【大日本帝国憲法(第1条)】
●「『戦前の国家体制(天皇主権体制)』の成立の経緯」について


(1)「条文の内容」
大日本帝国憲法第1条は、大日本帝国の政治体制を「天皇を君主とする君主制(立憲君主制)」と規定したものである。
《条文》「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」


(2)「成立の趣旨」
1881年(明治14年)、「明治十四年の政変」によって「伊藤博文」らが明治政府内で権力を掌握。その直後に開いた「御前会議」において「国会を開設すること」、及び、そのために「憲法を制定すること」を決定した。
同年10月に「国会開設の勅諭」を発令。この勅諭において「第1に、1890年の国会(議会)開設を約束し」、「第2に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し」、「第3に、これ以上の議論を止める政治休戦を説いた」。

1888年、伊藤博文は、憲法の草案にあたり、明治天皇の諮問機関として「枢密院」を設置。
そして、同年6月の「枢密院」での会議において、明治国家のグランドデザインに関して議論された。「大日本帝国憲法第1条」は、その際の伊藤博文の発言内容をベースにし、作成されることになった。

《(ヨーロッパにおいては)宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。
 然るに我国に在ては、宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。
 仏教は一たび隆盛の勢を張り、上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。
 神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すと雖も、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。
 我国に在て機軸とすべきは、独り皇室あるのみ。》 (伊藤博文の発言)


つまり、伊藤博文は、『仏教も神道も国民統合の手段としては力不足であり、(明治国家では)天皇崇敬を国民統合の機軸に据えるべきだ』と主張している。
「天皇崇敬による国民統合」が具体化されたものが、いわゆる『国家神道体制』である。
そして、この制度を規定するために成文化したのが、「大日本帝国憲法第1条」である。

<出典1> https://ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国憲法#沿革
<出典2> https://book.asahi.com/jinbun/article/13283526

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