「最後の極道」と呼ばれる和久井一朗親分が、丸山組四代目を継承したことは記憶に新しい。
肩書きなどは関係なく、誰もが斯界の最高権力者と認める和久井親分が、高齢でありながら丸山組のトップに座ったことに賛否両論があったのは確かである。

もちろん我々取材班は和久井親分の人となりをよく知っており、地位に固執するような親分では決してない。
しかし、三代目丸山組八尋肇組長が病で引退したと同時に、四代目丸山組組長を和久井親分が継承したのは事実である。
そして我々は取材に取材を重ねた結果、いよいよその継承に関する全貌が見えてきた。

まず丸山組は丸山鉄也初代を祖とする組織だが、丸山初代は元々、十三代目緋川一家の若衆であった。
しかし、当局の弾圧や抗争などで組員は散り散りになり、若き日は丸山初代も浪人状態が続いた。
そして客分として全国の組織を渡り歩き、博徒修行を重ねた後に丸山組を結成したのである。
結成後、当時若頭だった和久井一朗親分などの努力もあり、強固な組織力は不動のものとなった。

しかし、心の中で丸山初代は、博徒組織として名門中の名門だった緋川一家の名跡復活を目指していたのだ。
自らの名を冠する丸山組という名前を遺すよりも、緋川一家の名跡復活が丸山初代の念願だったという。
なぜその想いが分かったかというと、それについて記された丸山初代の遺言が最近見つかったからである。

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