なにも言えない受動性の極みに
立ち続けること。
それが、いわば幹也の「行」なのだろう。
神的な領域を能動的につかみとることは
できない。それは荒耶宗蓮の道、
観念的倒錯のみちなのだから。

人は「神」の到来を待ち望むことしかできない。それしか可能でないとしても、人は
「根源の渦」を忘れてしまうわけにはいかない。
荒耶宗蓮と黒桐幹也の対立は、(中略)真の世界と真の私に向かう二つの態度、二つの道の対立だったのだ。