たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。
では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。
すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。
第一、その私って、いったい何なのだろう?
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついはじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、、いったい、見る作用のみが、どこにあると考えられようか。
これはおかしな話である。
ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。

竹村牧男.入門哲学としての仏教(講談社現代新書) より引用