試合に出るために頑張る」は誤り。PL学園、NPB、海外で感じた“差”。

「俺たちには信じられないぜ」「あれで何も問題起きないのかい?」
 ロッテで投手を5年、中日で打撃投手を3年務めた小林亮寛(りょうかん)さんは、その後、海を渡って現役復帰したアメリカ独立リーグのカルガリー・ヴァイパーズ(カナダ)で、
同僚たちから口々に疑問を投げかけられた。

現地のスポーツチャンネルで日本の高校野球や甲子園についての特集が以前放映され、北米では大きな違和感を持って受け止められていたのだ。彼らの中には「誰も訴えたりしないのか?」と言う者までいた。
「なんで訴えるんだ?」
日本の高校野球で育ってきた小林さんには理解ができなかった。すると、アメリカ人の彼は「だって1チームに120人もいるチームがあるんだろ?」と言った後、こう真理を突いた。
「だってみんなフィー(部費)を払うんだろう? フィーを払っているのにゲームができないなんておかしいじゃないか。野球をするため、ゲームをするために払っているのに、おかしいだろ」
小林さんには初めて気づく視点だったのと同時に、そのことがあらゆる負のサイクルを生み出していることにも目が向くようになった。

グラウンド上では平等だったPL学園。
中学時代の小林さんは、九州のボーイズリーグで公式戦49連勝を果たした福岡の強豪硬式クラブチームの主力として活躍。当時、隆盛を誇っていたPL学園高校(大阪)に進学した。
PL学園と言えば、甲子園にいくつも伝説を残したその強さとともに、厳しい上下関係が有名だ。だがグラウンド上では平等で「野球をする機会」についてもそれは同じだったと言う。
「1学年16人を目安に部員を獲るというようにしていたそうです。僕たちの時代の16人は、甲子園や大阪府大会でベンチ入りできる数。もちろん下級生も入りますが、
学年全員にチャンスや希望はありました。そして、人が足りなくなれば自分たちが(チーム力の低下などにより)困るので、助け合いが生まれていました」
人数が少ないので15時から始まる全体練習は短く、18時頃には終わっており、「いかに練習を休めるか、サボるか」という発想はまったく無かったという。
また、幼少期から成長も周囲の同学年の選手たちより早かった小林さんは出場機会に困ることも無かった。そのため「試合に出られないデメリット」を感じるようになったのはプロに入ってからだ。

負のサイクルに陥ったロッテ時代。
身長184センチから繰り出す力強いストレートを武器に、1997年のドラフト会議でロッテにドラフト6位で指名された小林さんだったが、PL学園での最後の1年は故障で思うように経験を積めなかった。
それでも潜在能力を買われて入団したわけだが、二軍で登板機会を得ることに苦労した。そして負のサイクルに陥ってしまった。
「経験が少ないままプロ野球に入ってしまって、ことごとく上手くいきませんでした。多くの選手がそうだと思うのですが、試合を経験する数が少ないと練習を一生懸命します。
もちろんこれは大切なことですが、練習の目的ややり方が、試合に出ていない人には試合で好投するための基準が分かりません。基準がなければ、コーチの主観が成否の基準になる。“
そうすれば試合に出られるんだ”と思ってやってしまいますが、それが自分に合っておらず、答え合わせができないまま数をたくさんこなすと、イップスになったり、肩を痛めてしまったりします」
そうした選手には当然、登板機会が回ってこない。あっても負け試合の最終回1イニングなど緊張感のない場面が多く、イケイケで来る相手打者に対し、「久しぶりの登板で結果を残したい」と思って試合に臨むあまり、
痛打されたり、フォアボールを連発してしまうことで、次の登板はまた1カ月後になる。
今も多くの球団で、そして当時は全球団に三軍は存在せず二軍が最下層になっていたため、それより下のステージもなく、日々実戦の機会も得られぬまま手探りで模索を続けるしかなかった。