聖性や古典的なものの源泉がキリストであることを
認めなければ、もう、存在が許されないわけです。

ここは、まだ、「そんなこともあるのか」という程度でしょうが、
否定できないレベルで明らかになってくるわけですね。

西部邁なんぞは、それを早めに察して先に逃げたわけですね。

別に逃げても逃げ場はないのだけど、
「無駄な抵抗」みたいなものでしょう。


で、実際に西部邁はそうだったわけですけど、
「死んでもそんなことは認めない」みたいのは、
どうやら、それなりにいるみたいですね。

西部の大好きな妻は、晩年、カトリックうんぬんとやってたそうで、
それすら西部本人は全くないわけで、やっぱり、
女の方がマシな傾向はあるのでしょう。