長州兵の入京。乳臭兒が長州軍を指揮


 慶應三年、顯義、長藩の隊長となり、一隊の兵を率ゐて攝津西の宮に屯した。
當時、會桑の兵を京都より拂はんとする議があつて、長州兵の入京を急がすの
必要があつたから、西ク隆盛旨を傳へて、顯義の進軍を促さしめるために、
大山彌助(巖)を西の宮に遣つた。大山、西の宮に來り、陣門に入りて、顯義に逢はん事を求めた
。帷幕の裡に待つことやゝ乍らくあつて、顯義が出て來て、其姓名をつげ、大山の使命を聞かんといふ。
 大山、顯義を熟視すると、之れ一箇の矮小漢であり、年齒も甚だ若い。

 
 其英名はかねてより聞いてゐるが、かゝる小忰とは思はなかつたから、大山大に侮る色が生じた。
かゝる乳臭兒が何を能くするかと思ひつゝも、西クの使命は傳へねばならぬから。西クの密書を
懷より取り出して渡し、時機甚だ切迫してゐるから、急いで兵を進ませられよと陳べた。
顯義、曰く諾と。直に左右を顧みて、出兵の命を下した。其言語擧動の敏捷なる、
流石評判に恥ぢぬだけのものがある。大山亦侮り易からざるを感じつゝ、
辭して陣門を去らんとすると。早、兵隊の部署は整然として悉く定り、將に進發せんとする模樣がある。
之れを見て大山遂に顯義の穎秀なるに敬服して了うた。
時に顯義二十二才、大山二十四才であつた。