普通は死去の際、位が上がって
正二位に昇格するんだが、
伊藤博文は憲法制定の功績、
山田顯義は民法、商法等の諸法典編纂の功績で
山縣有朋、黒田清隆、大隈重信などの大物を
差し置いていち早く正二位に昇格しています。


明治22年(1889年)
1月10日、皇典講究所所長を兼帯(明治25年(1892年)まで在任)
8月17日、現行法律規則調査委員長を兼帯。
10月4日、日本法律学校(日本大学の前身)を設立し、同校の評議員を兼帯。
12月24日、司法大臣就任(第1次山縣内閣。明治23年(1890年)12月25日まで在任。病により山縣首相に辞表を提出するも保留扱いとなる)
明治23年(1890年)
7月10日、伯爵議員を兼帯(明治25年(1892年)4月1日[27]まで兼帯)
10月23日現在、従二位(叙位の年月日は不詳)。
11月22日、設立に関与した國學院(國學院大學の前身)開院。
明治24年(1891年)
2月8日、司法大臣就任(第1次山縣内閣。4月9日まで在任)
4月7日、正二位に昇叙。
5月5日、法律取調委員会委員長を免ず。
5月6日、司法大臣就任(第1次松方内閣。6月1日まで在任)