アメリカでは「めちゃくちゃ投げました」
「日本のプロ野球にいた5年間はずっと怪我していたのかい?」
 ロッテでは一度も一軍のマウンドに上がることは無かった。アメリカ独立リーグに進む際、二軍での5年間の成績を提出すると、球団関係者から訝しがれた。
「5年間の数字を調べたのですが、平均で登板は年間11試合30イニングでした。これって半年のシーズンなので、ひと月5イニング、1週間に1イニングしか投げていないことになります。
一方でアメリカでは結果が出なければ次の日はクビという世界な半面、めちゃくちゃ投げました。3カ月半で40試合約70イニング。それまでのキャリアでトップの数字でした。
日本では登板機会がほとんど無く、何が正解かも分かりませんでしたが、試合で投げていく中で、いろいろなものがそぎ落とされて、
自分のストロングポイントはこれだと気付くことができてすごく伸びました」

選手が悪いのではなく、構造がおかしい。
「経験こそが人を育てる」が確信になった小林さんはその後も世界各地でプレーした。

一度は帰国し四国アイランドリーグの香川で半年間プレーしたが、その後再び海外へ。台湾の兄弟エレファンツでは2年間で19勝、メキシカンリーグではオールスターゲーム出場を果たすなど活躍。
最後は韓国の二軍リーグに参加していた高陽ワンダーズで現役を引退するまで、34歳まで現役を続けた。
日本のプロ野球でもどかしい日々を送った5年間とは対照的に、海外で試合に出ることで多くのものを得られた。そして「補欠」が大量に生まれる日本の競技構造にも大きな疑問を感じるようになった。
さらに、この2つの経験から高校までは気づかずにいた「試合に出られないことのデメリット」も強く感じるようになったと語る。
「10代の時は体が大きくてレギュラーだったので、補欠の気持ちが分かりませんでした。辞めていった選手を挫折や脱落と見ていました。日本にはまだそういう考えの人が多いと思います。
でも、“試合に出られなくて辞めた”という選手は、その選手が悪いのではなく、そもそも構造がおかしいと思うようになりました」

あのまま日本で辞めていたら……。
現在は福岡市博多区に野球専門のワークアウト施設であるKOBES(コビーズ)を開設・経営し、自らも小中学生の指導にあたる。
「もしも僕が2002年にロッテを辞めた後に、野球から足を洗っていれば、その後野球に携わることも、子供に野球を勧めることも絶対になかったです」とハッキリと言う。
もちろん「プロ野球がこんなにも夢がないところなのか」、「こんなにも野球ができない世界なんだ」と失望した当時からは、
三軍制を構築した隆盛を誇るソフトバンクが好例のように日本の野球界も変わってきた。
それでもアマチュア野球の現場には大きな変化はない。高校野球部には100人を超えるチームも少なくない。高校でも多くの指導者を擁して、
能力別に数チームの編成をして練習やオープン戦を組む高校もあるが、指導者の数やグラウンド環境が追いついていない高校もある。
何よりも規則として同じ部からは1チームしか公式戦に出場できない。