千葉県野田市のパチンコ屋 [無断転載禁止]©2ch.net
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470 名前:「名無しわざとか?」とかイヤミを言われた 投稿日:2017/03/28(火) 02:50:44.07 ID:5ZdjwTul
ピアはアホ幹部がパソコンを1〜3回クリックして大当たりさせた大当たりしかないの。
一回、店員にいちゃもん付けて30分ぐらいからんでみな。
もうそれから大当たりすることは無いから(大当たりしても最低の出だまで終わる)。
471 名前:「名無しわざとか?」とかイヤミを言われた 投稿日:2017/03/28(火) 02:53:26.33 ID:5ZdjwTul
ピアは設定は関係ない
ピアは4円パチンコにいる複数の内子にピンポイントで大当たりさせてる店だよ
スロットも同じ 愛宇のショートヘア店員のおまんこ絶対気持ちいいよな 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい 編むに20時くらいに行ったら海のシマ
客が1人だった
もうすぐ閉店の前兆か 愛宇って辞めてもまたかわいい女店員入ってくるよな
なんでだ? 編むは、経営がヤバイから嵌まりまくりだろうよ
不貞腐れたかおして 編むで、慶次で赤保留、xゾーン、キセル複合して外して、その後すぐキセルハズレ、遠隔バレバレ(笑) イカサマなんかしてねえよ
おまえらがわざわざ勝てない台座ってブチ込んでハズレひいてるだけだろw 火の無い所に煙りは立つ見たいな
もんだろう
バチンコってのは 看板機種がガロ→慶じになったみたい。
先週も7〜9箱くらい何人か積んでたよん。 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい サップ野田で止め打ちを注意された時、完全な法律違反だから警察に通報すればよかったと今となって思う。
もしくは弁護士に相談して訴訟とか。 PIA、サントロぺ、ロぺは内子に遠隔大当たりさせて裏金を作ってる犯罪組織だよ
PIAは最悪の店
パチンコで内子にピンポイントで大当たりさせて連チャンできるってことは・・・PIAは大当たりを自由自在に操れるってことなんだよww
PIAで勝った人←PIAのアホ幹部店員に大当たり信号を送ってもらった人←人物認証(顔認証?)に登録され養分としてロックオンされた人
PIAで負けた人←PIAのアホ幹部店員に大当たり信号を送られなかった人
※今のパチンコ、スロットの大当たりは幹部店員がパソコンを1〜3回クリックして大当たりさせた大当たりしかないです
すべて遠隔大当たりです
これから日本中にカジノができますがカジノのスロットも遠隔大当たりさせた大当たりしかないです
カジノのスロットで大勝ちしてる人は内子(カジノ側の人間)です(カジノにも打子がいます) >>35
店側が客の技術介入を阻害する行為は確かに違法だからな
あからさまな捻り打ちや軍団など、店の利益にとって深刻な案件ならまだ分かるが、止め打ちを禁止してくるってのはボッタクリのバーとやってる事は一緒だから、そういう悪質な店はその場ですぐに警察呼んだほうがいいかもね ★ダイス、シティが低偏差値社員に糞ステマを強制★
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/netspot/1491286062/
1 名前:774円/60分 投稿日:2017/04/04(火) 15:07:42.76 ID:2BZzYYov0
シティコミュニケーションズはソープランド街でパチスロ店、カプセル、サウナをやってるので在日韓国人が経営者なんですかね?
シティコミュニケーションズは2ちゃんで組織的に罵詈雑言のステマをしています。
ネカフェ板のダイスのスレとパチンコ板、スロット板の「パチンコ店のザ シティ、スロット店のベルシティ」に
関係するスレで罵詈雑言のステマをしていました。
スロット板でステマをしていた低能社員と思われる奴はゲームがオタクでゲーム板にも書き込んで
喧嘩してゲーム板の住民から顰蹙されていました。 45 名前:「名無しわざとか?」とかイヤミを言われた投稿日:2017/04/04(火) 15:30:04.56 ID:CBa8XsNH
街(株シティコミュニケーションズ)はIDをいくらでも変えられるので、ここの書き込みのほとんど街の糞幹部によるものですw
街は若い社員(ダイス伊勢佐木町店の身長170cmの20代男)に糞ステマを強要してた糞会社です。
街を批判すると街の低能低偏差値アホ幹部ブサイク廃人ゲーマーから罵詈雑言の書き込みをされます。
新入社員の皆さま、(株)シティコミュニケーションズは罵詈雑言のステマをしてる糞ブラック企業ですよ。
早く転職したほうがいいです。
街=シティコミュニケーションズは糞すぎる
↓
パチンコ店のザ シティ、スロット店のベルシティ
ベルシティ(SLOT専門店)・・・横浜西口店
マンガ喫茶ダイス(DICE)
まんがランド
牛角・・・新丸子店 相模原店□牛角 足柄開成町店
かまどか・・・武蔵小杉店□ 相模大野店
土間土間・・・武蔵中原店 平塚店
おだいどこ・・・横浜西口店
ミスタームシパン・・・元住吉店
M'S CAFE+DINING・・・横須賀中央店
ニューシティー・・・伊勢佐木町店
□ダマイ・・・関内店
↑
これ全部利用するの止めよう
ここは2chで恫喝ステマをしてる悪質な店です
おそらく朝鮮系のパチンコ店です 編むと梅宙は、更に出なくなったな
もう行くのや〜めた 玉は出ねぇ一、コインは出ねぇ一
挨拶しねぇ一、今時そんな商売成り立た無いだろう?
挨拶しない、接客しない、その分、価格を安くします!と言ってた靴屋どうしたよ? 本当だよなー
パチンコ屋の店員て割りきってやんないと勤まらないよなー
上司に怒られたりしないんだろうなー
離職率公表しろよ パチ屋の客は頭おかしいの多いからな
相手すんのも大変だろうよ 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい パチンコスロットなんかチンパンジーでもできる脳死ゲーム 射幸性を抑えるとか言って、「安定して負ける台」に変えただけだからなぁ
MAX時代と比較して一部遊パチを除きボーダーが17/k前後から20/kに上がったのにも関わらず
店の調整は良くて15/k、ほとんどは13/k
打ってるのは情弱か馬鹿か中毒しかいねえ 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい くだらないコメント繰り返してる奴も肝に銘じておけ
これぐらい名言書けよ
行かないこと!(パチンコ)投げだないこと!(人生)
逃げ出さないこと!(人生)信じぬくこと!(野田のパチは無理)
だめになりそうな人生!パチを辞めなければね♪ "カジノ好き、興味ある方に朗報!!!!
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問い合わせ、アカウント発行はLINEまで★LINE ID:squeeze.nine" パチンコ辞めて、いずれできるであろうカジノの為に金貯めといた方が賢明かもな
まぁギャンブル自体を止めるのが一番なのは間違いないがw 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい >>56
カジノなんて行かねーよw
ムダに桁がでかい射幸心煽りまくりの詐欺
せいぜいタバコ銭で遊べるからパチ屋がはやったんだよ どうしても賭け事したかったら公営ギャンブルか
確か還元率75%ぐらいよな
今パチ屋行ったら3/4も返ってこないもんなw 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい くだらないコメント繰り返してる奴も肝に銘じておけ
これぐらい名言書けよ
行かないこと!(パチンコ)投げだないこと!(人生)
逃げ出さないこと!(人生)信じぬくこと!(野田のパチは無理)
だめになりそうな人生!パチを辞めなければね♪ 行く度に負けりゃ辞めてしまう人も
増えて行くから店も追い詰められてしまってるしな 台も糞なら調整も糞
行くだけ時間と金の無駄だってこったよ 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい くだらないコメント繰り返してる奴も肝に銘じておけ
これぐらい名言書けよ
行かないこと!(パチンコ)投げだないこと!(人生)
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だめになりそうな人生!パチを辞めなければね♪ 編むは、もう無理だな
楽しくない事に金を使うのが嫌で
客が居なくなった感じだ 某店の駐車場に日雇いの給料袋落ちてるの見て哀しくなったわ
パチンコなんてやってないで最底辺から抜け出す事考えろよと… 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい >>72
2020年までには閉店ってきいたよ?マジで パチ屋の女なんて金で釣れるやん
低収入なら残念ですが無理 >>76 客は減ったし、1パチも等価じゃ無くしたし、余り玉のジュ一スは、160円のペットボトルだし、チョコレートは賞味期限間近とか
Jデビット入れたり会員は10:50分まで打てるとか客を逃す事しか出来なくなったのは、そう言う事だったからだな
亀有は、20銭とかやり出したし
商品には原価あるしな
どうりで換金所が遠い訳だ 編むも梅宙も行く度に同じ面子しか居ない
あれでは殆ど勝てないが、勝てるときは額が決まってるので、その額に達した時点でヤメだな
そして、パチンコがつまらなくなりヤメる人が後を絶たない状況 くだらないコメント繰り返してる奴も肝に銘じておけ
これぐらい名言書けよ
行かないこと!(パチンコ)投げだないこと!(人生)
逃げ出さないこと!(人生)信じぬくこと!(野田のパチは無理)
だめになりそうな人生!パチを辞めなければね♪ >>86
こいつ特定されて出禁にされればいいのにwww 特定されてしまって、急に恥ずかしくなったみたいですね
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質問、登録はこちらまでLINE ID:squeeze.nine" ストーカー予備軍君特定されたの?
まぁ決まった女店員ジロジロ見てたらすぐバレるかw いや、ばれてるよ
そして、愛宇の店員に忠告した人がいた
相当馬鹿にしてたみたいだぞ
警察沙汰もきをつけろよ
ここでの書き込みも証拠になるから注意しろよ 店員に言った人GJすぎるなwww
調べた所、名前挙げなくても個人が特定されるようなのもダメなんだよな
卑猥な書き込みだと迷惑防止条例違反になるね
店員がこのスレ確認して警察に言ったらストーカー君人生終了だね >>当たりを配給されてる出方
確かにそう感じるわー
コントロールされてる感、ハンパねぇ
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だめになりそうな人生!パチを辞めなければね♪ 船形たなの泥棒一族はGWもパチンコ三昧
梅郷のサラ金王子、目吹のパチンコ一家w
船形たなの泥棒一族は相変わらずのパチンコ三昧! 中華元祥の八宝菜うまかったよ ついでに こうじ サンドイッチ スズムラ
も美味しかった
千葉カン梅郷でパナソニックオープン始まるな。16号混むかな? 編むの稼動状況だと、店の為に打ってる感覚が半端では無いから客は離れた
たまに打つと、いつもの展開だから
足が向かなくなる 行かないこと!(パチンコ)投げだないこと!(人生)
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質問、アカウント発行はホームページからLINEで!!" 編むヤバくない?新台入ってるのに、朝イチ客いない‼でも出してるけどね 船形たなの泥棒一族、京子と富子の二人の犯罪者を出したのに相変わらずパチンコ三昧 なんか出なすぎてビビるわ
みんな閉店に向けて回収してんのかね 今日もパチンコ屋には人!人!人!
野田市民よ目を覚ませ 昨年末まで柏のパチ屋でバイトしてたけど、
野田に限らずもう常識が無いような客しかパチ屋にはいないね
台パンするわ空き椅子に座って他人の台ずっと見てるわ下皿に足かけるわ煙草床にポイ捨てするわ態度でけーわ
時給いいからとはいえ、ほんとストレス貯まった パチンコ屋の店員てなんもスキルないけどどうすんの? 学生にとっては高時給バイトだから都合いいよ
作り笑いとストレス耐性だけは上がるし
社員とかは知らん。辞めたら路頭に迷うか他の接客業・販売業するんじゃないの 制服マジックだよ
>>119
こいつ色んな野田関連スレに沸きすぎ
ある程度値段が安ければ近い所行くからステマしても意味無ぇ〜よ 中華元祥の八宝菜うまかった。来来亭の味玉ラーメンうまかった。 設定が入って無い台はつまらないな
シマ単位で出玉操作されてる感が
露骨に感じる様になって来て皆飽きた
ろう パチンコ業界に激震、ついに「10000ホール」を割り込む
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/news/1483675516/
【社会】「パチンコ」が動機の犯罪1300件超、16年摘発刑法犯 警察庁
http://da★ily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1486121669/
【犯罪統計】16年摘発刑法犯のうちパチンコ資金が犯行の動機・原因、1300件超
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1486152907/
【滋賀】当たり出ぬよう、パチンコ台不正改造 経営者を書類送検
http://da★ily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1489757561/ 梅宙は、2スロやめたんだな
その内に、編む見たく1パチも非等価にして閉店の流れだな
パチンコ屋じゃなく回収屋でしか無い 非等価でも回ればいいんだよ回れば
回らないなら只のゴミだけど 回っても嵌まりばかりじゃな
どうせ2スロの嵌まりを、5スロで嵌まらせ回収するのが見え見え
10倍遊べますから2.5倍遊べ無くなりました アニソンカフェすた〜ず=街(ザ シティ(パチンコ店)、ベルシティ(パチスロ店)、ネカフェのダイス(DICE)、まんがランド(漫画喫茶))
↓
(罵倒ステマ)アニソンカフェすた〜ず(糞ステマ)
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/comiket/1491476432/
1 : カタログ片手に名無しさん@無断転載は禁止2017/04/06(木) 20:00:32.69 ID:U/phJ3CU
「アニソンカフェすた〜ず」の運営(シティコミュニケーションズ)はパチンコ板(ザ シティのスレ)、スロット板(ベルシティのスレ)、ネカフェ板(ダイスのスレ)で悪質な罵倒ステマをしています
横浜西口の姉妹店|すた〜ず@べる(すたーず) |
横浜初のアニソンカフェ|すた〜ず@City(すたーず)
アニソンカフェすた〜ず=街=ザ シティ(パチンコ店)、ベルシティ(パチスロ店)=ネットカフェのダイス(DICE)=まんがランド(漫画喫茶)
↑
これ全部利用するの止めよう
ここは2chで恫喝ステマをしてる悪質な店です
おそらく朝鮮系のパチンコ店です .
■パチンコ、パチスロは遠隔大当たりしかないです■
今のパチンコ、スロットはアホ幹部店員がパソコンを1〜3回クリックして大当たりさせた大当たりしかないです
そしてこれから始まるカジノのスロットも遠隔操作した大当たりしかないです
この遠隔大当たりで自民党の政治家や既得権益に金が渡ります(この秘密を守るために特定秘密保護法ができたんです)
特定秘密保護法はカジノのための法律なんです
【前編】苫米地NEWS 003「カジノ法案の強行採決 その@」苫米地英人
https://www.youtube.com/watch?v=2AlyOLz5A9o
751 自分:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:2017/04/19(水) 01:39:21.93 ID:/bIDwlbF0
PIA、サントロペの大当たりはすべて、アホ幹部がパソコンを1、2回クリックして大当たりさせた大当たりです
これで4円パチンコにいる内子にピンポンとで遠隔大当たりさせてるんです
PIA、サントロペはアホ幹部が遠隔操作した大当たりしかないです
だから大当たりしたら、それはアホ幹部がパソコン操作したってことなんだよ
これ事実だから
752 自分:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/19(水) 01:41:08.55 ID:/bIDwlbF0
ピアは店内が綺麗だけど中身は日本で一番腐った店だ
ここは内子が日本一多い詐欺犯罪組織だ
ここはアホ幹部がパソコンを1、2回クリックした大当たりしかないから サップ野田行こうと思ってるパチ初心者だけど、知り合いのパチ歴長い人が「あそこは無駄玉を節約しながら打つ客にイチャモンつけて来るボッタクリ店だからやめたほうがいい」て言われたから迷ってる。
止め打ちってやつか?
スレ見てても他の店のほうが良さそうだね。 また沸きましたよ〜見てますか愛宇店員さん
通報しましょう >>139
調べてみたらクソ機種寄せ集めじゃねーか
こら期待できねーわw GWなんて釘ガチガチ設定ALL1
行く奴がアホ、金と時間を捨てるに等しい
おまけでヤニカスの副流煙思いっ切り吸い込めます
まぁGW以外でもそうなんだけど 喫煙者さえ、人が吸う煙は嫌なもんだ
煙なんて良い事なにも無いからな
受動喫煙が原因で、年間亡くなる死者数
も少なく無いしな
そんな事を知ってか知らぬか、くわえタバコしながら打ってる奴は、日本人じゃ無いだろうよ >>144
確定でも何でもねー期待値85%外しただけで何言ってんのこいつw 店が出さないと決めた時は、何でも当たらないだろうよ
それがバチンコだろう
そうできゃパチンコ屋は成り立たない みんなでパチンコをやめよう
パチンコやってんのダサいよ
格好悪いよ
モテないよ こうじサンドイッチスズムラのサンドイッチうめーなー ●●ダイスの運営のパチンコ店が罵倒ステマ●●
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/netspot/1492195836/
1 名前:774円/60分 投稿日:2017/04/15(土) 03:50:36.79
ダイス(DICE)、まんがランドの運営のパチンコ店がものすごく悪質なステマを2chでしています
ダイスもダイスのスレでステマしてたけどパチンコ店のほうはもっと悪質なステマをしています
パチンコ店の名前は、パチンコ店はザ シティ、スロット店はベルシティです
パチンコ店板などでは「街」と呼ばれています
街はIDをいくらでも変えられるのでスレの書き込みのほぼすべてを街のステマ担当社員がしています
(株)シティコミュニケーションズは組織的に2chで悪質な罵倒ステマをしています
ここはソープランド街でスロット店、カプセル・サウナ、アニソン・カフェ(アニソンカフェすた〜ず)をしてるので朝鮮系の可能性が高い 神奈川のPIA(ピア)、サントロペは内ち子の数が日本で一番多い
内ち子は数百人はいる
ここは東京、千葉にも店を出してるが、なぜか稲川会の縄張りになんだよねww
内ち子を使って作った裏金は年間1億以上はあるだろう
この金が北朝鮮に渡ってる可能性もある
PIA(ピア)、サントロペの社長は自分の店が、アホ幹部がパソコンを1〜2回クリックして大当たり(遠隔)させている、この遠隔で内ち子に大当たりさせて裏金を作ってるこを知ってるはず
というか社長がやらせてると思う
だから社長の顔を検索しても見つけられないんだろうな おまえらまさかGW中にパチンコなんか行ってないよな?
血の通ってない人的操作でいくらでも現金回収ができる機械を打ち続けてそんなに楽しいか? 遊べる5つのスタイルとか言って
一番遊べる2スロ廃止して、好評につき
20スロ増台とかアホか
トンチンカンな事ばかりやってる梅宙の
崖ぷち度を宣伝してどうする? 利益出ないからでしょ
2スロなんて玉単価いくらだよw 愛宇のショートヘア店員かわいすぎ
負けても全然頭にこない >>176
そら低貸ししか無いからだろ
20スロ4パチでボッコ負けしたらどんだけ可愛い店員居ようが腹立つわ 編むも梅宙も終わってるよwいや野田のパチ屋は終わってるw
今日はマルハンがばかでかいチラシ入れてきた。
柏のマルハン行くかな 船形たなの泥棒一族
何故かGWにパチンコ屋へ不光臨
離婚騒動等で一族・・・・ >>186
俺も仕事の行きに寄って見てみたが期待しすぎるとガッカリするぞ
好みに合うかもあるがせいぜい中の上程度 編むで打つと、経営コストを考えながら打つので苦痛になって辞めた
設置台数に対して、あの客数では
負けるしか無い >>177
2スロで当たらないのに5スロで
当てろ!と言われても2.5倍回収して
単発終了が見え見えだな
やってる事が子供騙しレベルだから
小学校からやり直せ!て感じか梅宙の従業員は 編むの店員は、ドル箱を客にぶつけようが頭を下げやしね一
そんなのが2匹いたな パチンコ終わってるね
そんな時代になおさら、野田市のパチンコ屋には行こうとも思わねーわ
歯抜け店員達はどんな末路を辿るのだろうか 業界自体が終わりの始まり状態だから野田に限らずパチ屋に行く事自体やめた方がいい 低貸しはともかく自分がダメだと思う店に行くのが間違いだよ
負けた時のストレス半端ないから 低貸しはともかく自分がダメだと思う店に行くのが間違いだよ
負けた時のストレス半端ないから >>215
煙が嫌ならパチ屋入らなければいいじゃん? >>217
特定されててまだこんな書き込みできんのかコイツは 愛宇のショートヘア店員はかわいくないよ
近くで見てみ
デブだし ストーカーは自分がストーカーって自覚無いのがタチ悪いな
ほんと一回警察のお世話になった方がいい >>224
実物見た事あるけど
>>220の言う通り別にかわいくはない
好みは人それぞれだがキモい文章ここで垂れ流すんじゃねえよ
顔バレしてるのに恥ずかしくないの? 編む客少な過ぎて当たりゃしない
店員は掃除とか暇過ぎて回収モ一ド炸裂!
編む限界状況に達した 編むに行くと負ける確率99%
連敗継続率100%
完全に極悪店になってるよ パチンコ店は終焉だよ
行けばぼったくられるだけ
なんも得する事も無いし、つまらん
展開しか待って無い
そんなパチンコに飽きて客が寄り付かなくなってしまった 減ってるのは確かだけどさ
店はなかなか潰れないよな 愛宕駅の高架工事始まってるし愛宕宇宙潰れないかなー 朝鮮パチンコも酷いが、政治家や警察は
更に酷いと言う事だな >>236
そいつらが既得権益捨て去れば次第に縮小されるんだけどな やめようやめよう
みんなでやめよう
明日10時になっても11時になっても来客者ゼロ
店員達店長を驚かせて終幕に追い込もう 編むは、マジ怪しいよ
友達と相打ちするとわかる、
絶対、片方出るし、辞めようとすると出そうな演出出すし、分かりやすいよ
勝つときは、3000円以内に爆発するから 警察に調べてもらおう
ネズミ取りとかくだらねぇ事やってないで、
人様のお金を吸い尽くす商売を捜査しろ
そして、排除しろ
法律で禁止にしよう 店の経営が厳しくなると挙動が怪しくなるもんだよ
お座り激熱リーチとか、コインが無くなると小役が落ちたり
散々経験したからやめて帰るけどね
奴等も追い金させようと必死だから
もうバカらしくて行かない様にしている 遠隔信者多過ぎてウケる
あの店は遠隔です!って警察に通報して調べて貰えばいいじゃんハッキリするよ
シロだった場合、次から通報しても来てくれないって話だけどな
通報した人間も身元とか色々聞かれるらしい >>251
ベース(100玉打って返ってきた玉数)が30割ってたら通報したらいいんでない? どうせ今日勝ってもやめなければ
ト一タルでマイナスなのが分かってるだろう
プラスじゃ店が潰れちゃうよ!
客が減って閉店に追い込まれる店はあっても、出過ぎて閉店に追い込まれる店などありゃしない
ト言う事は?どう言う仕組みか解るよな? キコーナの大当たりはアホ店員がパソコンを1、2回クリックして大当たりさせた大当たりしかない。
キコーナの大当たりはすべて遠隔大当たりです。
いまはどこも遠隔大当たりしかないから。
キコーナは関西の店で幹部に関西人が多い。
キコーナは2chでステマまでしてるから悪質な店。 低投資で連チャンしても客数が伸びないと判断するとハマって飲まれてしまうよね
予想しながら打ってるとその通りになるパチンコに飽きたよね
今は、店側に偏り過ぎで客も減ったよね 編むもあんなに台を設置しても経費負担する客が大変だし、ハマリばかりで
疲れちゃうので3台間引きして寝転がって打てる様にしてくんね一かな一
その方が編むの為にも年寄り客の為にも良いんじゃね一? 肘掛けも今じゃ邪魔クセ一な一
あれが嫌で行かなくなったわ これからの時期は、エアコンで電気代が掛かるから益々出なそうだな
昔は、寒いくらいの店ばかりだったのにな一 電気代ケチって暑い中出玉増やすのと
涼しい中でハマるのとどっちが良い?
どっちも嫌だから俺行かない! もう何か月もいってません!!
勝ち組みは良いっすよ! 今日もガラパチだったので帰って来た
店員は暇で肥満児になってたな一 >>267
この動画の子、イイネ!
パチンコなんかに金使うんだったら、
こんな子と遊ぶ為の自分磨きのために投資するわ
てことで、みんなでパチンコをやめよう!!! >>284
お前みたいな変態が大嫌いなだけ
とっとと捕まれ うちは俺、妻、長女(7歳)、次女(5歳)、三女(4歳)の5人家族だが、
レゴランドに行くといつも上の子が我慢させられる。
不憫で仕方ない。 主権、自治権、基本的人権の獲得がウイグル人の目標だ。
東トルキスタンは、今の中華帝国が押し出している「一帯一路」の中心地域だ。
これはバロチスタンの状況とまったく同じだ。
われわれは独立国家を目指している。
なぜなら、東トルキスタンは不法に占拠された独立国家だから。
この東トルキスタンは数千年続いた独立国家の歴史がある。
近代は1933年から34年までの東トルキスタン
44年から49年には東トルキスタン共和国を再建した。
中国はこの68年間、ウイグル人の民族浄化を続けている。
核実験による虐殺、生物実験による虐殺、人口侵略による支配がある。
中国人(漢民族)の人口が49年は4%だったが、今は50%に増えた。
計画出産で、ウイグル人は500〜800万人削減された。
未婚女性は30万人から50万人ぐらいが中国に強制連行された。
同化政策によってウイグル語の使用禁止
イスラム教に対する強い制限が続いている。
中華文化への強制同化に抵抗した人には容赦ない弾圧と殺戮(さつりく)が続いている。
多くのウイグル人が政治犯として収監されている。
中国の刑務所にウイグル人が10万人いるといわれている。
われわれの独立、主権、民族自決権、基本的人権を獲得する戦いは続く。 中華元祥混んでるな!野菜たっぷりラーメンうまいわ! レス番すげー飛んでると思ったら例の愛宇基地外が荒らしてんのか氏ね
毎日IDあぼんするの面倒だから次スレから週1で済むワッチョイつけてくんね? 愛宇のおっさんども
もうパチンコ辞めろよ
あんたら下手すぎだわ 愛宇何で通報しないの?馬鹿なの?被害出てからじゃ遅いんだよ >>319
他の客がお前の書き込みの事を店に忠告したんだから見てるに決まってんだろ流石基地外
今は様子見てるけどエスカレートしたら即通報する予定なんだろ
早くケツでも触ってパトカーで連行されてこいよ 愛宇でキモヅラ晒して口半開きで打ちながらショートヘアチラチラ見てる奴探せば
それがID:GGsOwgAq0というわけだな簡単すぎる
性格は確実に顔に出るからな〜 >>348
こいつ味覚崩壊してて何食っても美味いと感じるんだろうな 愛宇の眼鏡おっぱいのおまんこにたっぷり中だししたい 広告代やら入れ替え費用やら結構な金かけてるのに出すわけ無えだろw
マルハンなんて一回行ってあのクソ釘体験したら行こうとは思えない 世間一般の認識
「私の趣味は将棋です」
→いいですねえ
「私の趣味は囲碁です」
→いいですねえ
「私の趣味はゴルフです」
→健康維持に最適ですね
「私の趣味はドライブです」
→いろんな景色見るだけでも楽しいですよねえ
「私の趣味は麻雀です」
→ギャンブルではなく実は読みや駆け引きが問われる高度な遊びですからね
「私の趣味はパチンコです」
→バカですか? ネットできないジジババはほっといてもうパチンコ辞めましょう ギャンブルしたいなら競馬、競艇、競輪でもやりましょう 私たちはパチンコをやらないことでしか立ち向かえないのです 編むに20時くらいに行ったら海のシマ
客が1人だった
もうすぐ閉店の前兆か 編むで、慶次で赤保留、xゾーン、キセル複合して外して、その後すぐキセルハズレ、遠隔バレバレ(笑) サップ野田で止め打ちを注意された時、完全な法律違反だから警察に通報すればよかったと今となって思う。
もしくは弁護士に相談して訴訟とか。 某店の駐車場に日雇いの給料袋落ちてるの見て哀しくなったわ
パチンコなんてやってないで最底辺から抜け出す事考えろよと… 編むも梅宙も行く度に同じ面子しか居ない
あれでは殆ど勝てないが、勝てるときは額が決まってるので、その額に達した時点でヤメだな
そして、パチンコがつまらなくなりヤメる人が後を絶たない状況 昨年末まで柏のパチ屋でバイトしてたけど、
野田に限らずもう常識が無いような客しかパチ屋にはいないね
台パンするわ空き椅子に座って他人の台ずっと見てるわ下皿に足かけるわ煙草床にポイ捨てするわ態度でけーわ
時給いいからとはいえ、ほんとストレス貯まった 低貸しはともかく自分がダメだと思う店に行くのが間違いだよ
負けた時のストレス半端ないから パチンコ店は終焉だよ
行けばぼったくられるだけ
なんも得する事も無いし、つまらん
展開しか待って無い
そんなパチンコに飽きて客が寄り付かなくなってしまった 店の経営が厳しくなると挙動が怪しくなるもんだよ
お座り激熱リーチとか、コインが無くなると小役が落ちたり
散々経験したからやめて帰るけどね
奴等も追い金させようと必死だから
もうバカらしくて行かない様にしている 梅宙 編むは終わってるよ とんQでかつ丼食った方がマシ http://www.sankei.com/west/news/170621/wst1706210089-n1.html
勤務先のパチンコ店で当たりが出やすく設定されたスロット台の情報を同級生に漏らし、店側に損害を与えたとして、大阪府警鶴見署は21日までに、背任の疑いで元店長の宮脇憂司容疑者(28)=同府守口市豊秀町=を逮捕した。
逮捕容疑は1月下旬、大阪市鶴見区のパチンコ店で、メールなどで情報を伝えた3人に当たりが出やすい台を使わせ、約30万円分の景品に交換が可能なメダルを不正に獲得させたとしている。
鶴見署によると、宮脇容疑者は見返りに、3人が景品を現金に換えた後、その半額を得るなどしていた。「店のアルバイトにおごるため、毎月10万〜20万円が必要だった」と供述している。
宮脇容疑者は2月に店を辞めたという。4月に店側が鶴見署へ告訴し、捜査していた。同署は今月21日までに背任容疑で同級生3人も書類送検。宮脇容疑者は同罪で起訴されている。
あのベラジオのエロ店長、逮捕www パチンコ業界に激震、来年2月から釘調整不可(ドア開かない仕様)に強制移行、現行基準300万台は全撤去 [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/news/1498103921/ >>410
ちょっと見に行った
あれはかわいくない ピア、サントロペ、楽園、マルハンなど今のパチンコ、パチスロの大当たりはすべて遠隔大当たりです
すべて遠隔大当たりです
大勝ちしてるののほとんどは打ち子たちです
ピアは打ち子だらけです
今はすべて遠隔大当たりです
確率、設定は関係ないです
◆ピア、サントロペは打ち子に遠隔大当たりさせて連チャンして金儲けしてる詐欺犯罪組織です◆
◆ピア、サントロペは打ち子の人数が日本で一番多い◆ 退屈でパチ屋に行くと更に退屈で堪らない
客が減るのは、客が減って勝てないから
客が減る 契約上の問題により建て替え工事は中止となり、柏での営業は困難となりました。
できるだけ柏でのオープンを目指していましたが断念せざるを得ませんでした。
7月2日をもって柏での営業を中止させていただき、7月14日より取手市にて再オープンさせていただくことになりました。
柏での14年間、本当にありがとうございました。
皆さまには少し遠くなりますが、取手市でお会いできるようスタッフ一同心よりお待ちしています。
店主 清水裕正
王道家今月のサービスは、味付け半熟玉子50円です 全国521駅「10年累計鉄道自殺数」ランキング
2016年06月22日
西八王子駅(東京)……39件
桶川駅(埼玉)…………34件
川崎駅(神奈川)………31件
新小岩駅(東京)………30件
新宿駅(東京)…………30件
八王子駅(東京)………30件
http://toyokeizai.net/articles/-/123503
JR川崎駅前にマタハリー(ピア、サントロぺ)のパチンコ台が約1800台、パチスロ台が約1000台ほどある。
その台はすべて、遠隔操作されています。
大勝ちしてる人のほとんどが内子です(ピアは内子の人数が日本一多い、詐欺犯罪組織です)。
今は大手のパチンコ店の大当たりはすべて遠隔大当たりなんです。
大当たりはアホ幹部がパソコンを1、3回クリックして大当たりさせています。
借金が原因で自殺してる人が多いけど、その原因は遠隔大当たりしかないパチンコ、パチスロなんです。
新小岩と新宿にはマルハンとエスパスがあります(エスバスは新宿歌舞伎町で一番大きなパチンコ店)。
西八王子駅の隣駅の八王子駅にはピアがあります(八王子駅にはパチンコ店がたくさんあります)。 生活保護受けながらパチンコ屋来てたやつが連行されてったな 野田で勝つなら針じゃねえんだな
愛宇とか愛菌とかM1が穴場なんだよ 客少ないので朝から安定した嵌まりを
疲労している編む
バカらしいから帰りましょう 今は、規制の繰り返しで明らかに
潰しに掛かってると言うのに
未だに店にいる奴、どうかしてるぜ!
て所か http://ameblo.jp/wongkong76667/
漫画 OUT ちょいバレ
別冊ヤングチャンピオン3月〜最新号 祝ドラマ化 >>469
これだけの利権を放棄するのか<地方警察 https://medaka.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1498597611/l50
今年、600万円負けています。
日拓エスパス 稲毛駅店
パチンコの90%が、毎回400回転以上ハマリ、通常当選ばかりな
遠隔操作レベルの店です。 パチンコ業界に激震、CR全廃、ECO移行、警察庁が来年2月確定だと発表、潰れるよ! [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/news/1499677156/ 【韓国】実の娘に「オナニーの仕方を教えてやる」・・・強制わいせつした父親に実刑[07/14] [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1499998946/ コスモ逝ったか 90年代は優良店で大変お世話になりました 勝ち確定の時に食べる移動販売の弁当がうまかったですw >>455
【鹿児島】パチンコ店のトイレの壁に大便 建造物損壊容疑で市職員を現行犯逮捕 同種の被害頻発
https://a★sahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1500814279/
パチンコ店のトイレの壁にうんこを塗りたくっていた鹿児島市職員を現行犯逮捕
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/news/1500815818/
【鹿児島】鹿児島市職員、パチンコ店のトイレ個室内の壁に便を塗り付け逮捕
https://egg.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1500819188/ パチンコのフェスタを展開する(株)テンガイ(福岡県小郡市小板井498-1)が不渡りをだしたという報が入った。
詳細は追って。
パチンコ業界は、規制でどんどん締め付けられ、どこも厳しい。
先日は、一人当たりの一日に稼げる金額が5万円までという警察発表があったばかり。
政府は依存症を減少させるためとのこと。
韓国・台湾は、パチンコ解禁後、即禁止になった。
■商 号 株式会社テンガイ
■英文名称 TENGUY Co,.Ltd.
■所 在 地 〒838-0143 福岡県小郡市小板井498-1
■T E L 092-715-7366(代表)
■F A X 092-715-7367
■設 立 平成7年7月21日
■資 本 金 4,000万円
■売 上 高 1,098億円(平成22年6月現在)
■従業員数 1,000名 (アルバイト含む)
■役 員
代表取締役会長 平本 二朗
■事業内容
遊技場経営
■店 舗
1 号 店 :フェスタ・宇土店 /熊本県宇土市新松原町135番地
2 号 店 :フェスタ・唐津店 /佐賀県唐津市和多田本村3931番1
3 号 店 :フェスタ・八女店 /福岡県八女市大島125番地1
4 号 店 :フェスタ・大村店 /長崎県大村市松並2丁目915番の2
5 号 店 :フェスタ・南長崎店 /長崎県長崎市磯道町113番地1
6 号 店 :フェスタ・京泊店 /長崎県長崎市京泊2丁目10番18号
7 号 店 :フェスタ・大塚店 /宮崎県宮崎市大塚町水流5163番地1
8 号 店 :フェスタ・戸島店 /熊本県熊本市東区戸島西2丁目2番75号
9 号 店 :フェスタ・赤迫店 /長崎県長崎市赤迫3丁目549番地1
10 号 店 :フェスタ・東長崎店 /長崎県長崎市網場町492番地3
11 号 店 :フェスタ・久山店 /長崎県諌早市久山台18番地7
12 号 店 :フェスタ・島原店 /長崎県島原市前浜町丙160番地
13 号 店 :フェスタ・宮崎駅前店 /宮崎県宮崎市老松2丁目2番1号
14 号 店 :フェスタ・都城店 /宮崎県都城市大岩田町6919番地2
15 号 店 :フェスタ・板橋店 /東京都板橋区舟渡3丁目26番1号
16 号 店 :フェスタ・森山店 /長崎県諫早市森山町杉谷241番地
17 号 店 :フェスタ・野田店 /千葉県野田市七光台358番地
1 号 店 :テンガイ・三鷹店 /東京都武蔵野市中町1丁目13番7号
2 号 店 :テンガイ・与次郎店 /鹿児島県鹿児島市与次郎1丁目11番26号 愛菌 愛宙 P−時間 M1はガラガラwww終わってるよwww >>515
<パチンコ台>大量回収へ メーカー不正改造 警察庁が要請
https://tamae.2ch.net/test/read.cgi/pachi/1450914063/
【パチンコ】不正改造のパチンコ台、警察庁が回収要請
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1450991656/
<パチンコ台>大量回収へ メーカー不正改造 警察庁が要請
http://medaka.2ch.net/test/read.cgi/pachi/1450914063/
パチンコ業界に激震、ついに「10000ホール」を割り込む
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/news/1483675516/
【社会】「パチンコ」が動機の犯罪1300件超、16年摘発刑法犯 警察庁
http://da★ily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1486121669/
【犯罪統計】16年摘発刑法犯のうちパチンコ資金が犯行の動機・原因、1300件超
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1486152907/
【滋賀】当たり出ぬよう、パチンコ台不正改造 経営者を書類送検
http://da★ily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1489757561/
【滋賀】当たり出ぬよう、パチンコ台不正改造 経営者を書類送検
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/news/1489760110/ 裏があるから裏を詠む
打たない奴が勝ち
打てばパチ屋の勝ち パチ屋に行くのが恥ずかしくなるくらいらい客がいない ピア、サントロペ、楽園、マルハンなど今のパチンコ、パチスロの大当たりはすべて遠隔大当たりです
すべて遠隔大当たりです
大勝ちしてるののほとんどは打ち子たちです
ピアは打ち子だらけです
今はすべて遠隔大当たりです
確率、設定は関係ないです
◆ピア、サントロペは打ち子に遠隔大当たりさせて連チャンして金儲けしてる詐欺犯罪組織です◆
◆ピア、サントロペは打ち子の人数が日本で一番多い◆ 全国パチンコ・スロット店評価サイト
って検索すると出てくるサイトがあって
勝手にパチンコ屋の評価してるけど・・・
参考になるとおもう???
http://pachislohyouka.com/ 神戸は終戦直後には密入国してきた朝鮮人の暴動が頻発し「魔都」といわれた くらいの無法地帯だった。
警察が山口組の三代目に依頼して暴虐な朝鮮人をやっと押さえ込むことができたくらいだ。
山口組の三代目の伝記を読むと当時の朝鮮人の非道ぶりがわかる。
ttp://blog.livedoor.jp/itouansatu/archives/49535396.html
■ 飯干晃一 著「山口組三代目 田岡一雄自伝」(p194)(1971年初版 徳間書店)
▲昭和20年8月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。
人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」 少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」 私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。朝鮮人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。
女は狂ったように絶叫していた。
「汚ねえ・・・・」うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。
■この動画を見てください。これが在日の正体です。
村田春樹は語る!敗戦後朝鮮人はなにをしたか
https://www.youtube.com/watch?v=7MzSfZTwGSU
高山正之 戦後の在日蛮行原因を語る
https://www.youtube.com/watch?v=P6eUqvYIoeo 編むも客が少ないからハマリまくりで
回収に大変だな一
雨の日はかなりハマルぞ一!
普段当たるリ一チも当たらない! 【韓国】 これはやられた! 誰でも韓国のことが、一瞬で好きになってしまう映像です!
https://www.youtube.com/watch?v=Y7xKWiIaKAo
【嫌韓派に贈る】 見ているこちらまで、ほのぼのとした気持ちにさせる、韓国の伝統文化をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=jqBdUXk3GdM
【韓国人の反応】 思わず息をのんでしまう絶景!!韓国の美しいビーチをご覧ください・・・
https://www.youtube.com/watch?v=fmXGxUJCLiM
【韓国の交通】 これぞ先進国!と唸る〜韓国の整然とした素晴らしい交通事情をご覧ください
https://www.youtube.com/watch?v=mrKMvu8a-3g 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい コスモの跡地に国際センター?てのが入るみたいだね
店員チャラチャラした格好OK、低貸専門じゃ酷い客層になりそうだけど
とりあえず一番影響受けそうなのはG1か? >>565
あくまで予想だが遅くても12月中旬〜か下旬でしょ
パチ屋で年末年始を逃がす手は無いと思う 野田は大手が来ない限り針1強のままなんだろうな
国際センターも調べたら他に5店舗しか無いし金も大して無いだろうから期待薄
マルハン級がミスパチ跡地ぶち壊して建物を一から作り直して進出とかしてこないかな 中華元祥の通り沿いをジェーソンに向かう途中の水色の建物、こうじサンドイッチスズムラは
大人気店だよな。いつも満車だし。 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい 愛宙 愛菌 P−時間 M1 終わってるw絶対に勝てない 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい ピア、サントロペ、アビバは打子に遠隔大当たりさせてる詐欺犯罪組織です
4円パチンコで内子に遠隔大当たりさせてるから
今はパチンコもパチスロも大当たりを自由自在に操作できるんですよ 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい 愛菌 愛宙は終わってるなwモスでスパイシーモスチーズバーガー てりやきバーガー
チリドッグ フランクフルト食った方がマシ 河原みのりのおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい 中華元祥の隣りに作ってるマミーマートの建物スゲー道路から近いな!威圧感がある! 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい おまいら、なんで強姦魔が辞められないか知ってる?
経験者から聞いた話なんだが、レイプしようとすると大抵の女は始めは嫌がるんだが、
暴れて疲れるとほとんど身動きも出来なくなる。もう好きにして状態になる。
そして驚く事に、女はレイプされるともの凄く感じる。普通にセックスした時よりも、
比べ物にならないほど激しくイクらしい。痙攣してイキまくる。だから通報できない女が多い。
大抵の女性はレイプされるとありえないほどの快感を覚える。
それは大量のアドレナリンとドーパミンが順番に分泌されるからである。
吊り橋効果と似ていて、レイプ魔に襲われて恐怖を感じた時に、
アドレナリンが大量に分泌され生理的に極度の興奮状態に陥る事により、
自分が恋愛をしていると脳が錯覚して、脳が快感を与えるドーパミンを分泌してしまう為、
体が快感を覚えて反応し、挿入からしばらくすると、
膣が充血する事で、クリトリスや膣内の性感帯が過敏になり、
膣が刺激される度にピストン運動にあわせて脊髄反射で腰を振ってしまったり、
痛みに対して悲鳴を上げるように、快感に対してよがり声をあげてしまうわけなのです。
女性というのは、そういう風に出来ているのだそうだ。
だから強姦はクセになってしまうのだそうです。ついでに言うと、
強姦被害者がよく自殺なんて話があるが、あれは強姦されたことが嫌で死ぬわけではなく、
強姦されて激しく快感を覚えた自分の体に嫌悪して死ぬのだそうですよ。
ちなみにこれは知り合いの弁護士が連続強姦魔から聞いた話です。
強姦魔の話では、強姦をするときに女性が自分が感じてしまっている事への戸惑いと、
快楽に身を任せる表情とが入り混じってたまらないと言います。
どんな美人でも最後には泣きながら自分から腰を振るそうです。
嫌だとは思いながらも体は感じすぎてしまい拒絶できない。むしろ自分から求めてしまうそうです。
強姦魔によると、美人が泣きながらも苦悶の表情で、「イク」と言うのがたまらないと言います。
一度知ったら誰であろうと絶対に辞められるわけないとも言っておりました。 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい m1もガラガラだなwゆで太郎でかき揚げ蕎麦食ってやめたわ 頭ごなしに聴きもしないでAKBだからとか乃木坂だからクソって決めつけないでほしい。
ちゃんと聴いてみて。
ほんとうにいい曲だから。
曲もいいし、歌詞もいいし、パフォーマンスも最高。
乃木坂は日本音楽史だけじゃなく世界的にも優れたアーティストとして歴史残すほどだと思う。
アイドルだからって舐められて見られがちだけどホントウのカノジョ達を見て欲しい… 全然関係無いけど、今付き合ってる彼女が双子なんだけどさ
昨日帰りの駅で偶然彼女を見つけたから、驚かせてやろうと思って
後ろから、「俺だよ〜」ってふざけて乳もみしだいたら、全然知らない人だった 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい 客少なすぎてファン感クジ続けて2回引かせるとか終わってるな 店員も減って呼んでも来るの遅くなったな一
当然、出玉はすずめの涙
やめて暫くして見に行くと10数連チャンとかバカにしてるので撤収
長く居るとろくな事が無いのは百も承知 お客さんいつも納金ありがとうって店が感謝しながら型落ち家電等のゴミ配る日だよ >>550
【パチンコ】上納金を巡る脱税事件で特定危険指定暴力団・工藤会関係者「工藤会系組長が、大手パチンコ店運営会社側から5千万円を受け取ったと聞いた」と証言 福岡地裁
http://a★sahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1511313575/ 船形、たなの京子は大泥棒。
妹富子は共犯者、1000万の詐欺事件。
船形たなの泥棒一族は師走もパチンコ三昧! >>675
何だ!やってんのか?P-WORLDから消えたって言ったの誰だ! 国際の前通ったけど駐車場はそこそこ埋まってた
これが何日続くか… >>687
回らない
G1とか針笛行ってた方が全然マシ こういう自分で調べようともしない奴って何なの馬鹿なの?
目の前の箱で検索しろよ >>696
バイト時代に社員が普通に家買ってたけど
まぁ役職だったが パチンコ負け額早見表
一か月平均 1年間 2年間 3年間 5年間 10年間
5万円 60万円 120万円 180万円 300万円 600万円
7万円 84万円 168万円 252万円 420万円 840万円
10万円 120万円 240万円 360万円 600万円 1200万円 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい 国際もうガラガラじゃん
開店資金回収できんのかあれ 国際7のつく日に七!光!台!とか煽ってんのアレいいのか? 愛宇のショートヘア店員のおまんこの中にたっぷり精子出してあげたい >>672
【社会】パチンコ出玉3分の2程度に、2月1日から施行・・・警察庁★3
http://a★sahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1517557926/
パチンコ出玉3分の2程度に 改正風営法施行
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1517440445/ すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
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世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
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チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
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この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
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右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
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早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
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昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
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ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
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20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
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早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
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この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
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この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
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「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
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早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
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チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
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右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
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「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
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でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
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わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
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ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
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20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
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この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
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昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
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20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
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そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
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プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
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ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
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昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
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球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
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若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
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「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
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早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
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ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
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わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
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「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
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わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
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PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
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もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
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世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
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ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
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でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
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昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
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松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
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ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
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人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
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20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
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20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
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筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
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もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
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敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
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プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
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ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
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DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
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復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
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