1942年2月19日のダーウィン市への爆撃は、日本がオーストラリア本土に対して行った最初にして最大規模の攻撃だった。
2月19日に4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させた。
これらの188機の日本海軍艦載機はポート・ダーウィンに甚大な被害を与え、アメリカ海軍の「USS パーリー」を含む9隻の船舶が沈没した。

同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、
市街地と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。
これらの攻撃に使用された弾薬量は、
昨年12月に行われた真珠湾攻撃の総量を凌ぐと言われている。

避難した多くの民間人と共に、軍すらも街から逃亡してしまったため、
損害の確認に手間取ることとなったが、
最終的に確認できた連合国側の人的被害は251人が死亡、
300人から400人が負傷し、その大部分はイギリス軍やアメリカ軍などの、
オーストラリア人以外の連合国軍水兵たちだった。
ダーウィン市を防衛していたオーストラリアおよびアメリカ軍はわずかに日本機4機を撃破できただけで、
この一連の空襲は完全に成功した。