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モスクワ郊外で3月、「毎日子どもたちとトレーニングしている。まだプロレスもできるよ」と笑うザンギエフさん=栗田晃撮影

 今から三十年前、平成の幕開けとともに、日本のプロレスに参戦したソ連のレスラーたちがいた。
ペレストロイカ(改革)が後押ししたスポーツ交流。秘密のベールに覆われていた社会主義の大国からやってきた選手たちは、日本のファンを大いに沸かせた。

来日した選手の一人、ビクトル・ザンギエフさん(57)が当時の思い出を語った。 (モスクワ・栗田晃)

 待ち合わせの場所に一九〇センチ近い大男が立っていた。たくましい胸板は往年の面影を残すが、笑顔は柔和だ。
現在はモスクワ郊外の町で、アマチュアレスリングの指導に当たるザンギエフさんは
「日本の文化も食べ物も、何もかも大好きだった。また行ってみたいな」と懐かしんだ。
レスリング重量級でソ連王者に七度輝くほどの実力者だったザンギエフさん。
しかし、一九八四年のロサンゼルス五輪をソ連がボイコットし、大舞台には恵まれないまま、引退した。

 くすぶっていた思いを救ったのがプロレスだった。改革開放の流れの中、アントニオ猪木さん率いる新日本プロレスが八八年秋、未知なる選手発掘を目指し、ソ連国家体育スポーツ委員会と協力することで合意。
ザンギエフさんにも誘いの声がかかった。
猪木さんらが見守った二度の選抜試験には約三十人が参加。
ザンギエフさんやレスリング世界王者のサルマン・ハシミコフさんら三人が選ばれた。
ロープの反動を使った動きや受け身などを学び、八九年二月に初来日した。