1946年(昭和21年)2月17日に政府が突然、国民に向け「預金封鎖と新円切り替え」を宣言しました。
「新円切り替え」は、アングラマネーまでを含み、国民の資産を吸収する目的での強制執行手段でした。
一定期間中のみ、銀行窓口のみが旧円を新円に交換するため、旧円がただの紙となる前に国民は銀行に旧円を預けました。
集まった預金は封鎖され、毎月の払い出しを生活費相当の一定額以内と制限されます。
そして預金は切り捨ての対象となりました。

戦後復興を急いでいた46年(昭和21年)当時、政府には1000億円超の「戦時補償債務」の処理が急務でした。
戦時補償債務とは、軍事産業拡大に金融機関等が行った融資に施された国家補償を意味しています。
46年当時のGDP(約800億円)の1.25倍(現在なら630兆円規模)の額が、戦時補償債務のみでの額でした。
育成を目的とした産業が順調に発展したなら問題がないのですが、第二次大戦での敗戦は、その補償目的の「軍事産業」を破綻に陥れました。
この軍事産業が破綻しても国家補償は実施しなければなりません。
一方、敗戦後の日本には財政的な余裕は全くありませんでした。そこに「預金封鎖・新円切り替え・預金カット」を行い、融資した銀行のバランスシートを調整することで、融資を受けた軍事産業の債権の補償をしませんでした。
軍事産業の企業の資産と負債を「新勘定(=再生企業)」と「旧勘定(=清算企業)」に分け、銀行の資産・負債についても、これに対応するように「新勘定」と「旧勘定」に分けました。
銀行は旧勘定の債務処理により、自己資本が無くなり債務超過に陥りましたが、その対策に銀行にとっての「負債」の預金をカットしました。
つじつまを国民の「預金カット」で合わしたのです