【延長18回】箕島高校の記憶【春夏連覇】
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智弁和歌山という絶対的な高校がいて、甲子園行きは遠いですが、
今なお和歌山県で上位の実力を維持しています。 >>741
タイミングはセーフだったね! 住吉ガタイ良かったからら、跳ね返された感じ! >>726
天理にはムチャ相性悪かった!多分その通りで、1勝5敗戦ぐらいだと思う。
箕島は外弁慶型のチームだったから、県内でもちょくちょく負けるのが、逆に公立校らしく嫌みがなかった! >>733
尾藤監督と同じ職場だったと思うわ! 昭和52年の夏前の「有田コレラ」で外出禁止令発令で、調整不足で県決勝で敗れて春夏連覇を断たれた! 山路・林の91年のチームが天理と対戦していたら結果はどうだっただろう?
90年秋近畿では準決勝で三田学園に負けて実現しなかった。控えの中尾を先発させたこともあるが。
打撃戦では勝つことは考えられないから、山路の快投しか勝ち目はないかな。ただこの年の天理は脆さもあったから付け込める隙は有ったと思う。
尾藤さんは高校の先輩で81年夏ベスト8の和歌山工監督の吉川さん(当時和歌山県高野連理事)に「天理とは甲子園で対戦したいんですよ。」と話していた。 >>747
準々 箕島3-0三田学園
準決 神戸弘陵5-2箕島
だったと思う! 箕島は天理には相性悪かったけど、甲子園で対戦すれば外弁慶ぶりを発揮したかも知れないね >>747
準々 箕島3-0三田学園
準決 神戸弘陵5-2箕島
だったと思う! 箕島は天理には相性悪かったけど、甲子園で対戦すれば外弁慶ぶりを発揮したかも知れないね >>750
まぁ お約束の通り、準決は控え投手を試す場でもありました。 >>501
習志野と報徳がある。広商はもう昔日の面影なし >>752
明石商も、勝負どころでスクイズを仕掛けてくるから、少し箕島野球の匂いはするわ >>730
82センバツに出た大成の楠井主将も定時制でした。
実家(大規模農家)の手伝いでフル稼働しながら
野球部主将としても大活躍とテレビでも取り上げられてた。 イメージとしたら報徳学園と東洋大姫路が兵庫県の顔なんですけどねえ。 報徳は不祥事が続いたときは廃部も検討されたと聞く。
最近は甲子園でなかなか初戦突破できず、「初戦に強い報徳」のイメージが薄れたのは残念だが、初戦突破したときは必ず上位進出する感じだな。
それにひきかえ東洋は… 箕島
東洋大姫路
77年の春、夏の優勝校
この両校って、近畿大会で対戦したことあったっけ? 箕島が晴れ舞台に帰る事は無いのだろうか?
最近の箕島はどんな感じですか? 箕島は尾藤公・元監督の息子、箕島の前監督だが、彼が入学してきてから歯車が狂ってしまった。
意外な事に、勝負師の尾藤公監督が我が息子を溺愛し過ぎていた。
当人は表面に出していないつもりでいても、部員たちは気づいていた。
そしてその息子の尾藤強が在校時に一度も甲子園に出場出来ず、更に箕島はシラけたムードになり、その間に智弁和歌山が力を付けていき、また中学生の憧れは箕島から智弁にシフトして行ってしまった。 >>766
選抜の大阪桐蔭戦で2打席連発の林、高野と後にプロ入りした野手陣もいたから夏に智辯に敗れて甲子園逃したのが痛恨で・・・ >>765
親子鷹といえば、東海大相模の原、銚子商の斎藤親子を思い出すが、箕島の尾藤親子と違いこちらは親子で甲子園出場を果たした。
しかし、東海大相模、銚子商ともに息子が卒業してからは甲子園から遠ざかってしまったのは何かの因縁か。 >>768
東海大相模で言えば原貢監督が東海大学監督に異動してしまったのが大きかったかも
知れませんね。 >>765
強の入学と箕島の長期低迷→没落の始まりは同じ時期だからな。 >>770
どうしても親子の情が出ちゃうからと嶋田兄弟の家に頼んで
強を下宿させてたみたいですが、グラウンドでは情が出ちゃってたのか・・・ >>771
強が卒業後に尾藤公元監督が某雑誌のインタビューで
「息子は目の中に入れても痛くない」と語っていた。
そんな発言をする人ではないと思っていただけに凄く意外だったし、恐らくその思いがグラウンドでも滲み出ていたんだろう。
そりゃあチームはシラケると思う。 尾藤親子の件でシラケてなんかいないって
シラケててたら強が監督に担がれることもなかろう
親尾藤さんが息子の強君を幼少の頃から溺愛してたのは誰でも知ってたし
本人も「どうしても息子と他の選手を平等に扱うことはできない」と言う悩みを隠さずに吐露してたし、
周囲も「そりゃそうだろ、実の親子なんだから」という感じだった
強くんが実力でエース勝ち取ったとみんな認めてたもんね 尾藤親子の件でシラケてなんかいないって
シラケててたら強が監督に担がれることもなかろう
親尾藤さんが息子の強君を幼少の頃から溺愛してたのは誰でも知ってたし
本人も「どうしても息子と他の選手を平等に扱うことはできない」と言う悩みを隠さずに吐露してたし、
周囲も「そりゃそうだろ、実の親子なんだから」という感じだった
強くんが実力でエース勝ち取ったとみんな認めてたもんね 箕島が凋落したのは学校自体の人気低下
野球のことじゃなくて偏差値面でのはなし
学力的には耐久(地域トップ校)相当の野球少年が
あえて偏差値の低い箕島へ行くことが昭和50年代まではよくあった
そういう子らが来なくなって脇を固める人材が不足するようになったのが
低迷の始まり 次にきたのが智弁の台頭なのはご存じの通り かつての箕島高校(普通科)では、学校全体のテストの平均点より
野球部の平均点の方がはるかに高かった
甲子園で活躍した選手たちの多くは賢そうな顔してるだろ あと、80年代に入り選手の気質が変化、尾藤さんのような熱血漢でスパルタ式な指導者が敬遠されつつあったというのもあると思う。
「やる気がないなら帰れ」と怒鳴ったら本当に選手が帰っちゃったんだから。
むかしの選手ならそんなこと言われたらコンチクショーとなって発奮したと思うのだが。 >>779
「このあとの練習はレギュラー限定だから補欠は帰れ!」って帰らされたことあるわ。
下級生はおとなしく帰ったが、帰りたくない3年生は「僕たちも残ります」と訴えたけど、
「うるせええ レギュラーの邪魔すんな」と力づくで追い出された。
Koyoでのなつかしい想い出・・・・・・ 俺はお前らに恋愛している。だからお前らのことをもっと知りたいんだ、と春夏連覇のころ尾藤さんは選手にそう語っていたと聞く。
いまそんなこと言ったら「キモい」となってしまうのかな。 >>767
翌年は高野がエースだったね。この92年は春優勝、94年は前年秋準優勝でともに近畿大会出場。
チーム力としては甲子園に出れるレベルだったので、1度でも出ていれば状況は違っていただろうね。 >>786
そうでしょうね。
向陽は昔からレギュラーと控えの差別は有名。
2チャンネル時代は向陽高校野球部というスレがあり、その差別的扱いをOBが暴露していたのも有名な話。 >>772
奥さんは家庭を顧みず野球に打ち込む尾藤さんのことを「子供を作るときにちょっと手伝ってもらっただけ」とか話していたようだな。 箕島は南海沿線あの肩ラインのユニフォームも南海ホークスにあやかって造ったんやろか まあ強さんは保中時代は絶対的エースで彼がいてこそ近畿大会まで行けたって当時の監督も言っていたくらいだからな。
普通に箕島でエースを張る実力はあったじ。 >>784
92年は高野山に3-4、94年は伊都に4-6で敗戦。ともに初戦敗退だったと思う。
どちらも力負けというより取りこぼしという印象。黄金期はこのような負け方は考えられなかったけどね。 >>793
黄金期の取りこぼしは81年くらいかな。
串本に9回まさかの7失点で初戦敗退。 >>795
松下氏がキャプテンの時ですね!尾藤監督、試合後気が付けば琵琶湖だったとか!
箕島初戦敗退をNHK21時のニュースで伝えた その直後に東京遠征して都東大和と練習試合したな。
報知高校野球のカラールポで取り上げられていた。 S52年の選抜も記憶に残っている目立った選手はいなかったが一回戦で大型選手を集めた
名電に勝って勢いにのり決勝では後にプロで活躍した山沖のいた二十四の瞳こと中村を破っ
て復活優勝s54年の春・夏連続優勝へスタートをきった >>798
エース東は準々決勝の県岐阜商戦の9回に失点しなければ、すべて完封での優勝投手だったのに…。惜しかった。
後から知ったんだけど、この時のメンバーには後の中日の「親指トム」上川がいたんだよね。 >>799
上から読んでも石井〜下から読んでも石井〜どこから読んでも石井〜ホームランホームラン石井〜14番で二年ながら5番打ってましたね!
あと、箕島球友会監督の西川氏は2年で4番で、強打者でした! >>799
そう、上川がプロ入り後、巨人戦でサヨナラ打でヒーローになった時に
77年春優勝メンバーだったというのを初めて知りました。
上川の高校時代は全く記憶になくて・・・ >>800
後に巨人に入団した石井雅博ですね。その「上から読んでも〜」の応援歌懐かしいなぁ。
83年に巨人に入ったスミスにも使われましたね。
関係ない方向に行ってすみません。 >>801
それ、昭和57年の巨人戦、江川からサヨナラの内野安打打ったときだろう。
俺もそのとき箕島の優勝メンバーだったと知った。
あのときは石井、西川、栗山の印象が強い。 中村戦の決勝はYouTubeでも上がってますが、石井の打席の時に、解説が「次の球気お付けた方がいいてすよ」と、言った瞬間、強烈なレフトライナー打ってましたね!
どっしり構え、左足はスリ足で高く上げずスイングしてたけど、強打者なオーラがありました!
53年は春夏出てるから、3回甲子園出たんですね!
石井2人に西川に嶋田に上野に優勝狙えましたね! 53年はツキがなかった鱈話になるが福井商や中京に勝ってたら優勝してたと思ってる 53年&54年のチームなら根尾・藤原世代の大阪桐蔭と戦っても負けないと思うのは
身びいきやろか 野球を知っている点、細かなプレーができる点ではあのときの箕島のほうが上だろう。
条件として、当時の用具、ボールで戦うこと。
あの当時といまとでは用具、ボールの性能、質が違いすぎる。 >>806
特に春の福井商は自滅のようなものでしたしね。
夏の中京は出場校監督へのアンケートで「優勝校はどこだと思いますか?」という質問に尾藤監督は「中京」と記入していたようです。
中京も箕島の次戦は天理に勝ち、その次の準決勝でもPLに勝利目前まで追い詰め、当時「近畿勢ばかり倒しやがって!!」と思っていたらPLの大逆転劇となった。
テレビでリアルに見ていたなぁ。 >>808
牛島香川の浪商が、今の大阪桐蔭レベルのバロメーターだろう 石井-嶋田を超えるバッテリーはその後出ていない。石井は常に嶋田を100%信用して投げていた。
同年の浪商牛島、香川は個々のレベルは高かったがバッテリーとしては並又は並以下 PLの西田も和歌山(途中でPL中へ)やし現在の智弁和歌山をみても中学生のレベルは
高い地元に残ってくれるようになれば箕島のリアル復活を期待できるのだが >>811
戦後の甲子園でもバッテリーそろって名選手というのは数えるほど。
そのなかで牛島一香川、石井一嶋田のバッテリーは甲子園史上に残る名バッテリーだが、やはり牛島一香川は個々の力は抜群だがバッテリーとして息があっていたかというと首をかしげざるを得ない。香川は守りより打の印象が強すぎる。 >>813
811だけど石井は常に嶋田を100%信用して投げていた。自分の記憶だと石井が嶋田のサインに首を横に振った記憶が無い。
しかし牛島は香川のサインに結構首を横に振っていた記憶がある。特に選抜決勝の箕島戦と夏の池田戦。箕島はバッテリーの力で打者を打ち取り浪商は牛島個人の力で打者を打ち取っていた印象がある。 >>799
その県岐阜商戦もツーアウトまでゼロだった。
夏の予選も決勝の延長10回に田辺に点取られるまで無失点だったはず。 牛島と香川は実は相性が悪いのでは?
石井&嶋田兄のコンビは相性抜群と思うが。 >>813
基本的に牛島と香川はあまり仲が良くなかった
みたいやね? のちに香川は牛島とは練習で口も聞かなかったと語っていたと思う。
捕手は女房役、投手を立てる立場。目立ちすぎてはいけない、「俺が俺が」という性格の者は捕手に向いていないと思う。
城島なんか、そういう捕手のイメージと全然違うので驚いた。 あのバッテリーには何も注文つけるところがなかった、嶋田の野球センスはすごかった、とのちに尾藤監督は語っている。
自分たちで試合をメークできた。 嶋田は捕球力、肩、リード、俊敏性、そして何よりも大事な投手からの信頼とキャッチャーに必要な条件を全て持っていた。
打っては1番打者。長距離打者ではなかったが確実なバッティング。そして俊足。ランナーとしてもセンス抜群だった。
1979年の新チームになった時、尾藤監督は1番上野山、3番嶋田が理想だったらしいがこの打順だと上野山も嶋田も今一だったので1番嶋田、3番上野山にしたらしい 嶋田レベルでは無くても
赤尾、児島、住吉、九鬼…と好投手の陰に
必ず好捕手が居た印象 >>821
赤尾は1977年の選抜優勝キャッチャーで主将、児島は1980年の2年生キャッチャーだったよね?住吉と九鬼はあまり印象になかったけど何年度だった? >>824
硯は西濃運輸で活躍して引退後はコーチとして野球部にも携わってました。 83夏は箕島は優勝候補の一角(筆頭は池田)だったが高知商に敗退。80年と83年に高知商と対戦したが、いずれも評判の高かった方が負けた。
80年は高知商は中西がいて選抜優勝。夏も優勝候補の筆頭、箕島は有力校だった しかし、箕島のバント攻撃に中西がリズムを崩し箕島が勝利した。
83年は箕島は吉井がいて優勝候補の一角、高知商は箕島より下と思われていたが吉井が打たれ打線も津野を攻略出来ず敗退した 捕手は豊作。
しかし83年は捕手が弱点だった。
尾藤監督も「ことしのチームは春夏連覇した79年に勝るとも劣らない。しかし捕手にあのときの嶋田のような選手がいれば」と語っていた。
思い出すのが大苦戦した吉田戦。13回表に簡単に相手のダブルスチールの作戦にひっかかって二塁に送球してしまい勝ち越しを許した場面。 >>828
その時の捕手は一塁が本来ポジションの勘佐でしたからね。
吉田もそこを突いてダブルスチールを仕掛けたと思います。 >>820
40年以上高校野球を見てきたが、嶋田は甲子園史上最高の捕手だと思う。
820で書かれたことに加え、あの星稜戦の12回裏二死、敗戦後の談話を考えていた尾藤監督、意気消沈するベンチの雰囲気を見てとり「監督、僕ホームランねらっていいでしょうか」と叫んだという。そして本当にホームランしたという精神力の強さ、度胸は大したもの。 >>830
当時、夏予選前に和歌山県内の全校・全部員を紹介する冊子が朝日新聞社が作成し、紀三井寺球場などで無料配布していました。
(数年後から有料になり、現在も冊子があるかどうか不明ですが)
昭和54年のその冊子の箕島・嶋田の紹介コメントは「センス抜群、攻守の要」と書かれていた。
多分、各校ともレギュラークラスは監督がコメントを考えていたと思いますよ。
見開きの1ページ目は石井毅が練習用ユニフォームで投球練習をしているアップ画像で、「甲子園9勝の右腕」のようなコメントが書かれていた記憶がある。 >>832
>各校ともレギュラークラスは監督がコメントを考えていたと思いますよ。
レギュラーしかコメントないのは向陽くらいだ。
どのチームも可能な限り(枠一杯に)掲載選手のコメントを書き込んでいたけど、
向陽の10番以降だけはスカスカの余白だらけだった。 >>835
向陽の格差野球は有名
なるべく同じにしたいけどそうもできないのが普通のチーム
同じに出来ることでも敢えて待遇差を付けるのが向陽
箕島は部員数多いし憧れだけで入部してきたヘタクソもいたけど
実力に応じてどの部員もちゃんと指導してた 箕島はベンチ外3年生の引退試合はしないけど、
強豪相手の練習試合のスタメンに補欠の3年生を
ちょくちょく起用して花を持たせていた。 いわゆるB戦でなく、A戦(相手も強くてガチで来る)のなかに、
Bの選手を1人か2人紛れ込ませる格好。
どちらがいいと思うかは人それぞれ。 その練習試合で控え選手が活躍してメンバー入りしたこともあったり? ここ数年は最後の夏の大会にベンチ入り出来ない3年生を対象にした「引退試合」なるものがあるんですね。
対戦高校も同じく引退試合として受け入れて、しかも父兄まで観戦に来られて。
我々昭和の時は引退試合という設定はなかったです。
練習試合で同じ高校とダブルヘッダーをする際には「2試合目はお互いに控え選手主体で」というのはありましたけど。 >>840
学校グラウンドではなくてきちんと球場を借りて、
スタンドではレギュラーが声援を送ってと。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています