渡辺が指導者人生をスタートさせた1965年当時、横浜高校はあまりのガラの悪さから“ヨタ校”と呼ばれ、
「学校のバッジを見れば、誰もが避けて通る」と言われるほど、地元民から恐れられる学校だった。
当然、野球部も例に漏れず、問題児の巣窟となっていた。しかし68年に正式に監督に就任すると、熱血漢・渡辺元智の目標は当然のように「甲子園出場」となる。
手っ取り早い方法は有望中学生のスカウトだ。しかしながら、有力な中学生は“ヨタ校”に見向きすらしなかった。
甲子園出場はますます遠のくばかり。背に腹はかえられないと感じた渡辺は、ここで掟破りの手を使うことになる──。
高校野球に精通するノンフィクションライターのU氏が話す。
「渡辺監督は“虚偽勧誘”という禁じ手をしかたなく使ってしまうんです。私立高校なのに県立と偽り、
生徒の成績も優秀で素晴らしい学校だと触れ込みまくった。さらには合宿所も完備と‥‥。」