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同じ商人の子でもさすが江戸っ子はヘタレ贅六のバカ息子たちとは違うぞ

日本の歩一も向う意気の強い東京の部隊である
現役であるから、主に東京下町の商家の子弟、近郊の農家の息子から成っていて、都会の蒼白きインテリ部隊ではない。
佐倉の57連隊のような粘りはないが、気性はむしろ荒いのである。
中公文庫『レイテ戦記(中)』142頁

戦は強くなくてはならぬ。弱兵では困るのであった。
大阪、京都出身の兵士たちで編成されたM兵団(祭)とY兵団(安)の両師団は、北ビルマの戦線で弱兵の見本のようにいわれていた。
田中稔(福岡県出身、元陸軍中尉)『死守命令』153頁

昭和14年7月、満洲ノモンハンで日ソの衝突が重大危機に陥り、逆上した関東軍が、北満国境駐屯の仙台・大阪両師団に応急動員下令、出動を命じたとき、
仙台第2師団は勇躍出発、ハイラルより徒歩行軍四日間で現地到着、先遣隊たる新発田16連隊(新潟)の如きは、直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して、
大阪4師団は出動下令されるや、急病人激増、何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し、怒った連隊長が医務室へ出向き、自ら軍医の診断に立会う仕末。
やっと出動部隊を編成したまではよいが、ハイラルから現地までの行軍では、2師団が四日間で強行進軍したのに大阪師団は一週間を要し、しかも落伍兵続出、
現地にやっと先遣隊が到着したら日ソ停戦協定成立。とたんに元気が出た浪花ッ子の面々、口口に戦闘に間に合わざりしを残念がり、落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。
帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった。
(新潮文庫『兵隊たちの陸軍史』279~281頁、『現代史研究』第7集より)

仙台兵 攻撃△ 防御◯
東京兵 攻撃◯ 防御△
名古屋兵 攻撃△ 防御△
京都兵 攻撃● 防御●
大阪兵 仮病→不戦敗(笑)
福岡兵 攻撃◯ 防御◯