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根本博陸軍中将の「義に報いるに義を以てす」 古沢襄
根本について特筆すべきは、1944年11月に就任した駐蒙軍司令官としての終戦時に
おける行動である。終戦日の8月15日を過ぎても、ソ連軍は満州や中国での侵攻を
止めず、暴虐の限りを尽くし、日本軍や在留邦人を苦しめていた。このまま手を
こまねいていては、同地域に滞在していた同胞4万人の命が危ない。
一方で日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら罪に問われる可能性もあった。
しかし、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式に
とらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば
済む事だと覚悟を決め、
根本は『理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。
これに対する責任は一切司令官が負う』と、日本軍守備隊に対して命令を下した。
途中幾度と停戦交渉を試みるもソ連軍は攻撃を止めず、部下将兵は必死にソ連軍の攻撃
を食い止めながら、すさまじい白兵戦をも乗り越え、
更に八路軍(中国共産党軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、
居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。
8月19日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の
反撃にソ連軍は戦意を喪失した為、日本軍は8月21日以降撤退を開始、
最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。
出迎えた駐蒙軍参謀長は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。
一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。
その後も引揚船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に必死に努力
した。