日本は1933年(昭和8年)、世界に先駆け酸素魚雷の開発に成功。以降、大戦を通じて唯一の酸素魚雷運用国となった。

酸素魚雷は当時の他国魚雷の水準に比して、雷速と炸薬量で優り、射程は数倍、加えて航跡の視認が困難という高性能なもので、
連合軍は1943年に鹵獲するまで魚雷の性能を知ることができず、開戦当初には大きな損害を受けた。

一方で、酸素魚雷の整備性は良好とはいえず誤爆を防ぐために充分なメンテナンスを要し、
また、速すぎる雷速の為、船底爆破用の磁気式の信管が使用できず、接触式信管を採用せざるをえないなどの短所もあった。

大日本帝国海軍では、より確実な水雷戦闘力を求めて、更に大型の駆逐艦「特型」を導入した。
戦術としては前型が6射線であったものを9射線に増強し、敵主力艦が回避可能な範囲全てを覆う様に駆逐隊単位で一斉に雷撃するというものであった。
敵艦隊の防御火力も強力なことを算定し、12隻から16隻の駆逐艦を投入、水雷戦隊として突入する。

その盾となる突破支援に指定されていた条約巡洋艦戦隊も雷装し、生残した艦はすべて敵主力艦を攻撃する。
こうした戦術から条約巡洋艦を切実に必要としていたのは日本だけであった。他国は主力艦戦力に余裕があったためである。

強力な酸素魚雷の実用化は水雷志向をさらに加速させ、軽巡洋艦に片舷20射線、計40門にも及ぶ大量の発射管を搭載した重雷装艦を誕生させるに到った。