0001お前名無しだろ (スッップ Sd62-ZNbT)2023/03/26(日) 09:09:02.35ID:9LCziUold
現役続行?
後先考えない人の心理
今が楽しければいい
何とかなる
後悔したくない
人生一度きり
めんどくさい
後先考えずに行動してしまう人の特徴
物事を深く考えられない
運がいい
計画を立てられない
人の話や意見を聞かない
目先の利益が優先
後先考えない人の長所
ポジティブ
行動力がある
決断力がある
気持ちの切り替えが早い
後先考えない人の短所
失敗が多い
失敗から学べない
我慢できない
無責任
後先考えない人の心理とは
1. 何とかなると思っている
2. 行動しなければ始まらないと考えている
3. ダメならやり直せばいいと思ってる
4. 後先を考えても仕方ないと思ってる
5. 後悔をしたくない
後先考えない人の特徴とは
1. 計画をたてるのが苦手
2. ポジティブに物事を考える
3. 人の話に耳を傾けない
4. 気持ちの切り替えが早い
5. その時の気持ちを大事にしている
6. 感情に流されやすい
後先考えない人の特徴
感情をコントロールできない
楽天的でプラス思考
運が良く大きな失敗を経験していない
自己中心的で周囲の人を考慮しない
せっかちで結論を急ぐ
決断力がある自分のことが好き
後先考えない人の特徴4個
1.目先の結果やメリットしか見ていない
2.思ったことをすぐに口にしてしまう
3.積極的な行動が目立つ
4.後悔したくない思いが強い
治るケガと治らないケガがある
治る人ばかり脚光を浴びるけど、
治らない人もいるのです
注意欠陥・多動性障害(ADHD)とは発達障害の一種の病気です。
特徴的な症状として、年齢に見合わない「不注意さ」、
好きなこと以外に対する集中力がなくほとんど関心や興味を示さない「多動性」、
思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう「衝動性」が見られます。
場に応じてコントロールすることが苦手な状態のため、様々な症状やミスや不注意などの症状が他の人と比べて目立ちやすくなります。
そのため、職場や家庭での日常生活に支障をきたすおそれがあります。
近年、ADHDが世間に知られるにつれ、不注意や多動・衝動など注目されやすいですが、
意外に好きな分野や特異な分野では集中力を維持できたり、ミスも少ないことがあります。
ADHDの多くの方は、独自の視点や豊かな発想を持つことでその才能を生かしたり、
衝動性も適切な方向で発揮することで行動力につながるため、社会で十分に活躍できます。
ADHDは大人になってから診断がつくことも多い疾患ですが、その多くは小児期から不注意や衝動、対人関係などで悩まれていた方が多く、
成長するにつれて自分なりの工夫や対策を考えてそれらを身に着け、心も成長します。
しかし、これまで経験したことない社会環境にさらされることによって、これまでの工夫や対策を行ったとしても、
不注意や衝動・対人関係の悩みが目立ったり、周りから指摘されやすくなったりなどして、受診し、そしてADHDと診断されることもあります。
不注意から生まれる人間関係の変化が心のバランスを崩し、うつ病や不眠などその他の症状を伴いやすくなるのも特徴です。
関節は一生に一個しかありませんので、
大事に使うということが大切になります。
暴力は快楽
危険はスリル
承認欲求
コーナーで両腕をロープに掛けて
首から下が麻痺したような相手を踏みつけ、
最期はコーナーで自分が同じような態勢で
十字架に磔になるような形で終わる
発言の全てがフラグ
矛盾の叫びが現実を際立たせる
最高のエンターテイナー
若手選手と会場に来ていた妹に付き添われて搬送される。
すぐに場内の撤収作業が始まった。
慕う若い選手たちが整然と仕事をしている。
その場にいる全員が自分のやれること、やるべきことに黙々と取り組んでいた。
「首は前からかなり悪かったんです。
時限爆弾とかロシアンルーレットみたいなものだったのかもしれない。
そう考えたら相手だって被害者です。加害者であるわけがない。
今年50歳の、首が悪い〇〇さんが団体を背負ってビッグマッチのメインをやらなきゃいけない。
そのことからして悲劇だったんだと思います」
大谷翔平選手は単なるスポーツの世界だけでなく、人間の可能性そのものを示していると思います。
投手としても、打者としても大リーグのトップレベルで活躍する彼の姿は、
何事も挑戦すれば可能性は無限に広がると教えてくれます。
大谷選手の野球に対する情熱、そしてそのスキルは、日本とアジアの誇りであり、世界中の人々に勇気と希望を与えています。
これまでの伝統的な枠組みを超えて、自身の可能性を追求する大谷選手のような革新者がいることで、
新しい道が切り開かれ、多くの人がその道を進む勇気を得ると思います。
今後もまだまだ大谷選手の活躍から目が離せません。
その続く道程が、新たな希望と可能性を世界にもたらしてくれることを心から願います。
34号おめでとう御座います。
ホームラン打つとかじゃなくて
顔面ウォッシュのムーヴすることが
熱さとか強さとか負けたくないとか頑張りなの
さっき、昨日発売の週刊プロレスを担当の先生の1人に見せたら、
「ん?厳密に言うと第二頸椎の複雑骨折ではないですよ。」との答えが返って来て、
「えっ!本当は何なんですか?」と聞き返すと「第二頸椎の粉砕骨折です。」との衝撃の答えが。
余計ヒドいやん!
首の粉砕骨折から今日で3年と1日。家族を抱えながらいきなり仕事と収入を失い、
痛みと不安で寝られなくなり、日に日に正常な判断力が失われていきました。
自分を責め、自ら命を絶とうと思ったことは1度や2度ではありません。
あれから3年と1日。今日、俺は全日本の最高峰、三冠に挑戦します。
そうしたら「お前も大変だしな…。でも大丈夫だよ。結婚式は俺が出してやるし、家も俺がちゃんとしてやるから」って。
そこに「自分で稼いだお金で結婚式をしたいし、自分で稼いだお金で家に住みたいんです。
だから給料を上げてくれませんか?」と返したら月給が1万円上がって12万円になりました。
ま、1割上がったんだからいいか。午前中に青果市場でバイトしようかなと思案していたら、後輩が来て
「芦原先生から『石井が金のことを言い出した。危険だから、これからは関西地区はお前たちでやっていけ』って」といい出したんです。
「これはダメだな」と。一生懸命やっていたのに、信頼を得られなかった失望というか。
95年4月、先生が亡くなって線香をあげに行ったけど、門前で止められました。
「故人の遺言で『石井だけは、くぐらせちゃいけない』と言われている」と。
そこまで行けば勲章ですよ。自分のやったことを正当化するには誰かを悪者にするしかない。
それでやり玉になったけど「今はそれでいいな」と思っているんです。
だって、男は買った恨みで大きくなるから。師匠の“ケンカ十段”芦原英幸に恨まれるってなかなかでしょ?
「結婚当初は、連れ子と実子を分け隔てなく、熱心に子育てしてくれました。
ただ、徐々に『変だな』と思うことが出てきたんです。
夫は潔癖症なところがあり、少しでも部屋が乱れていると、怒鳴るようになったんです。
だから、夫が帰宅する前に家の物をすべて子供とチェックします。
機嫌が悪いと、子供にも怒声を上げるようになりました」
「何度かありましたよ。蹴られたり、殴られたり……。
向こうは元プロレスラーですから、当然反撃なんてできません。
でも、警察を呼んだり病院に行くと、夫が悪者になってしまうので黙っていました。
金銭面でも喧嘩が絶えず、近所のスロット店に現金を届けに行かされるのは、日常茶飯事でした。
昨年からは財布を別々にしたのですが、生活費は月6万円しか入れてくれませんでしたね」
さらに、逆上すると「死んでやる」と自殺をほのめかすこともあったという。
「実際、家を飛び出して富士の樹海に行き、スマホで位置情報を送ってきたこともありました。
夫はメンタルが不安定なんです。
私が子供のことで精一杯になっていると『もっと俺にかまえ』とか『子供を残してお前が死ね』などと暴言を吐かれます」
それでも美奈子は「真剣に向き合ってくれている証拠だ」と自分に言い聞かせ、夫婦生活を続けてきた。
佐々木氏も「悪いところは直す」と何度も約束してきたという。
だが、連れ子差別発言で、ついに我慢の限界に達した。
翌日本誌は、仕事を終え無人になった自宅に帰ってきた佐々木氏を直撃した。
――美奈子さんと離婚する?
「どこから聞いたの?今は何も話せません」
――佐々木氏によるDVがあったと聞きました。
「ない。ひどい、ひどいよ」
佐々木氏は、DVを否定すると、記者を睨みつけ、家の中へと消えていった――。
複数のプロレスや総合格闘技の団体で、リングドクターを務める「格闘メディカル協会」の金村良治医師が語る。
「動画を見た限り、杉浦選手の投げっぱなしジャーマンは、プロレスにおける通常のよくあるムーブですし、
とりわけ危険な技というふうには感じませんでした」
金村医師は過去に3度、選手が頸椎にダメージを負い、一時的に首から下が麻痺状態に陥った試合に立ち会ったという。
「幸い3選手ともに比較的軽量だったため、大事には至りませんでした。
体重が80kgくらいまでだと、頭や首を打ちつけても大事に至らないことが多いのです。
ただ、これが高山善廣選手(2017年の試合中の事故で頸髄完全損傷)のように130kg近い体重となると、打ちつけた衝撃に自重が加わります。
大谷選手も公称で97kgあり、高山選手と同様、非常に大きな負荷がかかったと考えられますね」
第3、第4頸椎あたりを損傷したという大谷に対し、高山はより重度の完全損傷。現在も、リハビリ生活が続く。
2009年、試合中の事故で亡くなった三沢光晴さん(享年46。頸髄離断)のケースは、積年のダメージの蓄積が大きく影響したともいわれている。
「三沢さんはおそらく、試合前から痺れがあり、手などにあまり感覚がない状態で試合をしていたのだと思います。
実際にそういう選手は多く、『手を思い切り握ってください』と言っても、軽くしか握れない選手も多いんです。
今回の事故のきっかけになった技自体は、珍しいものではありません。
大谷選手も選手生活が長く、もともと頸椎にかなりのダメージが蓄積していたと思われます」
プロレスラーはケガと背中合わせの日々を送っている。
ハヤブサの事故から約8年後、プロレス団体NOAHの社長兼花形レスラー三沢光晴が、
試合中、相手レスラーからくらったバックドロップが原因で心肺停止状態に陥り、そのまま帰らぬ人となった。
死因は「頸髄離断」だった。
関係者によると、試合前から三沢は「頭がふらつく」とつぶやくなど体調不良を訴えていたという。
社長レスラーゆえ、興行に穴を開けることは許されない。メーンイベンターともなると大技をかけたり、かけられたりの繰り返しだ。
好勝負か否かは、最終的にはファンに委ねられる。
それこそボロボロの肉体でリングに立ち続けていたのではないか。
遠征先では夜遅くまで関係者と飲み歩く姿が目撃された。
これも満身創痍の体が発する痛みを、アルコールで紛らわすためだったというのだから痛々しい。
三沢の死後、あるベテランレスラーは重々しい口調でこう言った。
「レスラーはたとえ体調が悪くても、まわりには悟られないようにしないといけない。
お客さんはレスラーにスーパーマンのイメージを期待している。
病人のような顔をしたレスラーの試合なんて誰も見たくないでしょう。
でも実際は皆、体の至る所に故障を抱え、歩くのもやっとという人間もいるんです。
僕たちだって、明日はどうなるか分からない……」
スポーツ庁の所管官庁である文科省の現大臣は元プロレスラーの馳浩である。
興行優先の論理に歯止めをかけ、リング上での事故を未然に防ぐには、どうすべきか。
そろそろ知恵を絞る時期にきている。
1997年にキングダムが崩壊後、僕は戦場を全日本プロレスに移すことを決め、
馬場さんとホテルオークラでお会いし、全日本マットに上がることが決まった。
そこでトップである三沢光晴選手に挨拶をするようにと馬場さんから言われ、横浜市青葉区にある全日本プロレスの道場へと出向いたのだった。
「これからお世話になります。宜しくお願いします」
「こちらこそヨロシク」
簡単な挨拶を交わし握手をしようとしたその瞬間、「あれ?」と思った。
三沢さんの肘の動きが何か変なのである。
後でわかったのだが、これは試合などで頻繁に受身を取ることによる後遺症であるらしい。
そう言えば馬場さんや永源さんなど、往年の選手達はみな同じような感じだった。
さらに驚いたのが、よほど悪いのか、首が斜めに傾いているのである。
いつもTV放送で激しい試合を見ているだけに、その痛々しい姿に大きなギャップを感じた。
そして、道場の隣にある合宿所へ移動しようと歩き出したその動きが、まるでロボットのようにぎこちないのだ。
これは三沢さんだけではなく一緒にいた小橋健太(建太)選手も同様であった。
「えっ、全日本に入ったらこんなになっちゃうの?」
何か来てはいけないところに来てしまったような、なんとも言えない気持ちになったのが、今でも強く印象に残っている。
当時の全日本プロレスは四天王と呼ばれる三沢選手、小橋選手、川田利明選手、田上明選手が、至宝「三冠ベルト」を巡り、
とてつもなく激しいプロレスを展開していた。
ライバル団体である新日本プロレスに比べ話題が乏しい全日本プロレスは、試合のクオリティだけが命綱だったのだ。
それにトップ選手が4人だけというマンネリもあり、自ずと試合内容を過激にするしかなかったのだろう。
体がここまでボロボロになってしまうのも頷ける。
僕は全日本プロレスに正式入団してから、三沢選手、小川良成選手、丸藤正道選手で構成される「アンタッチャブル」というユニットに入った。
それから、三沢さんと移動バスから一緒に行動を伴にするようになった。
試合でも当然セコンドについた。
近くで見る三沢さんの試合は、メインに相応しい激しいものが多かった。
頭から落とすような危険度の高い技も、その天才的な受身の技術で大怪我を回避していた。
しかし首へのダメージは相当なものであったと思う。
それは試合後の舞台裏が証明している。三冠戦の行なわれた武道館の控え室では、試合で詰まった首を抜く荒治療が待っているのである。
なんと120キロはあろうかという巨漢の整体師が、三沢さんの首にタオルを巻きつけ、渾身の力で首を引っ張るのだ。
三沢さんの体が動かないように、僕や丸藤選手が押さえ役となり、体の上に乗ったりした。
この作業は、もはや三冠戦後の恒例行事となっていた。
ここまで体を張り、壮絶な試合を繰り返していたのである。
ところが、レスラーとしての絶頂を極めて行った1998年9月、IWGPヘビー級のチャンピオンベルトを手にしたその後、最大の不運が襲いかかりました。
「シリーズ開幕戦で最初の受け身を取ったら、今まで経験したことのないしびれが全身を襲いました。
恐怖を押し殺して、そのまま試合を継続したら、シリーズ前半の試合終了後、タイツを脱ぐ際にダーッと小便を漏らしてしまったのです。四肢麻痺でした」
すぐに精密検査を受けると、「本来であれば、すでに下半身不随の重症だ」と告げられます。
「即、手術が必要といわれました。手術すれば、試合を続けられますか、とたずねると、そういう次元の問題ではないと」
手術することは、即、現役引退を意味していました。
何としても、それは避けたかった蝶野さんは、アメリカ、ドイツと頸椎治療の権威を訪ね歩きます。
「結果はどこも同じ。当時の医療では、骨移植をして、そのまま即引退との診断でした」
そんな時、知人から紹介されて藁をもつかむ思いで行ったのが、岐阜県にある若手の整体師による治療院です。
「私は若い頃、整体によってけがを悪化させてしまった苦い経験があるので整体は避けていました。
ですが、その先生は数時間かけてゆっくりと優しく背骨を調整する治療方法で、1か月もすると驚いたことにしびれが消えてきたのです」
その後、余暇は、すべて治療にあてるというストイックな生活を送り、頸椎の大けがから復活して、約10年間、現役を続行することができました。
習慣性脱臼になってしまった場合、ほとんどは手術によって関節の通り道を塞がなくてはならなくなってしまう。
たかみちのく、ドラゴンキッド、金本浩二、橋本真也、田中将人など多くのレスラーがこの手術を受けている。
飯伏選手も早々に復帰し手術に至った。
練習生だった頃の後藤洋央紀選手は、高校生の頃の脱臼から習慣性脱臼に陥ってしまったので、
一度手術して完治させてから再入門させた。
もちろん手術に至らずに済んでいる選手も多くいるのだが。
また脱臼が整復されず放置される場合もある。
橋本さんのときは、現場ですぐに整復されず、脱臼状態のままかなりの時間が経過したと聞く。
橋本さんの性格からして、その後の習慣性脱臼、手術という流れを避けられたかどうかは分らないが、
僕としては現場にいなかったのが悔やまれてならない。
「何か食べたり飲んだりしてゴックンする時(嚥下)ゲホゲホならないように、
ノドのところで気道にフタのようなことをする仕組みが人間の身体にはあるそうです。
高山の場合、首をグキッとやって脊髄損傷という大ケガをしました。
そのためほぼ首から下が麻痺、動かせないという四肢麻痺です。
手足が動かないのは見ていれば分かるのですが、身体の中も麻痺してたんですねー」と状況を説明。
「そのノドのフタのような機能も完全にフタをしてくれず、スキマがあるらしい」として、
一時は何も食べることができず、胃ろうにしていた時期もあるという。
リハビリの甲斐あって「やっと普通の食事ができるようになった」矢先に、
「今回、手術を受けたことで刺激されたのかたんも出まくり、その気道のスキマから痰なのか食事なのか、
何かしら入ってしまって誤嚥性肺炎になりました」と説明。
「普通だったらむせてゴホゴホする反応も麻痺してるらしく弱いのですよ。
なので本人も気がつかないうちにスルーっと入ってしまったんだと私は感じています」と推測した。
今日はいろいろ、大谷さんから人生訓を学ばせてもらったから、オレも教えちゃおう。
結婚生活には「上り坂」も「下り坂」もあるんだけど、もうひとつ「まさか」ってのがあって。
オレはそこを猛ダッシュで下っちゃったんだけど、そうすると人生の底辺が見えるんで気をつけてください!
そのアメリカ、特にWWEでは、頭部や首へのダメージに対して慎重になっている。
頭部へのイス攻撃は高額罰金の対象となり、脳震盪と診断されたレスラーは完治するまでリングに上がることはできない。
元王者のダニエル・ブライアンは脳震盪で長期欠場し、完治の見込みがないため引退することになった。
頭部を狙った技も禁止されている。
例えば、相手を逆さまに抱え、脳天からマットに叩きつけるツームストーン・パイルドライバーという技がある。
ジ・アンダーテイカーの代名詞だったが、危険すぎるため基本的には禁じ手となっている。
ビッグマッチでは使用することもあるが、しっかり受け身を取れる相手と戦う時のみに限定され、
しかも相手の頭部が直接、マットに接地しないよう工夫している。
また、アンダーテイカーはツームストーンに替わる新たなフィニッシュムーブとして「ラストライド」を編み出した。
これは相手を頭上に抱え上げてから叩きつける超高角度のパワーボムで、見た目は非常に派手なのだが、
パワーボムは相手を背中から落とす技なので、受け身さえ取れればそれほど大きな危険はない。
三沢が命を落としたバックドロップも、受ける側の頭部に全体重が乗ってしまう危険な技だが、
日本では“殺人バックドロップ”などと称してもてはやされている。
三沢以外にも、90年6月には前文部科学大臣の馳浩氏がバックドロップを食らい、試合後に昏倒して一時心肺停止状態に陥っている。
日本では相手の腰に両手を回し、ブリッジしながら投げるため、かけられるほうは後頭部から落下することになるが、
WWEではかける側が左手で相手の左足をひざ裏から抱えて持ち上げ、ブリッジせずに自分も倒れながら相手を背中から叩きつけるスタイルが主流だ。
この投げ方だと相手を高く抱え上げられるうえ、背中から落とすために受け身が取りやすく、ブリッジしないので腰への負担も少なくて済む。
それでいてマットに叩きつけた時の衝撃音が大きいので、破壊力の高い技に見える。
さらに言ってしまうと、受ける側が受け身を取った後、後頭部を抱える仕草を見せれば、頭部にダメージを受けたように見せることもできるのだ。
呼吸困難になりやすかった大谷少年は夜中にも発作が起きた時のため寝室にブザーがつき、
母の枕元につながっていた。
膝枕をされるとおさまったという。
レスリングを始めるまで病で苦しんでいた大谷がプロレスラーになることに大反対。
親子の縁を切ると言ったが、新日本プロレス入団の際、親のハンコが必要になると、
ためらう父に「押しなさい」と言い切った。
「"事件"が起こったのはそれから数年後。
バカ正直な母ちゃんは人にだまされて、多額の借金をした。
それでも迷惑をかけまいと、借りている金額を言わないんだ。
『何で正直に言ってくれないんだ?』と問い詰めても黙っている。
僕も頭に血が上り『いいかげんにしろ!疫病神!』と怒鳴ってしまった。
結果的にこれが最後の言葉になってしまった…。」
「2003年6月14日の朝。オヤジに電話で『母さんが事故で死んだ』と伝えられた。
母ちゃんが乗っていた軽自動車が大型トラックに追突されたと。」
この日の福島市国体記念体育館大会。
大谷は星川尚弘とのシングル戦で16分35秒、スパイラル・ボムからのエビ固めで勝利。
顔面ウオッシュにいく場面の写真には「リング上では普段通り、会場を大いに沸かせていた大谷。
ファンを第一に考えている」の説明が…。
試合後のコメント時、堪えきれなかった大谷は涙を流して語った。
写真を見たら、真っ赤な目から涙を…。
「リング上にプライベートは持ち込まねえよ、プロレスラーはよ。
プロレスこんな素敵なもんだって、素晴らしいもんだって誰が教えるんだ、俺らじゃねえのか!
好きで好きでしょうがねえ俺がプロレスの面白さを、教えてやるからよ。
記念すべきプロレスの教科書100ページ、しっかり頭に叩き込んどけ。
レスラーが楽しまなくて誰がプロレス好きになるっていうんだ。そうだろ!
いいか、こういう試合以外のこと言うのは失礼だけど、ムチャクチャ辛えけど、辛くなんかねえよ、ちっとも!チクショー。
おう、やりがい出てきた。やりがいが出てきたぞ。
しっかりと俺の大事な人、お天道様から見守っとるんだぞ。
俺はまだまだプロレス界を引っ掻き回す。頂点に立ってやるから。
プロレスっていいな。プロレスっていいな、凄いな。いいな。プロレスっていいな。
そんな大好きなプロレスをもっとでかくしたいと思います。
何かありますか。暗いなあ、みんな。よろしくお願いします。ありがとうございました!」
本人が長州さんが嫌いだから辞めると記者に言ったそうですよ。
元週刊ゴングの編集長だった金沢さんが自分の著書に書いています。
ジュニアヘビーに対する態度や待遇が酷過ぎて、ヘビー級の事しか考えていないのが嫌だったみたいです。
今でも大谷選手は長州さんが嫌いみたいですよ。
だが、その後の人生は波乱万丈。
09年6月に社長兼エースの三沢が試合中のアクシデントで急逝後、社長を引き継いで二足の草鞋を履くことに。
そして現役引退から3年後の16年11月、経営難からエストビー社(その後、ノア・グローバルエンターテインメントに社名変更)に事業譲渡し、
所属選手と従業員全員が同社に移籍。田上はノアの負債4億円をひとりで背負ったのである。
財産すべてを投げ打って返済に回し、55歳にして破産。家族との生活を守るために宅配業者の仕分けのアルバイトもやったが、
ぼやき節が名物の田上が愚痴をこぼすことは一切なかった。
「愚痴ってもカッコ悪いだけだよ。愚痴言って、どうにかなるならいいけど、ならないからね。
どうやって乗り越えたか? どうにかしないと生きていけないからしょうがないから頑張っただけ」と淡々と語る田上。
余計なことは口にせず、黙々と、さりげなく一生懸命に逆風に立ち向かう姿は、ライバルだった三沢に通じるものがある。
田上の試練はこれだけではなかった。
後輩レスラーでステーキハウス『ミスター・デンジャー』を営む松永光弘に肉の下処理の仕方を教わって、
ステーキ居酒屋『チャンプ』を茨城県つくば市で始めた矢先の18年3月、胃がんが見つかって胃の全摘手術を余儀なくされたのだ。
「胃潰瘍で胃に穴が開いていて、そこから大量出血したらしいんだよ。
病院に運ばれた時には出血性ショック死の可能性もあるってことで、家族全員が呼ばれちゃってさ。
まあ、胃を取って1か月ぐらいで酒は飲むようになったけどね(笑)。
お医者さんには、たしなむ程度ならって言われているけど、ついつい。
胃がないから急に酒が回って酔っ払っちゃうんだよ(笑)」と、大病についてもサラッと笑い話にしてしまう。
星川選手 デビュー20周年セレモニーを紹介します。
スクリーンに過去の試合映像と重ねるように映し出された言葉
皆さん、お久しぶりです。星川尚浩です。
みちのくプロレスでデビューして、大阪プロレスに行き、「天王山トーナメント」で優勝してから、
そのあとにZERO-ONEという今は亡き橋本真也さんが社長の団体に入りました。
プロレスで大けがをしたのは、29才で8年前の事でした。
札幌メディアパークスピカでの金網マッチ。
札幌の病院で昏睡状態で3時間に及ぶ緊急開頭手術をうけ急性硬膜下血腫と診断されました。
1か月間意識がありませんでした!
そして札幌の病院で入院して、沢山のリハビリ病院へ通いました。
口笛が吹けなくなりました。
あと、上を向いてのガラガラうがいが出来なくなりました。
そして何よりも言葉が普段は鼻を摘ままないと上手く話が出来なくなってしまったことです。
札幌の病院でまだ流動食だった時に差し入れにイチゴを持ってきてくれて、そのイチゴを初めて食べて
「それではもう流動食でなくていい」と言われ、だんだんと普通の食事にしてもらいました。
薬は昔は3食後に飲んでいました。
今は全く飲んでいません!!
これかやってみたいことは、足柄療護園にプロレスのZERO1を呼びたい!!
そして、ZERO1に復活してまたプロレスラーになりたい!!
今日でプロレスラーデビュー20周年です!!
片山明 1992
上田馬之助 1996
ハヤブサ 2001
星川尚浩 2004
柳田哲志 2008
三沢光晴 2009
谷垣禎一 2016
曙太郎 2017
高山善廣 2017
滝川英治 2017
1996年3月、IWAジャパン仙台大会終了後、上田は営業部員の運転する宣伝カーの助手席に乗って東京に向かう途中、
高速道路の路肩に停車中に大手運送会社の10トントラックに追突される事故に遭ってしまう。
その事故で運転手は頭蓋骨を骨折して死亡。
上田もフロントガラスを突き破り20メートル近く突き飛ばされ、アスファルトに叩き付けられた。
幸い一命は取りとめたものの、この事故で上田は勁髄損傷の重傷を負い、胸から下は不随となってしまったのだ。
そこからが地獄の日々だった。
上田は胸下不随ながら両手の指先に少しだけ感覚が残っており、健常者には感じられないほんの少しの風が吹いただけで全身に激痛が走った。
食事や排泄も満足にできず、ひたすら激痛に耐えるだけの生活。
我慢強さには定評がある上田が何度も自殺を考えたというのだから、想像を絶する激痛なのだろう。
しかし、動かない身体は自殺することすら許されなかった。
それでも上田は、事故から約15年間も生き続けた。
それは恵美子夫人の昼夜も問わぬ懸命の介護と、上田の不屈の闘志によるリハビリのかいあってのことだった。
25歳の前田日明は、新日本プロレスから移籍する前、新間寿に
「猪木もタイガーマスクもUWFに移ってくる。
フジテレビがゴールデンタイムに生中継してくれる」
といわれ、移籍金を受け取ってUWFとの契約書にサインした。
しかし猪木も佐山も来ず、フジテレビの話もなくなり、
「新間さんに騙された」
「猪木さんに捨てられた」
と思っていた。
そして旗揚げ戦の日、新間が会場に来なかったので
「逃げた」
と思った。
しかしピンチはチャンス。
いきなり団体のエース格となれたのも事実。
いずれにせよ前田日明はUWFにすべてを賭けるしかなかった。
旗揚げ戦こそ満員だったが、その後の第2戦、熊谷、第3戦、下関、第4戦、岐阜はガラガラ。
オープニングシリーズ最終戦となる第5戦は東京の蔵前国技館で行われ、客席は半分ほど埋まった。
メインイベントは、前田日明 vs アントニオ猪木の命で1試合限定でUWFに参戦した藤原喜明。
試合が始まると、2人はひたすら地味な寝技。
藤原喜明は体格でかなり劣るが、新日本プロレス時代から数年間、ほぼ毎日、前田と寝技のスパーリングをしていたが1度も負けたことはなく、
この試合でも面白いように関節技を極めては放し、極めては放しを繰り返した。
プロレスファンからみれば、
「新日本を飛び出した裏切り者、前田を藤原が成敗する」
という構図になり、
「藤原さん、前田にプロレスを教えてやってください」
「折れ折れ折れ折っちまえ」
「首絞めろ」
「モノマネしかできねぇのかよ前田」
などと藤原への声援と前田に対する罵詈雑言も飛んだ。
寝技が8分続いた後、前田がフライングニールキックを放ったり、場外乱闘で流血した藤原を拳で攻撃したり、通常のプロレスに移行。
最後は10分37秒、両者リングアウトで引き分け。
しかし収まりのつかない観客の怒号に異例の10分間延長。
前田のジャーマンスープレックスに藤原が右足をフックしてディフェンスし、倒れた 2人は立ち上がれない。
レフリーのタイガー服部がカウントを数え始め、2分34秒、両者カウントアウト(ダブルノックダウン)で引き分け。
試合後、前田日明は
「今日の試合は今までの試合とは全然違うんだよ
お前たちにはわからないのか!」
とマイクで訴えたが、多くの観客は席を立ち、最後まで聞いていた者はほとんどいなかった。
数日後、新間寿はスタッフに
「このまま経営を続けても借金が増え続けるだけだ。
傷が浅いうちに新日本プロレスと提携しよう」
といい、作成した同意書をみせた。
みんな賛成してくれると思っていたが予想は外れ、
「どうしてですか?」
「なんでやめるんですか?」
と大反対を受けた。
逆に何1つ約束を果たさず、旗揚げ戦の会場に来なかったことを激しく責められた。
金も、スポンサーも、人も、新間もいない中、スタッフたちは、昼は宣伝カーで走り、夜はポスターを貼って、会場の準備をしていた。
それに新間によって新日本プロレスから引き抜かれたスタッフにしてみれば、たった5回、UWFで興行をした後、どのツラを下げて戻ればいいのか。
スタッフたちは血判状をつくり、社長の浦田昇の家を訪問。
浦田昇は、戦わずして逃げることをよしとしないスタッフの熱い思いは金では買えないと思った。
一方で新日本プロレスから資金をもらいながらやっていこうという新間の考えも理解できる。
板ばさみになって悩む浦田に、スタッフはさらに佐山サトルにも接触し
「新間がUWFを離れるなら可能性は十分ある」
と報告。
最終的に浦田は新間を辞めさせ、数千万円の借金を負って、自身は1銭も受け取らないままUWFを牽引する覚悟を決めた。
最初は資金が3000万円あったけど、半年で消えました。
リング代や選手の給料、道場の家賃と、お金がかかる。
一緒に立ち上げた人たちもいなくなっていき、そこから私個人で6000万円の借金。
山形の実家も担保に入れました。
男子レスラーで団体をつくる人は結構いますけど、自分の実家を担保にしたレスラーは私だけだと思います。
実家の家族は冷や冷やしてましたよ。
今振り返ると私、3回死のうと思いました。
その時にある知人から「6000万円で死のうなんてバカ言うな、俺なんて借金3億円だぞ」と聞かされ、
私は「上には上がいるんだな」と、死ぬのを思い直して。
当時の社長が半分を肩代わりしてくれて、私は20年かけて3000万円をコツコツ返し続け、現在残り1000万円を切りました!
その間、飲食店を開いて後輩にも働いてもらい、お金を渡していましたよ。
次の団体設立を経て今まで、支援やファンの方の力でここまでやれました。
借金を返すまでレスラーはやめられない。
「資金繰りが怪しくなり、死のうと思ったこともあったんです。
15年ほど前、LLPW(レディースレジェンドプロレスリング)の社長時代ですけどね」。
「3カ月で潰れるよ、なんて言われながらの船出でした。
逆風、逆境そのものですね」
「90年代後半、団体対抗戦が一段落し、選手の引き抜きなどもあり、観客が落ち込んだんです。
地方興行のギャラの未払いも重なり、自転車操業になりました」
綱渡りの経営に悩む日々。
「最悪の場合を考えて、LLPWと私の実家が半々で受け取れるように生命保険にも加入しました。
精神的にも追いつめられていたんです」
思いとどまれたのは、2002年5月、FMWの元社長、荒井昌一氏の自殺だった。
同年2月、FMWは2度の不渡りを出し倒産。荒井氏は借金を苦に自ら命を絶った。
「周囲の悲しむ姿を目の当たりにして気付かされたんです。
どんなに追い込まれても死を選んじゃいけないって」
お楽しみはこれからだ!
NO FEAR!
何度でも立ち上がれ!
終盤から坂道を転がり落ちるようにすべてを失っていく。
求めているものとは反対のものしか得られないのではないかとさえ思える矛盾の苦しみ。
追い求めてきた理想と、そうならない現実、なぜそうなのかという人間の心の叫び。
『何かを得ることは、誰かから何かを奪うこと』という示唆とも読める。
『命を張っているとは、死ぬために闘う』という示唆とも読める。
格闘技とは、勝負事とは、そういうものなのだ。
相手もそれを承知でリングに上がっている。
夢見る若者たちの多くは、このような現実的な結果で終わるのだ。
「プロレスは反骨」
「プロレスは全て逆である」
「人は頑なで、なぜ?なぜ?と聞きながら、最後は自分の思い通りにやってしまう」
プロレスラーの生きざまを通して、人は頑固で、正しい道(神の意志?)を教えられながらも逆の道を行く。
その苦悶する姿を神はもっと苦しんで見ている、というのがプロレスの神様の姿であり、語りかけではないのだろうか。
プロレスとプロレスラーの世界は魔法に満ちている。
そして夢から覚めるように魔法から覚める。
その時が来る。
プロレスは「間」で決まる。これはもう完全にそう。
快感にはみんな暴力的なものが内在してんだよ。
裏切りならネズミ男ね。ゲゲゲの鬼太郎のネズミ男。あいつ必ず裏切るぞっていう期待を絶対裏切らない。
水戸黄門と同じだよね。そろそろ出すぞって言ってると必ず出てくるでしょ、印籠が。
そういえばプロレスで当たるものって絶対裏切らない。
世間を楽しませているから自分も楽しむべきだって言うんじゃなくて、楽しませる域にいることが根本であって、
一番凄いことなんだ。
それ自体が贅沢であってだな、それに加えて自分が贅沢するってのは余分なことなの。
プロレスは日本人をかなりダメにしたと思うね。
でも大衆をダメにするものしか、たぶん儲からないんだ。
感情というのは抑えるのが当然なのに、解放するのがいいって風潮になってしまった。
素直だとか、子供のような心ってのが誉め言葉になってるしね。
でもそれは、単にガキってことだろう。子供らしいなんて、本当はよくないことなんだよ。
一生懸命やったことをみんなに分からせるようなわざとらしい行為は良くない。
アイツ遊んでんなという風に見えるけど、よく見たら努力しているというようなそういうレスラーになって欲しい。
レスラーの実力が人気に追いついてきて『いい芸してるね』『技術があるね』なんて批評されはじめた頃には、
もうブームは終わりに向かってるってことなんだよな。
努力すれば、きっとなんとかなるって、そんなわけないだろう。
一所懸命やればなんとかなるほど世の中甘くないってことは、親とか周囲の大人が一番知ってんじゃねえか。
必死にやってもうまくいくとは限らなくて、どうにもならないこともある、
それが普通で当たり前だってことの方を教えるのがプロレスだろう。
「団員たちが音楽学校で教わってきた歌や踊りはすべて、集客力を上げるための手段とみなされます。
なので、契約書で課せられた以上の枚数のチケットやDVDを売りさばく団員であれば、より良い役に抜擢されます。
一方で、集客力がない団員は、セリフもない端役ばかりになって最終的には契約も更新されず卒業扱いになります」
元宝塚関係者によると、年間で40人の団員を辞めさせることが運営側の責務といった悪習が蔓延しているという。
「厳しい年功序列や高額な自腹営業など、団員が自ら辞めざるを得なくなる不条理な仕組みが宝塚には多くあります。
厳しい競争を勝ち抜いた逸材だけがトップスターとして利益をもたらすという考え方が宝塚歌劇団なのでしょうが、
団員の精神面、金銭面の負担が大きいのも事実。
劇団内でのいじめ問題も、このような環境が一端を担っているのかもしれません」
団員と交わす契約書には自腹購入に関する項目があるのか。
劇団に問い合わせると、「そのような事実はございません」と回答した。
きらびやかなショーの裏側に巣くう闇。
文豪ヨハン・ゲーテの言葉どおり、光の多いところには、強い影があるようだ。
過酷なリハビリ・介護生活の中で生まれた共通の夢。
ふたりはそれを糧に日々を懸命にすごすようになった。
しかし、そんなふたりの生活は、突然終わりを迎えてしまう。
「その日は朝から元気がなかったんですよ。
朝食でパンを一切れちぎって食べさせようとしたら『パンはいいよ』って言うんです。
でも、『朝から体力つけんと一日中ダメになるよ。それじゃ、バナナ食べよう』って、
バナナを剥いて、ほんのひとかけらを食べさせたんですけど、そしたら『喉までいかない』って。
食べ物がうまく喉を通らなかったみたいなんですね。
だから『噛むだけ噛んで』って言って、野菜ジュースで流し込むようにして飲ませたんですね。
そのあと口が半開きになって、『あら、どうかしたの?』って言ったら、返事も返って来ん。
『あれ、おかしいな』って思ってたら、9時15分ぐらいに訪問看護の人が来たから、
『口が半開きになってから返事が返ってこん』って言って。
なんか様子がおかしいってことで救急車を呼んで、9時30分くらいに救急車が来たんですね。
でも、そのとき救急車には訪問看護の人が2人、救急隊員も2人乗ったんで、私は乗れなくて、あとから車でついて行ったんです。
で、あの人が病室に入るのと私が着いたのと一緒になって。
病院の先生が『MRIにかけていいですか?』って言うから『どうぞ』って言って。
そのあと心電図みたいなのがありまして、最初は動いてましたけど、しばらくしたらず〜っとまっすぐになったんですよ。
そして『ただいま10時7分、お亡くなりになりました』って……」
2011年12月21日、上田馬之助(本名・上田裕司)死去。享年71。
死因は誤嚥による窒息だった。
「あのときがやっぱり一番辛かった。
座り込んで、立てんようになってしまって。
あとから私、自分を責めたんです。
私がもうちょっと早く気づいてたら生きとったものだと思うもんだから。
『悪かったね、ごめんね、ごめんね』言うて、ほっぺたを叩いて『起きて、起きて』って言うたけど、
なんの返事も返ってこんでね……。
はっきり言って、貧乏くじみたいなものだよね。すでにノアの経営状態がよくなかったのは、どう見ても明らかだったからさ。
でも誰かがやらないと、若い奴らが路頭に迷うことになるわけじゃない。
一応、嫁にも相談したら『好きなことをやれば?』ということになった。
でも、そこからは本当に苦しいだけの7年間だったよ」
「結局、(自身が社長を辞めた)16年の時点で団体の負債は4億円にも膨れ上がっていたんだよね。
三沢時代から引き継いだのが約2億円。俺が社長になってからの分が2億円くらいかな。
これ以上続けたところで、負債が増えることはあっても減ることはないわけでさ。
もう選手に給料を払うのも大変だったし、限界を迎えていたよ。
そんなとき、『こういう話があるんですけど……』と身売りの話が届いたわけ。
正直、ホッとしたね。社長になってからというもの、まともに眠れない日が続いていたから」
16年11月1日、株式会社プロレスリング・ノアは株式会社ピーアールエヌに商号変更。
同時にノアの実質的な運営・興行・関連事業は
IT企業・エストビーに譲渡された(翌週、ノア・グローバルエンターテインメントに社名変更)。
17年2月にはピーアールエヌの破産が正式に成立し、三沢の作った団体は事実上の終焉を迎えることになる。
この一連の動きの中で田上はピーアールエヌの社長として、ノアの負債4億円を1人で背負い、破産準備を進めるとともに、
新会社であるノア・グローバルエンタテインメントの相談役に就任する。
「身売りした相手も別にそんなに大きい会社じゃないし、負債の面倒なんで見てくれるわけないよ。
それでも再スタートするなら借金はゼロにするほうがいいだろうってことで、そういうかたちにしたわけ。
とはいうものの、聞いていた話と違うこともあったけどね。
『田上さんにも、お金はこれくらいは出します』なんて具体的な金額も提示されていたけど、
結局、それだって3回しか払われなかった。
本当に口約束だけ。月末になるとお金がなくなるから電話するんだけど、何回かけても出なかったりしてさ。
内田(雅之=ノア・グローバルエンタテインメント会長)というのは初めからそんな感じの男だったよ」
過酷なリハビリ・介護生活の中で生まれた共通の夢。
ふたりはそれを糧に日々を懸命にすごすようになった。
しかし、そんなふたりの生活は、突然終わりを迎えてしまう。
「その日は朝から元気がなかったんですよ。
朝食でパンを一切れちぎって食べさせようとしたら『パンはいいよ』って言うんです。
でも、『朝から体力つけんと一日中ダメになるよ。それじゃ、バナナ食べよう』って、
バナナを剥いて、ほんのひとかけらを食べさせたんですけど、そしたら『喉までいかない』って。
食べ物がうまく喉を通らなかったみたいなんですね。
だから『噛むだけ噛んで』って言って、野菜ジュースで流し込むようにして飲ませたんですね。
そのあと口が半開きになって、『あら、どうかしたの?』って言ったら、返事も返って来ん。
『あれ、おかしいな』って思ってたら、9時15分ぐらいに訪問看護の人が来たから、
『口が半開きになってから返事が返ってこん』って言って。
なんか様子がおかしいってことで救急車を呼んで、9時30分くらいに救急車が来たんですね。
でも、そのとき救急車には訪問看護の人が2人、救急隊員も2人乗ったんで、私は乗れなくて、あとから車でついて行ったんです。
で、あの人が病室に入るのと私が着いたのと一緒になって。
病院の先生が『MRIにかけていいですか?』って言うから『どうぞ』って言って。
そのあと心電図みたいなのがありまして、最初は動いてましたけど、しばらくしたらず〜っとまっすぐになったんですよ。
そして『ただいま10時7分、お亡くなりになりました』って……」
2011年12月21日、上田馬之助(本名・上田裕司)死去。享年71。
死因は誤嚥による窒息だった。
「あのときがやっぱり一番辛かった。座り込んで、立てんようになってしまって。
あとから私、自分を責めたんです。私がもうちょっと早く気づいてたら生きとったものだと思うもんだから。
『悪かったね、ごめんね、ごめんね』言うて、ほっぺたを叩いて『起きて、起きて』って言うたけど、
なんの返事も返ってこんでね……。
はっきり言って、貧乏くじみたいなものだよね。
すでにノアの経営状態がよくなかったのは、どう見ても明らかだったからさ。
でも誰かがやらないと、若い奴らが路頭に迷うことになるわけじゃない。
一応、嫁にも相談したら『好きなことをやれば?』ということになった。
でも、そこからは本当に苦しいだけの7年間だったよ」
「結局、(自身が社長を辞めた)16年の時点で団体の負債は4億円にも膨れ上がっていたんだよね。
三沢時代から引き継いだのが約2億円。俺が社長になってからの分が2億円くらいかな。
これ以上続けたところで、負債が増えることはあっても減ることはないわけでさ。
もう選手に給料を払うのも大変だったし、限界を迎えていたよ。
そんなとき、『こういう話があるんですけど……』と身売りの話が届いたわけ。
正直、ホッとしたね。社長になってからというもの、まともに眠れない日が続いていたから」
16年11月1日、株式会社プロレスリング・ノアは株式会社ピーアールエヌに商号変更。
同時にノアの実質的な運営・興行・関連事業は
IT企業・エストビーに譲渡された(翌週、ノア・グローバルエンターテインメントに社名変更)。
17年2月にはピーアールエヌの破産が正式に成立し、三沢の作った団体は事実上の終焉を迎えることになる。
この一連の動きの中で田上はピーアールエヌの社長として、ノアの負債4億円を1人で背負い、破産準備を進めるとともに、
新会社であるノア・グローバルエンタテインメントの相談役に就任する。
「身売りした相手も別にそんなに大きい会社じゃないし、負債の面倒なんで見てくれるわけないよ。
それでも再スタートするなら借金はゼロにするほうがいいだろうってことで、そういうかたちにしたわけ。
とはいうものの、聞いていた話と違うこともあったけどね。
『田上さんにも、お金はこれくらいは出します』なんて具体的な金額も提示されていたけど、
結局、それだって3回しか払われなかった。
本当に口約束だけ。月末になるとお金がなくなるから電話するんだけど、何回かけても出なかったりしてさ。
内田(雅之=ノア・グローバルエンタテインメント会長)というのは初めからそんな感じの男だったよ」
右も左も分からないまま足を踏み入れたプロレス界で順調な滑り出しに見えたが、
心の中では自身の実力不足に嫌気が差していた。
「周りの選手が当たり前にできることができなかった。
一言で『鈍くさいやつ』って感じだよね。
俺にはこれ以上続けられないな、と」。
デビューから2カ月後の同年10月、先輩に「辞めます」と一言だけ伝え、
夜逃げするように荷物をまとめて選手寮を出た。
「当時は一秒でも早くその場を去りたくて。
選手が辞めるなんてよくあることだったから、『はい、お疲れ様』って引き留める人もいない。
でも、面倒を見てくれた人たちを完全に裏切る行為だった」
モヤモヤを抱きながらも、やっと抜け出せた解放感で胸がいっぱいだった。
その後は、札幌市内で整体師として働き、プロレスとの関わりは一切、絶った。
やりたい仕事に就き、悩みもなく充実した毎日。
その幸せな日々の中で、ふとした時に過去の自分の姿が頭をよぎった。
「逃げたままの自分が嫌で、その気持ちを払拭(ふっしょく)したかったのだと思う。
このままだと死ぬ時に後悔すると思った」
大舘さんは広島県生まれ。
1歳になる前、両目に小児がんが見つかり、右目を摘出。左目は放射線治療で、辛うじて視力は残りました。
“強くありたい”という思いから柔道にも打ち込み1年で黒帯に。そして出会ったのがプロレスでした。
(大舘裕太さん)
「何度も立ち上がる姿。やられても諦めない魂がプロレスにはあって、子どもの頃に目が悪くて、
いじめられたりとかあったので、立ち上がる(プロレスと自分を)重ねていましたね」
高校生になると、本格的にプロレスラーを目指し地元のジムに通うようになりますが、
残った左目も病気で見えなくなってしまったのです。
(大舘裕太さん)
「プロレスができなくなってから、一時期(プロレスを)嫌いになっていた。(プロレスの)話題を聞くのも嫌だった。
本当はやりたい気持ちがあったのに、その気持ちにふたをしてた」
一度は夢を諦めた大舘さん。しかし20年近く経って再び挑戦を決めたのには、ある理由がありました。
高校卒業後、マッサージ師となった大舘さんはそこで働いていた女性と結婚。息子のしゅん君が生まれました。
しかし、5年前に大舘さんの膀胱にがんが見つかり、その後肝臓にも転移。死を意識したといいます。
(大舘裕太さん)
「当時子ども4歳だったから、小さい服を取り込んでいて、子どもが大きくなった姿を見られないんだなと思うと涙が出てきて。
僕が死んだとして何か子どもに残せるかなと思ったときに(夢を諦めないという)精神面かなと思った」
インタビューなどでも、この時期に関する質問が少なくなかったが、
長州は1度だけ、メキシコ遠征の理由について語ったことがある。
それは、1986年11月15日、関西学院大学における講演会でのことだった。
学生の司会者「なぜ、メキシコ行きを決意したのですか?」
長州「ああ、(手をハサミの形にし、主に最前列にいたプロレス・マスコミに)切っておいてくれよ。
……車の免許取りに行ったんだよ。30分くらいで取れる」
正確に言えば、免許は日本のように学科や実技試験の類いを一切することなく、発行所に並び、
お金を出せば取れる(国際免許証ということになるが、日本における切り替えも可能)からメキシコに行ったというのだ。