平田改革の契機と根拠は、渡辺・小倉体制時代から内在化されていた。

かつて横高が全国の戦いで輝いていたのは、渡辺監督と小倉部長の分業化による2重指導によるものだった。
精神面の指導は渡辺監督。戦術・技術指導は小倉元部長と明確に役割分担していた。
渡辺監督は「野球教育者」に徹して、選手が悩んでいれば、すぐにメールを送り、選手に寄り添い対話重視の指導。
すなわち選手の自主性や個性を重んじる教育者の観点からの指導を行っていた。
他方では「野球職人」の小倉部長は、「勝利至上主義」に基づく「勝つための野球を教え込む」指導を徹底的に叩き込んでいた。
「日本一の厳しい練習」と称されるように、グランド内はしごきに近い猛烈な練習とどなり声が響きわたり渡っていた。
一見相反する指導が同時に、交わることで横高の強靭な強さが生み出されていたのである。
その当時の環境及び選手の意識にあった指導だったからこそ横高が全国でトップクラスのチームであり続けていた。

しかしこの強さの背後には矛盾も内在化されていた。渡辺監督は小倉部長の容赦ない指導に口出すことはせず黙認した。
お互いの領域には決して踏み込まない二重の指導体制になっていたのも事実。
強い時には問題にはならなかったが、横高が次第に全国で勝てなくなって問題として浮き彫りになった。
勝てなくなって初めて、小倉部長がつくった伝統的な横高野球を改革しなければならないことが突きつけられた。
ここに平田改革を決断する契機と根拠があったのだ。