと思う。ついでにセミ以下の取り組みも徐々にぞんざいに
なっていった気がする。 >>225
そうなんだよね。
当初は3月のドームでは試合予定だった。
でもスケジュールの都合上無理に。 >>229
世界タッグが金沢。三冠がその6日くらい前の横浜だった。
選手の消耗度を考えたら武道館または三冠をやる会場は最終戦が良いと思う。
今の新日の1・5後楽園でベルト持ってる奴が負ける露骨なアングル作りは嫌だw
王者に勝たなくても挑戦権獲得はアリだと思う。 そういえばルードはこのシリーズ、途中で帰国して全日への再来日は無かったけどなんでだろ?
ハンセン、殺人魚雷がいる全日だと目立てないと思ったのかな? 新日もイッテンヨンの次の日に後楽園ホール興行やるようになったしな >>233
ちょうど都知事選出馬→断念とかあった時期だね
あと痛風 91年は藤波のドラゴンボンバーズに期待したな。
団体の枠を越えて他団体にも上がる、と宣言。
団体の(制約に)縛られず自由に動くのを趣旨として結成。
ドラゴンボンバーズで全日に乗り込む、とも宣言して。
他はUはスタイルが違う。
Sは新日全日の敵対団体だから無いと。
またFはデスマッチ基本だから肌が合わない。
ドラゴンボンバーズで全日参戦を本気で期待したし実現すると信じた。
しかし結果的にドラゴンボンバーズが他団体に上がる事はなかった。
団体の制約から解き放たれる事はなく。 >>231
SDDってまた懐かしいチーム名だな。ゴングを読んでた人しかわからないけどw >>238
話によると藤波の趣旨に則れば新日側が契約解除→自由契約を提示してきた。
フリー契約になれば団体の制約は無くなるが、他のリスクが大きい。
取り敢えず契約してる以上は新日という大きな城に守られてきた。
しかしそれが無くなれば自由に動ける反面、保証もなくなる。
ただ藤波(達)にはどちらかの選択肢はあったとの事。
しかしそのリスクを考えた末に藤波はフリー契約を断念。
他のメンバー(越中、ライガー、飯塚)も同じく。
その為に藤波のドラゴンボンバーズとしての全日参戦は水の泡に。
かなりぃ前にこんな記事を読んだ事ある。 >>238
全日本云々の前に、新日本の中でも何もやってないけどな。 >>240
ドラゴンボンバーズの名称するまで藤波部屋と呼ばれてたね ドラゴンボンバーズかあ、戦闘竜だか南海龍だかが警察相手に大暴れ、くらいしか
記憶にないな。 殺人魚雷プラスルードという6人タッグをtvで見た記憶があるが(相手チームは失念)
ルードは流れについてくだけで精いっぱいという感じだった。あと世界のプロレスで
見たときよりかなり瘦せた印象を受けた。生では見れなかったが二重履きタイツ脱ぎ、
とかはやったのかな? >>245
都城でvs三沢、川田、菊地。
ホールでvs鶴田、田上、マイティーだった気がする。ユーチューブで最近観たよ。たぶん検索するとヒットすると思う。 ルードは新日で輝いたね〜
蝶野戦、馳戦ではメデューサ等の女子マネを連れだった嫌みなヒールっぷりがハマってて、当時はこいつ負けろと本気で思って見てたなぁ… 全日では、かなり無理してハイスパットさせられてた(というかやらざるをえなかったか)ように見えたなぁ
新日でのルードが本来の姿かな、ゆったりしたリズムで見応えがあった お国じゃルードのほうが全然格上なんだろうけど日本じゃ殺人魚雷の下だから肉体的
以上に精神的にもきつそうだ。その上控室で喰らわされたりするんじゃ帰りたくなって
も仕方ないかな。ハンセンはわからんがゴーディ、ウィリアムスにしてみりゃ自分の地
位を脅かす可能性のある奴の世話を焼いたりなどしっこないしね。 この頃はショーマンスタイルの新日、
ストロングスタイルの全日と両団体のカラーが入れ替わってたな。
新日の場合は第2次UWFの影響が大きいんだろうけど。 新日の秋のシリーズにフランクアンダーソンって来てたよね〜
どんなレスラーだったんだろう… この年のG1が今までで一番の最強メンバーだと思ってる俺 >>254
92年にベイダーが参戦してたらなあ。
でも91年は確かにベスト。
所謂(いわゆる)白星配給が見当たらず。
8人の中で若干劣ったのが蝶野。
しかしその蝶野がまさかの優勝だかんな。
当初はこのG1は毎年恒例にする予定ではなかったみたい。
単発的なイベントで。
『“サマーナイトフィーバー”バイオレンスストームin国技館』だった。
その中で『グレードワン クライマックス』と。
だから『第一回』とか『初優勝』という言葉はなく。
そして蝶野のまさかの優勝で大成功。
それで夏の風物詩として継続された。
このG1が90年代の新日の人気を大きく支えたとも言われ。
このG1の蝶野まさかの優勝は春のスーパージュニアでの保永まさかの優勝からきた。
紙プロで永島が言ってた。
『まさか』が受けるのがわかった、とね。 91年当時そこそこ名の通った会社に入社したんだが、g1の長州3連敗に立ち直れない
までのショックを受けて出社拒否、から退職した5年上の先輩社員がいた。今は傷も癒
えたらしく元気に東京のお笑い大手芸能事務所で座付き作家をやってる。 >>255
サマーナイトフィーバーは名古屋大会の冠だったはず
両国は、バイオレントストームイン国技館
つか>>50と同じこと書かなくていいよ 4/18の武道館もチャンピオンカーニバルってついてたっけ?。
特別興業じゃなかったっけ?。 >>257
それまでの新日、特に昭和の頃は『猪木優勝』が定番だった。
絶対的エース猪木が優勝しないのはあり得ない。
また猪木優勝も説得力あり。
でも時代は平成に変わり、『誰が優勝するのか?』『まさかの優勝』が受ける時代に。
それも全くノーマークだった蝶野の優勝。
猪木の様な絶対的エースがいなくなった事により。
まあタイトルマッチでは勝てないのにG1では優勝。
蝶野以外でもそういう選手はいたが。 81年の初代がデビューしてからタイガーマスクが存在しなかった唯一の年。 この年のワープロは試合だけでなくスポット企画みたいなのがあったね
浜口親子のトレーニング教室とか藤波とか越中がわんこそば食べてたり >>258
括りはチャンピオンカーニバルだけど事実上は特別興行だね。
三沢は優勝戦にすら出られず武道館でも敗れた。鶴田は愛知でハンセンに勝って優勝、武道館では三沢に勝って防衛。
今はこんなブック書かないよね。 >>263
今だと優勝候補が開幕戦で敗退、チャンピオンは
リーグ戦の優勝できないとかだけど、逆にそういうのって
何か白ける。
普通にチャンピオンがそのまま優勝でもいいのになって思うことも。 ゴルフで潰されなかったら1月、9月の大阪大会やG1の2日目3月の広島大会も
放送されただろうしSGタッグも最低3週ぐらいは使ってただろうね 両国二日目がノーテレビなの痛い
武藤vsベイダー見たかった >>264
まぁ凄いパターンにはまってる気はするよね
カーニバルとか最強タッグとか普通にチャンピオンの馬場が優勝してたんやからそれでいいのにな >>265
1月の大阪ってベイダーvsランボーと藤波、マサvs長州、橋本?だっけ。観に行ったけどあまり覚えのない大会だわ >>266
あの時武藤が勝ったあとものすごい数の座布団舞って、この大会は大成功だと確信したよ。翌日は試合前に座布団投げるなってケロが試合前に注意した記憶ある なぜ第二次Uはあんなにしょっぱかったのか?(´・ω・`) >>266
単にノーテレビでなく映像として残っていないのが残念でならない。せめてカメラはまわして欲しかった。 >>266
ノーテレビってなんか久しぶりに見るな(笑) つまり猪木もタイガーマスクも
いない一年だったのか!?
それで年の前半(6月まで)は
G・馬場も欠場した1991年か! >>264>>267
最近の新日のG1なんか特に酷いと思う。石井がIWGPに挑戦したところで獲るはず無いのに。ただ消化するだけのタイトル戦。
リーグ戦は事実上の次期挑戦者決定リーグ。4年に一度くらいはIWGP王者が優勝したっていいだろうに。
それを考えると91年鶴田、92年ハンセンのチャンピオン優勝は良かったと思う。 >>266
まだあるか知らないけど、隠し撮りした動画はyoutube で見たよ。
武藤がベイダーにジャーマン決めてた。 >>255
IWGPのリーグ戦も当初は2回目以降はなかったはずなんだよな
第1回が終わって 猪木が欠場から明けて IWGPチャンピオンのホーガンに挑戦って確かテレビでも言ってたはずなんだ この時代はまだノーテレの試合は会場にテレビカメラが入ってなかった。
後々の価値がなくなった時代はどこも会場にテレビカメラが入り。
雑誌でもG1の全公式戦を掲載とか。
全公式戦の掲載は昭和の最強タッグやMSGタッグ等で見たかったわ。
注目してた試合が地方でどの雑誌も掲載なし。
知るのは結果のみ。
いつだったか、G1全公式戦をダイジェスト込みで放送とかなかった?
91年G1でそれをやってくれたら。
そうすれば武藤×ベイダーも見られた。
後々の価値がなくなってからそうなって、何か皮肉だな。 G1の二日目は武藤対ベイダーの他に、
長州対橋本、藤波対ノートン、蝶野対ビガロがあったんだよね
蝶野がビガロに卍固めで勝った試合とか見たかったな〜 >>279
その日が一番面白かったよ
メインで武藤がベイダーからフォールした後の座布団乱舞は忘れられない
二階で見てたから混ざれなかったが圧巻の光景だった >>280
俺もその日は生観戦した。
なんといっても、橋本が
泣きながら、絶不調の長州に
蹴りを見舞いフォール勝ちしたんだな。
藤波とノートンは両リンで
大ブーイングが起きたが、
メインで武藤がベイダーに
フォール勝ちしたので
俺(観客)は満足して帰った。 読売ランドEASTでやった、ムタvsマシン
試合後、マシンはなんて叫んでいたの?
滑舌が悪すぎて何言っているか全然わからなかった(笑) とにかく、土曜夕方はゴルフゴルフゴルフでムカついて
いたなあ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています