【ガラパン】国際プロレスpart13【ワンショルダー】
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>>95
> 崩壊後新日に上がったのがあの3人になったが、国際時代はあの3人の組み合わせ
> タッグとか全然印象に残ってないよな。組む機会もほとんどなかっただろうし。
そもそも国際は慢性的な若手・前座要員不足に加え
後期は金欠から参加外国人の人数自体も絞り気味だったため
6人タッグマッチ自体の組まれる機会が
全日新日に比べ少なかったという哀しい事情が… >>101
だからトリオって意味じゃないって書いただろ、ちゃんと読みなよw→>>97 新日本でも国際軍団が初めてトリオでテレビに出たのは猪木との変則マッチの時だったか >>101
それを言うなら木村・鶴見・剛で国際を名乗るって違和感ありまくりだな。 あの頃のメンバーで新日国際の対抗戦争のカード考えてみた
木村-猪木 坂口-小林 藤波-剛 木村健-原 井上-木戸 長州-浜口 藤原-鶴見
ほとんど負けそうだけど >>105
あの頃のメンバーって、小林と阿修羅が一緒にいた時期なんかないだろw 最初の猪木vs木村。
小林が国際のセコンドに付いていて、小林が木村に何やら耳打ち。
目ん玉くり抜かないのか? 1分〜
https://www.youtube.com/watch?v=SuSlP93Ws7E 全日を解雇され、さらにメガネが潰れた後、鶴見はインディー団体を立ち上げたが
IWA格闘支塾から国際プロモーションに改名した時、木村は不機嫌になったとGスピで聞いた
国際末期に愚連隊ユニット立ち上げた鶴見でさえダメなのに
在籍時は若手の前座でしかなかった高杉が国際プロレスを名乗ったら
さぞ木村は怒った事だろう >>105
大将戦は猪木が勝つも、小林鶴見がリングアウト勝。井上原が勝って国際の勝ち越しで面目を保つ。 たとえば日プロ末期の大木のように吉原氏の理念を受け継ぐべく、っつうのパターンだと中堅以下で
それをやると、お前じゃないだろw的な? >>110
???
何で日プロ末期の大木が吉原の理念を受け継ぐんだ? そういえば大木も国際に在籍してたことあったんだよな。すっかり忘れてたわ >>111
あw、日プロ末期の頃の大木が力道山の作り上げた日プロの灯は守っていくというエピソードね。
まああのまま読んだら大木が国際を受け継ぐ云々に解釈するわなw スマン >>105
木村、◯反則勝ち
小林、■両者リングアウト
剛、 ●飛竜原爆固めで負け
原、 ◯雪崩式ブレィンバスターで勝ち
井上、◯オースイスープレックスで勝ち
浜口、●サソリ固めでレフリーストップ
鶴見、●リングアウト負け
寺西、◯回転エビ固め vs星野 じゃあ国際崩壊直後に全日と対抗戦やった場合は?
馬場対木村
鶴田対井上
天龍対阿修羅
大木対浜口
石川対寺西
佐藤対マッハ
大熊or小鹿対鶴見
意外と国際が勝ち越しそうだ。 >>115
最初は新日が全敗にして次に繋げるんだよ。
全日は全勝して終わり。 >>116
大木ってのは何なんだよ、当時の大木はブッチャー軍団だろw あっ、勘違いだった。当時ブッチャーはもう新日に移籍してるのか。 >>118
当時というか、81年の初頭から大木は国際で試合してなかった。テーズ杯にも名前は無い。
そのころの月刊誌で国際のシリーズポスターが広報ページとかで載ってんだが、大木の顔の横に
「怪我のため欠場」という但し書きが添えられてたっけ。。ただのファンなので真意は分らん。 国際崩壊の年の7月だったかな?シンが突如全日に登場、シリーズ参加中だった大木が
迎撃対戦を主張して一度は対戦が発表されるも、シンが「大木なんかはるかに格下、
試合なんかできるか!」と発言して、試合そのものが行われなかったのは覚えてる。 >>116
馬場対木村 馬場反則勝ち
鶴田対井上 鶴田フォール勝ち
天龍対阿修羅 両者リングアウト
大木対浜口 大木リングアウト勝ち
石川対寺西 石川両者リングアウト
佐藤対マッハ 佐藤フォール勝ち
大熊or小鹿対鶴見 鶴見が反則負け 最初はこんな感じで「国際は汚い奴ら」との印象を植え付けてヒールにする。
木村(反則)猪木 ※国際軍の介入に激怒して逆十字を離さず反則負け。
小林(体固め)坂口 ※小林を持ち上げた坂口の足を浜口が引っ張って潰す
剛(エビ固め) 藤波 ※タイツを引っ張ってフォール
浜口(フェンスアウト)長州 ※自分から飛んでいく
原(体固め)健吾 ※レフェリーのブラインドで井上が投げた椅子で一撃
井上(エビ固め)木戸 ※木戸の回転エビを返してロープを掴んでフォール
鶴見(体固め)藤原 ※石頭に苦戦もメリケンサックパンチ
寺西(体固め)ジョージ ※急所をカチあげる >>120
大木は半年契約だったつもりだが、国際はそういう契約じゃなかったとか、
国際DVDのテレビ東京(東京12チャンネル)版の対談コーナーで
門馬さんか菊池さんが話してたような。 >>125
国際が潰れて新日に来たS56年時にはフェンスアウトルールはあった。
2戦目の蔵前が藤波のヘビー転向第1戦で藤波(フェンスアウト)浜口 親日にあの青い場外フェンスが出来たのが80年(昭和55)のブラディファイトからだったな。
フェンスアウトルールていつかだっけ?? >>129
多分、1981年のIWGP予選リーグからでは?
フェンスアウトでの意外な結果
浜口>猪木、坂口
キッド>タイガーマスク
健吾>ブロディ、アンドレ
高田&越中>猪木&藤原 まあそもそも「猪木×木村」はともかく
「藤波×寺西」「剛×浜口」ってカード発表されて時点で
当時は正直「ウーン…。。。」ってかんじだったしなあ
この頃、剛は既に新日でも存在感無くしてたから
いくら元国際の因縁云々言われても一般的には
「なんで対抗戦といいながら坂口や長州や健悟あたりでなく剛が出てくるの?」
ってかんじだったし、
せめて剛が出るにしてもそこは「藤波×浜口」「剛×寺西」だろってかんじで
ああ、1勝1敗で大将戦に引っ張る〜初戦は不透明決着なんだろうなあって思ってたわ >>131
うまい流れだったよ。
10月 まずは元国際で藤波にも勝った剛が迎え撃つも浜口>剛、藤波>寺西、木村>猪木
11月 健吾>寺西、藤波>浜口、猪木>木村、
12月 ●長州&谷津>健吾&●寺西、マードック&◯ローデス>●木村&戸口
健吾と寺西、木村と戸口が組んだから新日vs国際は終了かと思ったら、
82年には更に引っ張って、2月には浜口が猪木の足引っ張って木村のリングアウト勝ち、
8月の猪木糖尿復帰戦→9月の髪切りマッチ→2度の3vs1→短時間KOへと繋がる。
83年春には浜口と寺西は長州、小林らと維新軍結成と軍団がシャッフルされた。 >>99
ちょうど今日はサモアンズからの奪回から四十年
ジョージ・スイータンはその三年後でしたね
和製ハイフライヤーズは確かに極道やヤマハと並ぶ名チームと称されたが同時にそれはそれらと同格というイメージにもなってたような ラッシャー木村がいない82年夏頃のシリーズで、寺西がセミかメインの入場先導してた
ような記憶がある。木村はともかく、浜口と寺西は新日に入りたかったんじゃないかな。 ホントなのか?
控え室が日本組のなら猪木と話した事が1度しかないというのは変だ。 ラッシャーの息子さんのインタビューがおもしろそうだったから久しぶりにgスピ買った。
まだ読み始めたばかりだけど凄くいいわ。それと剛はやっぱりろくでなしだな。
酔っぱらって馬塲の器が小さいって愚痴ってた話がなんとも人間味があっていい >>135
オマエ、そんなこと信じているのかw
話さないでどうやって試合創るんだw
力抜山「日本で一番楽しかったのは、旅館で女風呂が覗けるというので行ったら猪木さんと寺西さんもいた」 ラッシャー木村の義理の息子ってアメリカの優秀な大学卒業して
日本の商社取締役やってる人? マスカラスのエゴは予想してたけど、チャボも自分勝手なレスリングしてたのは意外だった
全日ジュニアが井上から三沢タイガーに代替わりした後、チャボが呼ばれなくなったのは
そんな事情もあったのかもしれない、三沢は外人相手に試合作れないから ラッシャー木村の子息のインタビュー興味深く読んだ。
実子でない事。母親が再婚前から、ラッシャー木村のファンだった事。その母親もプロレスには縁があり、力道山の花束贈呈の経験のある松竹ニューフェイスの女優だった。
まだあるが、最近の記事では個人的に一番面白い。 訂正
子息の宏氏が以前から木村のファンだったということ >>140
一応は唯一の防衛戦をチャボとやってるがそこでの感触が悪かったのかも 息子さんは少年時代の事なのに事細かに記憶してるんだよね。 >>140
そう言う井上も評判悪いぞ。
井上戦後のマスカラス「He is NO.2セメントボーイ。NO.1セメントボーイは大木金太郎」
ヒロ斎藤「全日でやりにくかったのはマイティ井上さん」
マシン「言うと思ったw」
ヒロ斎藤「まったく技を受け付けない」 息子さん三沢の事故の少し前に会って挨拶したってのが縁と言うかね。一番驚いたのはノアが死ぬまで給料出してた事。波瀾万丈のプロレス人生だけど全日本に移籍してからは幸せだったのかな。 >>146
目には目をって感じで自分勝手なマスカラスや新日勢には対抗してやってやるって
思ってたんだろ。 この前、鳥取に旅行に行ったら、大村崑のオロナミンCと、松山英子のボンカレーの錆びた看板の横に、国際プロレスのポスターが貼られたまま残ってたよ >>150
それは時の狭間にタイムスリップしてるわ
戻ってこれて良かったな >>150
そう言う雨風に晒されたプロレスのポスター見ると、何とも物悲しい気分になるよね笑
でもポスターって雑誌やパンフに比べて手に入れ難いし、仮に集めるにしても
部屋に貼るにしてもスペースは限られてるから、結局筒状に丸めて部屋の隅に置いとくしかないと言う・・・ >>154 木村の逆エビを切り抜いたポスターの写真は、そこだけ見ると和式で踏ん張ってるように見えなくもない 東京在住だけど昔の興行ポスターは都内も貼ってあったのかな。例えば蔵前だったら墨田区、後楽園なら文京区とか。田園コロシアムは近所なので貼ってあったような覚えがあるんだが…
宣伝カーは覚えている。聞き取りにくかったがw 国プロだと小中学生とかは好きなところに座らせてもらえなかった? 昔の全女とかもド田舎まで回るからいつまでもポスター貼ってあるのな
ビューティー時代のポスターがそのままだったのを見た事あるわ >>157
好きな所ではなくて、テレビカメラに映るサイドのリングサイド席(ただし、だいたい10列目以降)。
切符もぎりの際に、座席番号を書いた紙(旧興行チケットの切れ端裏面)を渡していた。 >>159
このマスカラス国際参加の件が某掲示板で話題になってるけど
マスカラスが日本陣営に入って木村の代わりにエースになり
やがて原に引き継いだろうとか書いてる奴いて笑った
コテハンでそこまでアホなことよく書くわ >>161
どうせ某博士の所だろうなと思ったら案の定で困るw 国際に関係ない話で恐縮なんだけど大木がインターナショナル王者だった時に韓国で何度も防衛戦をやってるらしいけどその対戦カードとか結果を知れるもの何かある?
猪木とは引き分け、あと結果は知らないけど小林ともやってるはずで丁重なもてなしを受けたと何かで小林が語ってるのをみた記憶がある >>163
韓国で木村、稲妻二郎とやってる。
新日だと猪木、星野も韓国遠征してるから挑戦しているかも。
新日は大木の全日移籍後はオポジシションの張永哲とかいう選手の団体に猪木、ジョージらが行ってた。
全日だと極道、クツワダが韓国遠征しているから挑戦しているかも。 >>163
昭和50年5月,Sデストロイヤー、 10月、12月、Mミラノ
昭和51年3月、ザ.デストロイヤー(ドロー)、5月、ザ・バラクーダ―
5月、轡田、6月、タイガーマスク(中身は轡田)、9月2回T杉山、
11月、Aブッチャー(両リン)、52年5月、スーパーX(高千穂)、
53年4月、DLジョナサン(ドロー)、9月、稲妻次郎、11月2回トーア・カマタ
この後、国際プロレスに入団、日本で防衛戦を行った後
55年5月、Jルダック、56年3月、Bブラウン
以上、出典は「日本プロレス50年史」のタイトルマッチ完全記録より ↑昭和50年3月の猪木戦が抜けていた。
それと、正確な日時、場所は不明だが
昭和53年のカマタ戦から54年12月のCFヒル戦の間に
Kイヤウケア、Fブラッシー、Bラモス、Jロンドスとも
防衛を行ったとある。 新日、全日オタは木村のIWA連続防衛をB級レスラー相手ばかりだと認めない風だったが
大木のインター防衛はそれを遥かに凌駕するチンケっぷりだな、クツワダとか稲妻とか… でも>>165にある
Sデストロイヤー、Mミラノ、ザ・バラクーダ―、B・ブラウンに
カマタ、稲妻、ルダックのお馴染みさん
スーパーXっていういかにも俄か仕立てっぽいネーミングセンスの謎のマスクマン
そのまま国際のマットでみたい豪華メンツwだなあ 追記)あ、スーパーXの中身はベンジー・ラミレスかB・ダラセーラあたりでいいです >>164
>>165
どうもありがとう情報知れてすっきりしました >>168
>そのまま国際のマットでみたい豪華メンツwだなあ
題して「インターチャレンジャーズシリーズ 」
できたらリーグ戦で。 「大木は12chと契約したのであって国際と契約したわけではない」
という理由で吉原社長は国際の選手をインターに挑戦させなかった。 大木対カマタは、当時デラプロのカラーで、報道され両者流血だった
一本目反則 二本目リングアウトで大木のストレート勝ち防衛 血だるまのカマタが場外でKOされていた写真は、よく覚えている デラプロではフロリダでのドリーのインター防衛戦も取り上げてたな 昭和54年10月に実現した、テーズとニックの豪華な夢のタッグ。
これを沼津辺りでやってしまうのが国際らしいと言うか、地方のファンを大切にし過ぎてると言うか・・・・笑 >>175
沼津は草津の家があり、草津、そして国際の大タニマチである
富国石油のお膝元だからに決まってるやん 草津がそのお膝元で11年ぶりの対峙となった因縁のテーズ、胸中よぎるものはあったのだろうか。。 >>176
草津の家は沼津の隣りの三島だよ。
>>175
その時、ニックは2興行のみの参戦。
沼津大会はシリーズ最終戦。
その前日に、後楽園ホールで特別興行
ニックvs木村のAWA、IWAダブルタイトル戦(レフェリーはテーズ)
井上、浜口vs大木、上田のIWAタッグ戦(この日だけ大木参戦でルダックを全日に1日レンタル)
ロイヤルvs原のNWAジュニア戦(ロイヤルは1試合のみ参戦) この沼津大会は実際に観戦に行った。
試合終了後に、控室前にテーズとニックが出てきて、
おそらく富国石油の社長と思われる人と孫から、記念品の刀を贈られて
並んで記念撮影をしていた。 >>175
ニックが来日する前は愛知県体育館、川崎市体育館、横浜文化体育館を使用していたけど
スケジュールの都合だから仕方ないでしょ。 >>179
ロイヤルのNWAジュニア王座に関しては、全日新日が協力してクレーム入れていたな。 >>182
ベルトもなんかショボイ私製のベルト巻いてたっけw 当時、NWA未加盟の国際ガーてのと
主流(Lマクガーク)と反主流(Eグラハム)の実権争いやらで、今ならワイドショーネタくらいに
なりそうな?複雑な立ち位置の王座だった。。 >>179
あ、そうだ三島だった
まあどっちにしてもいいカード組むのは富国石油向け
まあ新日とかも地方でも高松はいいカード組むとか
このへんはどの団体もあることだな >>179
>その時、ニックは2興行のみの参戦。
>沼津大会はシリーズ最終戦。
違うよ
10月1日から6日まで、計6戦やってる ドラゴンのテーマ曲がJOEバージョンだ! 寸足らずドロップキックはこの頃からだったんだね。 >>183
あの当時のNWAジュニアは空位なのかロイヤルなのかグレーな状態だった。
当日ロイヤルがボブ・ガイゲルNWA会長のロイヤルがチャンピオンである旨の書面を持参してきた。
月刊プロレスでのテーズ、ニック、ロイヤルによる三者会談記事があり、
記事に、この書面のことが書かれていて、テーズもロイヤルがチャンピオンだと述べていた。 >>179
三島は木村がスミルノフからIWAを奪い返した場所だったか
>>188
ソントン以降のベルトは形こそ似ているがそれ以前のレプリカ >>186-187
こんな事言うとこのスレでは怒る人も多いだろうけど藤波の受けの上手さあっての試合だよこれは
1ヶ月前の81.10.08蔵前での藤波vs寺西戦でも特に前半から中盤は寺西が攻めこんでいたけど最後のジャーマン一発で藤波が逆転勝利みたいな形で試合を纏めていたし
>>188-189
古本屋等で当時の専門誌を買ってその頃の業界事情を知った後追い世代だから偉そうな事は言えないけど
普段は国際びいきの筈のゴングがこの時はロイヤルと国際に批判的なスタンスを取る一方で
この年辺りから新日寄りの姿勢を強め始めていた月プロの方が国際側に同情的なのは興味深いね >>190
寺西がうまく藤波のジャーマンを受けた。 昭和54年のテレビ欄 国際の特番と深夜に
ワールドプロレスリングで藤波対剛
https://imgur.com/a/x6f2r >>192
思い出した。
あの時、東京12chは金曜生中継特番で
テレ朝「ワールドプロレスリング」に真っ向勝負するつもりだったのが、
当時のゴング誌に書かれていた。
しかし、テレ朝系は米国ドラマ「ルーツ2」を8日間連続放送の編成だったので、
直接対決とはならなかった。
ニック、ロイヤルを招聘できたのも東京12chが特別予算を計上して実現したもの。 同日のIWAタッグ戦で、大木と上田のインタータッグコンビ、いきなり上田が大木の頭を椅子で殴って仲間割れ
事態のつかめないフライヤーズは「ポカ〜ん」・・・ww 大阪の国際ファンは明らかに不利だった。
東京12chのネットがなく、UHFのサンテレビだったから、上手く映る時とそうでない時があった。
サンテレビは困った局で同じ兵庫県でさえ映らない地区が相当多かったらしい。 >>195
大阪だとサンテレビ以外にも
隣接のKBS京都、奈良テレビ、テレビ和歌山が漏れ電波で映るのでは。
ただしUHFアンテナを各々の局の送信所方向に設置が必要。
サンテレビは阪神戦中継目当てで大阪民はそちらに1本立てるだけで
それ以外の独立U局向けにアンテナは立てないだろうけど。 私も大阪市民だけど昭和53年に平屋の市営住宅から高層の市営住宅に昇格した。
そしたらアンテナ状況が劇的に好転してサンテレビとKBS京都が鮮明に映るようになったわ。 寺西が言ってたからね
「時間帯よりもTBSから12チャンネルに変わったことがキツかった
放映されていない地域では忘れられていく」って >>196
>>197
全く仰せの通りですね。
デフォルトのUHFアンテナだとサンTV1局のみ対応で、他に見たければ自分で用意するか、
公団住宅の環境がアップするのを待つしかありませんでした。吹田・豊中といった地域では。 北海道では、ズバットやヤンスタはやってたけど、国プロは残念ながら放映されていなかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています