こうした人々(プロテスタント,清教徒,ユグノー)から見ると、現世はどう思えるか?
答え。どうでもいい。彼らにとっては、信仰と最後の審判で救われることが全て。
全知全能の神に比べれば、どんな王であろうと、ゴミ同然に思えてくる。
神の前では、平民だろうと王だろうと大した違いは無く、ほとんど平等。
故に、人間が持っている権理も平等である。
この神の前の平等が転じて、法の前の平等になり、誰もが等しく持っている「人権」という考えが生まれた。
民主主義の始まり、始まり〜。

因みに、この予定説から、資本主義も生まれてきた。
民主主義と資本主義は双子の兄弟。
信仰の篤いプロテスタント達の、日々の生活態度、労働への意識、お金の使い方を考えると、資本主義の精神が出てくる。
そして、その社会を円滑に回すために、キリスト教の「契約の絶対」が絡んでくる。
この先は、調べてみてください。

民主主義が予定説から生まれている一方で、17世紀に自由主義が生まれ始める。
領主達の力が衰え、国王に絶大な権力が集まっていた。
その権力を使えば、どんなことでも簡単にできた。
国民の財産を没収することはおろか、人を殺すことすら、朝飯前だった。
その絶対主義の国家権力から国民の権理を守るべしという考えが生まれた。
国王に勝手に税金を取られないようにし、法律も勝手に作らせないようにしよう。
その発想に、昔々に生まれていた、議会と憲法がくっついた。
こうして、自由主義が完成した。



キリストの教えがあったからこそ民主主義、自由主義、人権思想が生まれた。


こうしてUberや仕事に対してあーだこーだ文句言えるのも、嫌なら辞められるのも

全てキリストの教えのおかげだ。