現代文がなにかは、>>663に書いた。別にほかの教科とかわらない。教科書つかって学校で教わった基礎知識が
どんだけ身についてるか、応用問題の中でみてるだけだよ。数学とかもおなじだろ。

ただ、現代文の試験は読解の試験にならざるをえない。ところが読解というのはそもそも傾向として私的主観的な営為なうえに、
現代文の試験以外では「自由に読んでいいんだよ」「自分なりの感想でいいんだよ」
なんてのが奨励されたりする。このへんが現代文の解答に納得いかない者や、みょうな解答だす教師、さらには「ライジング現代文」
なんていう参考書がもてはやされたりする原因なわけだ。

絵画でいえば、鑑賞して感想がきかれてるんではなく、その絵画に使われてる色とか技法とか、
客観的なものが正確にわかってますかって聞かれてるんだってことに気づかなきゃならない。

文章のなかで使う言葉の意味、文と文との接続のしかたや配置、文章の構成など、要するに現代文で聞かれてることを
私的主観的ではなく公的客観的な枠組みのなかにおいて考えるためには、要は、その課題文を読むのではなく、
人に伝えようとして自分で書いてみればいいんだよ。
たとえば、
自分が「山羊小母の家は古い」ってことを伝えようとして山羊小母の第一意味段落を書き、さらに課題文全体を書いたとして、
「山羊小母の家は古い」ってことが、言葉の意味、文と文との接続のしかたや配置、文章の構成などについて
正確な知識を持ってる相手に、自分が主として言いたいこととして伝わるかって考えりゃいい。
自分が書いたとして、って考えることが大事。

と、書いてきておもったが、こういうふうに主観と客観とを行き来するような知的営為ってのは、つうかには、できないんだろうなあ。
つうかの書いたもの読んでおもうわ。たしかに一種のアスペ。