【カミーユ】オチンギンのスレッド【アラサー】

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0001名無しさん@明日があるさ2019/06/21(金) 08:18:39.610
お金とナニが大好きなオチンギンさんのスレ


twitter (鍵アカ)
@gai_zi_

続けましょう

0537名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:43:24.820
 遊ぶと云ふ方にかけては、本郷の新花町にゐる佐藤が、その尤なるものであつた。彼は惡い遊びをすると云ふ、評判が友達の間に喧しかつた。仲間には彼のためにそれを心配して、忠告をしようと試みるものさへもあつた。併しもと/\受驗
を口實に、東京へ遊びに來てゐる彼は、そんな言葉に耳も傾けなかつた。去年も彼は高工に入學を出願してゐながら、試驗の日に二十分許り遲れて行つて、試驗場から入場を拒絶された時、彼は受驗料を拂つ
てゐるのだから、せめて試驗問題だけは呉れと請求して、それを貰つたゞけで歸つたといふ有名な逸話さへあつた。その時遲れた原因と云ふのは、何でも前の晩酒を呑み過ぎたとか何とかだと云ふ噂だつた。私も一度散歩の序に訪ねたことが
あつた。彼は長い煙管ですぱ/\白梅を吸つてゐた。そして少しく醉を帶びてゐるらしかつた。
「いよう、珍らしいな、よくやつて來たね。それにしても今日でよかつた。めつたに吾々の處へなんぞ來ない君が、折角來て呉れても留守にしちやあ濟まないからね。なに、今日は金が無いんでね、特別に蟄居してゐたのさ。東京は金がなくちや
詰らない處だよ。金さへあれあこんな良夜を、下宿の二階になんぞ燻つちやゐないんだ。が今日は燻つてたんで、丁度よかつた。まあゆつくり話して行き給へ。たまには君らだつて一晩位遊んでもいゝんだらう。なにまだ勉強なんぞ初めないつ
て。そいつあ嘘だらうが兎に角ゆつくりし給へよ。何か奢らうか。金が無いんで外へ連れ出す譯に行かないから、下宿で取る不味いんでよけれあ、何でも云つて呉れ給へ。なに、僕だつて君をダシに使つて、何か食ひたいんだから。遠慮なんぞ
し給ふなよ。何なら少し酒でも飮まうか。……」
 こんな事を立續けに云つて、彼は私を狼狽させた。そして私が眞顏に辭退するのをからかひ顏に、猶もこんな事を云つてゐた。
「いつもながら固過ぎて困つたものだね。一度試驗を失敗れあ大抵世の中が解るんだが、君は全く特別だよ。まあ折角東京にゐる癖に、君たちはわざと面白い處を避けて通つてゐるんだ。その中に君にも是非一つ面白い處を紹介したいな。併し
それにはもう一二度試驗に失敗つて、自棄になつてからでなくちや駄目だらう。よかつたら何時
でも來給へ、さうすれば喜んで案内するよ。――なあにさう眞面目になつて憤慨し給ふな。どつち道人間一度は、きつと

0538名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:45:20.940
そんな所へ行く時が來るよ。僕
は只君たちより早く足を踏み込んだだけだ。だからそつちの方面なら、いつでも案内の役をつとめるよ。」
 私は初めは幾らか好奇的に、彼の云ふ事を傾聽してゐたが、だん/\不快になつて來た。それで三十分ほど我慢をした末、とう/\暇を告げて立上つた。
「さうかい、もう歸るのかい。早いな。ぢや又來たまへ。何か氣に障つたら勘辧して呉れ給へ。僕もいつでもかうではないんだよ。だが、僕もほんとに駄目になつちやつたね。」
 さう云つて急に彼は、涙を溜めたりした。私はこゝにも亦受驗界の、最も恐るべき破船者の一人として最も典型的な彼を見た。私は自分の家へ歸りながら、彼のやうになつてはお終ひだと思つた。まさかに自分はああは
なるまいとも思つた。ならぬやうに努力しなくちやならんと思つた。私は何だか恐ろしい氣がした。そして二度とその後は彼を訪れなかつた。
 松井はその反對に、仲間でも眞
面目な
方だつた。彼は小石川小日向のある寺に間借りをしてゐた。西向の陰氣な部屋だつたが、それだけに閑靜でよかつた。松井はいつもその薄暗い障子の下に机を寄せて、片頬に
ぢつと手を當てながら、本を讀むでもなく考へるでもなく、一日を坐り暮してゐるらしかつた。彼は實際は勉強家ではなかつた。頭腦もどちらかと云へば鈍い方だつた。たゞ机に噛りついて、どうにかかうにか受驗準備を整へようとして
ゐるに過ぎなかつた。けれども兎に角彼
が一番勤勉だつた。そして一番眞面目に、受驗の事を考へてゐた。それで私は一番よくこの松井を訪問した。二人はきつと準備の進行に就いて語り合つた。

「そろ/\眞劍にやり出してもいゝ時分だね。」
「さうだね。」彼はよく簡單な相槌を打つた。
「いゝや。まだ代數に手を着けた許りだ。代數は苦手でね。僕は去年も代數で失敗つたのだから。」と彼は眉根を寄せた。
「さうかい。僕の苦手は數學では三角だ。だから今からやつて置けばいゝんだが、迚もやる氣はしない。」
 二人の會話は動もすれば、こんな物の連續だつた。それでも受驗の事を話し合つてると、何となく活氣づき力附くやうに思はれた。別れる時にはきつとこんな事を云ひ合つた。
「ぢや愈々明日からやらうかな。」

 けれどもその次に二人が會つてみると、お互にさう勉強もしてゐなかつた。そしてお互に相手の不勉強を知つて、私かに安心

0539名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:45:37.250
そんな所へ行く時が來るよ。僕
は只君たちより早く足を踏み込んだだけだ。だからそつちの方面なら、いつでも案内の役をつとめるよ。」
 私は初めは幾らか好奇的に、彼の云ふ事を傾聽してゐたが、だん/\不快になつて來た。それで三十分ほど我慢をした末、とう/\暇を告げて立上つた。
「さうかい、もう歸るのかい。早いな。ぢや又來たまへ。何か氣に障つたら勘辧して呉れ給へ。僕もいつでもかうではないんだよ。だが、僕もほんとに駄目になつちやつたね。」
 さう云つて急に彼は、涙を溜めたりした。私はこゝにも亦受驗界の、最も恐るべき破船者の一人として最も典型的な彼を見た。私は自分の家へ歸りながら、彼のやうになつてはお終ひだと思つた。まさかに自分はああは
なるまいとも思つた。ならぬやうに努力しなくちやならんと思つた。私は何だか恐ろしい氣がした。そして二度とその後は彼を訪れなかつた。
 松井はその反對に、仲間でも眞
面目な
方だつた。彼は小石川小日向のある寺に間借りをしてゐた。西向の陰氣な部屋だつたが、それだけに閑靜でよかつた。松井はいつもその薄暗い障子の下に机を寄せて、片頬に
ぢつと手を當てながら、本を讀むでもなく考へるでもなく、一日を坐り暮してゐるらしかつた。彼は實際は勉強家ではなかつた。頭腦もどちらかと云へば鈍い方だつた。たゞ机に噛りついて、どうにかかうにか受驗準備を整へようとして
ゐるに過ぎなかつた。けれども兎に角彼
が一番勤勉だつた。そして一番眞面目に、受驗の事を考へてゐた。それで私は一番よくこの松井を訪問した。二人はきつと準備の進行に就いて語り合つた。

「そろ/\眞劍にやり出してもいゝ時分だね。」
「さうだね。」彼はよく簡單な相槌を打つた。
「いゝや。まだ代數に手を着けた許りだ。代數は苦手でね。僕は去年も代數で失敗つたのだから。」と彼は眉根を寄せた。
「さうかい。僕の苦手は數學では三角だ。だから今からやつて置けばいゝんだが、迚もやる氣はしない。」
 二人の會話は動もすれば、こんな物の連續だつた。それでも受驗の事を話し合つてると、何となく活氣づき力附くやうに思はれた。別れる時にはきつとこんな事を云ひ合つた。
「ぢや愈々明日からやらうかな。」

 けれどもその次に二人が會つてみると、お互にさう勉強もしてゐなかつた。そしてお互に相手の不勉強を知つて、私かに安心

0540名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:45:46.320
そんな所へ行く時が來るよ。僕
は只君たちより早く足を踏み込んだだけだ。だからそつちの方面なら、いつでも案内の役をつとめるよ。」
 私は初めは幾らか好奇的に、彼の云ふ事を傾聽してゐたが、だん/\不快になつて來た。それで三十分ほど我慢をした末、とう/\暇を告げて立上つた。
「さうかい、もう歸るのかい。早いな。ぢや又來たまへ。何か氣に障つたら勘辧して呉れ給へ。僕もいつでもかうではないんだよ。だが、僕もほんとに駄目になつちやつたね。」
 さう云つて急に彼は、涙を溜めたりした。私はこゝにも亦受驗界の、最も恐るべき破船者の一人として最も典型的な彼を見た。私は自分の家へ歸りながら、彼のやうになつてはお終ひだと思つた。まさかに自分はああは
なるまいとも思つた。ならぬやうに努力しなくちやならんと思つた。私は何だか恐ろしい氣がした。そして二度とその後は彼を訪れなかつた。
 松井はその反對に、仲間でも眞
面目な
方だつた。彼は小石川小日向のある寺に間借りをしてゐた。西向の陰氣な部屋だつたが、それだけに閑靜でよかつた。松井はいつもその薄暗い障子の下に机を寄せて、片頬に
ぢつと手を當てながら、本を讀むでもなく考へるでもなく、一日を坐り暮してゐるらしかつた。彼は實際は勉強家ではなかつた。頭腦もどちらかと云へば鈍い方だつた。たゞ机に噛りついて、どうにかかうにか受驗準備を整へようとして
ゐるに過ぎなかつた。けれども兎に角彼
が一番勤勉だつた。そして一番眞面目に、受驗の事を考へてゐた。それで私は一番よくこの松井を訪問した。二人はきつと準備の進行に就いて語り合つた。

「そろ/\眞劍にやり出してもいゝ時分だね。」
「さうだね。」彼はよく簡單な相槌を打つた。
「いゝや。まだ代數に手を着けた許りだ。代數は苦手でね。僕は去年も代數で失敗つたのだから。」と彼は眉根を寄せた。
「さうかい。僕の苦手は數學では三角だ。だから今からやつて置けばいゝんだが、迚もやる氣はしない。」
 二人の會話は動もすれば、こんな物の連續だつた。それでも受驗の事を話し合つてると、何となく活氣づき力附くやうに思はれた。別れる時にはきつとこんな事を云ひ合つた。
「ぢや愈々明日からやらうかな。」

 けれどもその次に二人が會つてみると、お互にさう勉強もしてゐなかつた。そしてお互に相手の不勉強を知つて、私かに安心

0541名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:45:59.440
そんな所へ行く時が來るよ。僕
は只君たちより早く足を踏み込んだだけだ。だからそつちの方面なら、いつでも案内の役をつとめるよ。」
 私は初めは幾らか好奇的に、彼の云ふ事を傾聽してゐたが、だん/\不快になつて來た。それで三十分ほど我慢をした末、とう/\暇を告げて立上つた。
「さうかい、もう歸るのかい。早いな。ぢや又來たまへ。何か氣に障つたら勘辧して呉れ給へ。僕もいつでもかうではないんだよ。だが、僕もほんとに駄目になつちやつたね。」
 さう云つて急に彼は、涙を溜めたりした。私はこゝにも亦受驗界の、最も恐るべき破船者の一人として最も典型的な彼を見た。私は自分の家へ歸りながら、彼のやうになつてはお終ひだと思つた。まさかに自分はああは
なるまいとも思つた。ならぬやうに努力しなくちやならんと思つた。私は何だか恐ろしい氣がした。そして二度とその後は彼を訪れなかつた。
 松井はその反對に、仲間でも眞
面目な
方だつた。彼は小石川小日向のある寺に間借りをしてゐた。西向の陰氣な部屋だつたが、それだけに閑靜でよかつた。松井はいつもその薄暗い障子の下に机を寄せて、片頬に
ぢつと手を當てながら、本を讀むでもなく考へるでもなく、一日を坐り暮してゐるらしかつた。彼は實際は勉強家ではなかつた。頭腦もどちらかと云へば鈍い方だつた。たゞ机に噛りついて、どうにかかうにか受驗準備を整へようとして
ゐるに過ぎなかつた。けれども兎に角彼
が一番勤勉だつた。そして一番眞面目に、受驗の事を考へてゐた。それで私は一番よくこの松井を訪問した。二人はきつと準備の進行に就いて語り合つた。

「そろ/\眞劍にやり出してもいゝ時分だね。」
「さうだね。」彼はよく簡單な相槌を打つた。
「いゝや。まだ代數に手を着けた許りだ。代數は苦手でね。僕は去年も代數で失敗つたのだから。」と彼は眉根を寄せた。
「さうかい。僕の苦手は數學では三角だ。だから今からやつて置けばいゝんだが、迚もやる氣はしない。」
 二人の會話は動もすれば、こんな物の連續だつた。それでも受驗の事を話し合つてると、何となく活氣づき力附くやうに思はれた。別れる時にはきつとこんな事を云ひ合つた。
「ぢや愈々明日からやらうかな。」

 けれどもその次に二人が會つてみると、お互にさう勉強もしてゐなかつた。そしてお互に相手の不勉強を知つて、私かに安心

0542名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:46:06.040
そんな所へ行く時が來るよ。僕
は只君たちより早く足を踏み込んだだけだ。だからそつちの方面なら、いつでも案内の役をつとめるよ。」
 私は初めは幾らか好奇的に、彼の云ふ事を傾聽してゐたが、だん/\不快になつて來た。それで三十分ほど我慢をした末、とう/\暇を告げて立上つた。
「さうかい、もう歸るのかい。早いな。ぢや又來たまへ。何か氣に障つたら勘辧して呉れ給へ。僕もいつでもかうではないんだよ。だが、僕もほんとに駄目になつちやつたね。」
 さう云つて急に彼は、涙を溜めたりした。私はこゝにも亦受驗界の、最も恐るべき破船者の一人として最も典型的な彼を見た。私は自分の家へ歸りながら、彼のやうになつてはお終ひだと思つた。まさかに自分はああは
なるまいとも思つた。ならぬやうに努力しなくちやならんと思つた。私は何だか恐ろしい氣がした。そして二度とその後は彼を訪れなかつた。
 松井はその反對に、仲間でも眞
面目な
方だつた。彼は小石川小日向のある寺に間借りをしてゐた。西向の陰氣な部屋だつたが、それだけに閑靜でよかつた。松井はいつもその薄暗い障子の下に机を寄せて、片頬に
ぢつと手を當てながら、本を讀むでもなく考へるでもなく、一日を坐り暮してゐるらしかつた。彼は實際は勉強家ではなかつた。頭腦もどちらかと云へば鈍い方だつた。たゞ机に噛りついて、どうにかかうにか受驗準備を整へようとして
ゐるに過ぎなかつた。けれども兎に角彼
が一番勤勉だつた。そして一番眞面目に、受驗の事を考へてゐた。それで私は一番よくこの松井を訪問した。二人はきつと準備の進行に就いて語り合つた。

「そろ/\眞劍にやり出してもいゝ時分だね。」
「さうだね。」彼はよく簡單な相槌を打つた。
「いゝや。まだ代數に手を着けた許りだ。代數は苦手でね。僕は去年も代數で失敗つたのだから。」と彼は眉根を寄せた。
「さうかい。僕の苦手は數學では三角だ。だから今からやつて置けばいゝんだが、迚もやる氣はしない。」
 二人の會話は動もすれば、こんな物の連續だつた。それでも受驗の事を話し合つてると、何となく活氣づき力附くやうに思はれた。別れる時にはきつとこんな事を云ひ合つた。
「ぢや愈々明日からやらうかな。」

 けれどもその次に二人が會つてみると、お互にさう勉強もしてゐなかつた。そしてお互に相手の不勉強を知つて、私かに安心

0543名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:46:13.530
そんな所へ行く時が來るよ。僕
は只君たちより早く足を踏み込んだだけだ。だからそつちの方面なら、いつでも案内の役をつとめるよ。」
 私は初めは幾らか好奇的に、彼の云ふ事を傾聽してゐたが、だん/\不快になつて來た。それで三十分ほど我慢をした末、とう/\暇を告げて立上つた。
「さうかい、もう歸るのかい。早いな。ぢや又來たまへ。何か氣に障つたら勘辧して呉れ給へ。僕もいつでもかうではないんだよ。だが、僕もほんとに駄目になつちやつたね。」
 さう云つて急に彼は、涙を溜めたりした。私はこゝにも亦受驗界の、最も恐るべき破船者の一人として最も典型的な彼を見た。私は自分の家へ歸りながら、彼のやうになつてはお終ひだと思つた。まさかに自分はああは
なるまいとも思つた。ならぬやうに努力しなくちやならんと思つた。私は何だか恐ろしい氣がした。そして二度とその後は彼を訪れなかつた。
 松井はその反對に、仲間でも眞
面目な
方だつた。彼は小石川小日向のある寺に間借りをしてゐた。西向の陰氣な部屋だつたが、それだけに閑靜でよかつた。松井はいつもその薄暗い障子の下に机を寄せて、片頬に
ぢつと手を當てながら、本を讀むでもなく考へるでもなく、一日を坐り暮してゐるらしかつた。彼は實際は勉強家ではなかつた。頭腦もどちらかと云へば鈍い方だつた。たゞ机に噛りついて、どうにかかうにか受驗準備を整へようとして
ゐるに過ぎなかつた。けれども兎に角彼
が一番勤勉だつた。そして一番眞面目に、受驗の事を考へてゐた。それで私は一番よくこの松井を訪問した。二人はきつと準備の進行に就いて語り合つた。

「そろ/\眞劍にやり出してもいゝ時分だね。」
「さうだね。」彼はよく簡單な相槌を打つた。
「いゝや。まだ代數に手を着けた許りだ。代數は苦手でね。僕は去年も代數で失敗つたのだから。」と彼は眉根を寄せた。
「さうかい。僕の苦手は數學では三角だ。だから今からやつて置けばいゝんだが、迚もやる氣はしない。」
 二人の會話は動もすれば、こんな物の連續だつた。それでも受驗の事を話し合つてると、何となく活氣づき力附くやうに思はれた。別れる時にはきつとこんな事を云ひ合つた。
「ぢや愈々明日からやらうかな。」

 けれどもその次に二人が會つてみると、お互にさう勉強もしてゐなかつた。そしてお互に相手の不勉強を知つて、私かに安心

0544名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:50:52.520
 澄子さんは相變らず日曜日毎に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。
 彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/″\社會に頭角を現はし
てゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は亞米利加へ行つてゐた。最も末の弟たる私の義兄は、一昨年出たばかりの醫學士で、今
猶青山内科の助手をしてゐる。澄子さんはこゝへ、即ち千駄木のこの叔父の家へ、殆んど毎日曜に遊びに來るのを常としてゐるのだ。そしてそこには私が寄食してゐたのだ。
 澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上
げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黒眼勝に澄んだ雙眸が、濡れた雨後の日光のやうな輝きを迸らせた。
 私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お燈さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐ
たのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、内心思つてゐたせゐであつたかも知れない。
 あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜
してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。止むを得ず机に向つて、疲れ切つた眼を教科書の上にさらしてゐたのだつた。けれどもそれ
もすつかり退屈して來た。私はと

0545名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:51:02.650
 澄子さんは相變らず日曜日毎に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。
 彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/″\社會に頭角を現はし
てゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は亞米利加へ行つてゐた。最も末の弟たる私の義兄は、一昨年出たばかりの醫學士で、今
猶青山内科の助手をしてゐる。澄子さんはこゝへ、即ち千駄木のこの叔父の家へ、殆んど毎日曜に遊びに來るのを常としてゐるのだ。そしてそこには私が寄食してゐたのだ。
 澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上
げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黒眼勝に澄んだ雙眸が、濡れた雨後の日光のやうな輝きを迸らせた。
 私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お燈さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐ
たのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、内心思つてゐたせゐであつたかも知れない。
 あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜
してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。止むを得ず机に向つて、疲れ切つた眼を教科書の上にさらしてゐたのだつた。けれどもそれ
もすつかり退屈して來た。私はと

0546名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:51:07.030
 澄子さんは相變らず日曜日毎に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。
 彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/″\社會に頭角を現はし
てゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は亞米利加へ行つてゐた。最も末の弟たる私の義兄は、一昨年出たばかりの醫學士で、今
猶青山内科の助手をしてゐる。澄子さんはこゝへ、即ち千駄木のこの叔父の家へ、殆んど毎日曜に遊びに來るのを常としてゐるのだ。そしてそこには私が寄食してゐたのだ。
 澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上
げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黒眼勝に澄んだ雙眸が、濡れた雨後の日光のやうな輝きを迸らせた。
 私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お燈さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐ
たのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、内心思つてゐたせゐであつたかも知れない。
 あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜
してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。止むを得ず机に向つて、疲れ切つた眼を教科書の上にさらしてゐたのだつた。けれどもそれ
もすつかり退屈して來た。私はと

0547名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:51:27.480
 澄子さんは相變らず日曜日毎に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。
 彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/″\社會に頭角を現はし
てゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は亞米利加へ行つてゐた。最も末の弟たる私の義兄は、一昨年出たばかりの醫學士で、今
猶青山内科の助手をしてゐる。澄子さんはこゝへ、即ち千駄木のこの叔父の家へ、殆んど毎日曜に遊びに來るのを常としてゐるのだ。そしてそこには私が寄食してゐたのだ。
 澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上
げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黒眼勝に澄んだ雙眸が、濡れた雨後の日光のやうな輝きを迸らせた。
 私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お燈さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐ
たのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、内心思つてゐたせゐであつたかも知れない。
 あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜
してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。止むを得ず机に向つて、疲れ切つた眼を教科書の上にさらしてゐたのだつた。けれどもそれ
もすつかり退屈して來た。私はと

0548名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:51:32.150
 澄子さんは相變らず日曜日毎に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。
 彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/″\社會に頭角を現はし
てゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は亞米利加へ行つてゐた。最も末の弟たる私の義兄は、一昨年出たばかりの醫學士で、今
猶青山内科の助手をしてゐる。澄子さんはこゝへ、即ち千駄木のこの叔父の家へ、殆んど毎日曜に遊びに來るのを常としてゐるのだ。そしてそこには私が寄食してゐたのだ。
 澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上
げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黒眼勝に澄んだ雙眸が、濡れた雨後の日光のやうな輝きを迸らせた。
 私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お燈さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐ
たのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、内心思つてゐたせゐであつたかも知れない。
 あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜
してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。止むを得ず机に向つて、疲れ切つた眼を教科書の上にさらしてゐたのだつた。けれどもそれ
もすつかり退屈して來た。私はと

0549名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:51:42.990
 澄子さんは相變らず日曜日毎に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。
 彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/″\社會に頭角を現はし
てゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は亞米利加へ行つてゐた。最も末の弟たる私の義兄は、一昨年出たばかりの醫學士で、今
猶青山内科の助手をしてゐる。澄子さんはこゝへ、即ち千駄木のこの叔父の家へ、殆んど毎日曜に遊びに來るのを常としてゐるのだ。そしてそこには私が寄食してゐたのだ。
 澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上
げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黒眼勝に澄んだ雙眸が、濡れた雨後の日光のやうな輝きを迸らせた。
 私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お燈さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐ
たのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、内心思つてゐたせゐであつたかも知れない。
 あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜
してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。止むを得ず机に向つて、疲れ切つた眼を教科書の上にさらしてゐたのだつた。けれどもそれ
もすつかり退屈して來た。私はと

0550名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:54:41.090
 すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嗟に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い閾口に眼をぱつちり見開いて、默つて立つてゐた。その顏には笑つていゝ
ものなら笑ひ度いと云ふやうな表情があつた。
 私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉に支へながらも、とにかく滑かに出たのが嬉しかつた。
 秋子ちやんはまだもじ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。
「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。
 その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影が掠めた。そしてそこへお下げに結つた、白い十六七の女の顏が浮び出た。私は面映く思ひながらも、その花のや
うな顏を見定めた。整つた輪郭を一瞬に見て取つた時、彼女の眼はもう嫣然と笑ひかけてゐた。そして淑かな會釋をした。私も慌てゝ禮を返した。
「あの、御勉強のお邪魔を致しまして。――さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう彼方へ參りませう。」彼女は鈴を鳴らすやうに滑かに云つた。
 秋子さんはもじ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。
「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度目招ぎした。「ね、いゝから入つていらつしやい。」
 秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頬を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。
「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。――どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下り
る、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見返つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた――。
 それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜毎に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大
抵は姉と二人ぎりで、女同志の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして偶々何かの都合で、一と日曜彼女が來ないと、堪らなく淋しい氣がした。

0551名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:54:49.900
 すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嗟に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い閾口に眼をぱつちり見開いて、默つて立つてゐた。その顏には笑つていゝ
ものなら笑ひ度いと云ふやうな表情があつた。
 私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉に支へながらも、とにかく滑かに出たのが嬉しかつた。
 秋子ちやんはまだもじ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。
「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。
 その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影が掠めた。そしてそこへお下げに結つた、白い十六七の女の顏が浮び出た。私は面映く思ひながらも、その花のや
うな顏を見定めた。整つた輪郭を一瞬に見て取つた時、彼女の眼はもう嫣然と笑ひかけてゐた。そして淑かな會釋をした。私も慌てゝ禮を返した。
「あの、御勉強のお邪魔を致しまして。――さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう彼方へ參りませう。」彼女は鈴を鳴らすやうに滑かに云つた。
 秋子さんはもじ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。
「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度目招ぎした。「ね、いゝから入つていらつしやい。」
 秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頬を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。
「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。――どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下り
る、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見返つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた――。
 それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜毎に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大
抵は姉と二人ぎりで、女同志の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして偶々何かの都合で、一と日曜彼女が來ないと、堪らなく淋しい氣がした。

0552名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:55:02.060
 すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嗟に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い閾口に眼をぱつちり見開いて、默つて立つてゐた。その顏には笑つていゝ
ものなら笑ひ度いと云ふやうな表情があつた。
 私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉に支へながらも、とにかく滑かに出たのが嬉しかつた。
 秋子ちやんはまだもじ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。
「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。
 その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影が掠めた。そしてそこへお下げに結つた、白い十六七の女の顏が浮び出た。私は面映く思ひながらも、その花のや
うな顏を見定めた。整つた輪郭を一瞬に見て取つた時、彼女の眼はもう嫣然と笑ひかけてゐた。そして淑かな會釋をした。私も慌てゝ禮を返した。
「あの、御勉強のお邪魔を致しまして。――さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう彼方へ參りませう。」彼女は鈴を鳴らすやうに滑かに云つた。
 秋子さんはもじ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。
「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度目招ぎした。「ね、いゝから入つていらつしやい。」
 秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頬を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。
「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。――どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下り
る、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見返つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた――。
 それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜毎に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大
抵は姉と二人ぎりで、女同志の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして偶々何かの都合で、一と日曜彼女が來ないと、堪らなく淋しい氣がした。

0553名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:55:07.740
 すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嗟に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い閾口に眼をぱつちり見開いて、默つて立つてゐた。その顏には笑つていゝ
ものなら笑ひ度いと云ふやうな表情があつた。
 私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉に支へながらも、とにかく滑かに出たのが嬉しかつた。
 秋子ちやんはまだもじ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。
「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。
 その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影が掠めた。そしてそこへお下げに結つた、白い十六七の女の顏が浮び出た。私は面映く思ひながらも、その花のや
うな顏を見定めた。整つた輪郭を一瞬に見て取つた時、彼女の眼はもう嫣然と笑ひかけてゐた。そして淑かな會釋をした。私も慌てゝ禮を返した。
「あの、御勉強のお邪魔を致しまして。――さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう彼方へ參りませう。」彼女は鈴を鳴らすやうに滑かに云つた。
 秋子さんはもじ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。
「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度目招ぎした。「ね、いゝから入つていらつしやい。」
 秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頬を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。
「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。――どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下り
る、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見返つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた――。
 それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜毎に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大
抵は姉と二人ぎりで、女同志の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして偶々何かの都合で、一と日曜彼女が來ないと、堪らなく淋しい氣がした。

0554名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:55:27.290
 すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嗟に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い閾口に眼をぱつちり見開いて、默つて立つてゐた。その顏には笑つていゝ
ものなら笑ひ度いと云ふやうな表情があつた。
 私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉に支へながらも、とにかく滑かに出たのが嬉しかつた。
 秋子ちやんはまだもじ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。
「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。
 その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影が掠めた。そしてそこへお下げに結つた、白い十六七の女の顏が浮び出た。私は面映く思ひながらも、その花のや
うな顏を見定めた。整つた輪郭を一瞬に見て取つた時、彼女の眼はもう嫣然と笑ひかけてゐた。そして淑かな會釋をした。私も慌てゝ禮を返した。
「あの、御勉強のお邪魔を致しまして。――さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう彼方へ參りませう。」彼女は鈴を鳴らすやうに滑かに云つた。
 秋子さんはもじ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。
「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度目招ぎした。「ね、いゝから入つていらつしやい。」
 秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頬を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。
「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。――どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下り
る、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見返つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた――。
 それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜毎に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大
抵は姉と二人ぎりで、女同志の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして偶々何かの都合で、一と日曜彼女が來ないと、堪らなく淋しい氣がした。

0555名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:55:44.990
 すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嗟に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い閾口に眼をぱつちり見開いて、默つて立つてゐた。その顏には笑つていゝ
ものなら笑ひ度いと云ふやうな表情があつた。
 私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉に支へながらも、とにかく滑かに出たのが嬉しかつた。
 秋子ちやんはまだもじ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。
「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。
 その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影が掠めた。そしてそこへお下げに結つた、白い十六七の女の顏が浮び出た。私は面映く思ひながらも、その花のや
うな顏を見定めた。整つた輪郭を一瞬に見て取つた時、彼女の眼はもう嫣然と笑ひかけてゐた。そして淑かな會釋をした。私も慌てゝ禮を返した。
「あの、御勉強のお邪魔を致しまして。――さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう彼方へ參りませう。」彼女は鈴を鳴らすやうに滑かに云つた。
 秋子さんはもじ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。
「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度目招ぎした。「ね、いゝから入つていらつしやい。」
 秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頬を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。
「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。――どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下り
る、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見返つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた――。
 それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜毎に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大
抵は姉と二人ぎりで、女同志の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして偶々何かの都合で、一と日曜彼女が來ないと、堪らなく淋しい氣がした。

0556名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:56:42.150
今日は三月一日で、一高に記念祭がある日だ。その盛況は兼々話に聞いてゐたが、もとより私は得意な彼らの、得意の絶頂にある有樣を見に行く氣などはなかつた
。けれども一高出身である義兄が、どこからか入場券を手に入れて來て、姉や澄子さんが是非行くから、是が非でも私に從いて來いと云ふので、私もやむなく行つ
て見ることにした。
 午後になるとすぐ、白金から澄子さんがやつて來た。彼女は盛裝してゐた。いつもより顏も美しいやうな氣がした。私は嬉しいやうな悲しいやうな氣持で、このきら
びやかな彼女の粉飾を見た。彼女をかくまで入念に、化粧せしむる一高と云ふものを、私は讚嘆しながら嫉妬しなければならなかつた。
 二人は姉の支度が出來るのを待ちながら、これから行く記念祭に就ての事を二三話し合つた。澄子さんはこんな事を云つた。
「來
年は貴方に案内して頂けるわね。」
 私は聲を呑んだ。「さあ、どうですかねえ。あてになりませんね。」
「大
丈夫よ。きつと大丈夫だわ。」
 
私は答へなかつた。そして何だか胸を抑へられるやうな氣がした。つく/″\去年入つてゐればよかつたと思つた。入つてゐれば、今日なぞは大手を振つて、かう云

裝ひを凝らした令孃を案内してやれたのだ。さうすればどんなに、澄子さんも喜ぶだらう。そしてどんなに友人たちが、羨望の眼を以て見ただらう。……
 
姉の支度が出來たので、三人は揃つて出掛ける事にした。初春の太陽は午下りながら、薄ぼけた靄をかぶつて天心に在つた。暫く戸外へ出て見ない中に、春はどこ
ともなく地上に搖れ立つてゐた。記念祭にはお誂への天氣だ。

これでは嘸混み合つてゐるだらうと豫測された。
 校門の前は果して人で一つぱいだつた。しかもその大半は着飾つた女だつた。併し見渡した所、澄子さんに優つてゐるものは餘り無かつた。自分は幾らか得意な氣がした。
 
腕に[#「 腕に」は底本では「腕に」]黄色い布を捲いた委員が、「入れてやる」と云はん許りの高慢さで、吾々の入場券を改めた。

 私は昨年の受驗以來、自分の受驗番號の出てゐない掲示を見て來て以來、初めて再びこの校門をくゞつた。
 寮までの沿道には、教室の壁と云はず物置の上と云はず、あらゆる空所にビラが貼つてあつた。而してそれには色々な漫畫や、奇拔な文句で飾り物の廣告がしてあつ

0557名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:56:49.720
今日は三月一日で、一高に記念祭がある日だ。その盛況は兼々話に聞いてゐたが、もとより私は得意な彼らの、得意の絶頂にある有樣を見に行く氣などはなかつた
。けれども一高出身である義兄が、どこからか入場券を手に入れて來て、姉や澄子さんが是非行くから、是が非でも私に從いて來いと云ふので、私もやむなく行つ
て見ることにした。
 午後になるとすぐ、白金から澄子さんがやつて來た。彼女は盛裝してゐた。いつもより顏も美しいやうな氣がした。私は嬉しいやうな悲しいやうな氣持で、このきら
びやかな彼女の粉飾を見た。彼女をかくまで入念に、化粧せしむる一高と云ふものを、私は讚嘆しながら嫉妬しなければならなかつた。
 二人は姉の支度が出來るのを待ちながら、これから行く記念祭に就ての事を二三話し合つた。澄子さんはこんな事を云つた。
「來
年は貴方に案内して頂けるわね。」
 私は聲を呑んだ。「さあ、どうですかねえ。あてになりませんね。」
「大
丈夫よ。きつと大丈夫だわ。」
 
私は答へなかつた。そして何だか胸を抑へられるやうな氣がした。つく/″\去年入つてゐればよかつたと思つた。入つてゐれば、今日なぞは大手を振つて、かう云

裝ひを凝らした令孃を案内してやれたのだ。さうすればどんなに、澄子さんも喜ぶだらう。そしてどんなに友人たちが、羨望の眼を以て見ただらう。……
 
姉の支度が出來たので、三人は揃つて出掛ける事にした。初春の太陽は午下りながら、薄ぼけた靄をかぶつて天心に在つた。暫く戸外へ出て見ない中に、春はどこ
ともなく地上に搖れ立つてゐた。記念祭にはお誂への天氣だ。

これでは嘸混み合つてゐるだらうと豫測された。
 校門の前は果して人で一つぱいだつた。しかもその大半は着飾つた女だつた。併し見渡した所、澄子さんに優つてゐるものは餘り無かつた。自分は幾らか得意な氣がした。
 
腕に[#「 腕に」は底本では「腕に」]黄色い布を捲いた委員が、「入れてやる」と云はん許りの高慢さで、吾々の入場券を改めた。

 私は昨年の受驗以來、自分の受驗番號の出てゐない掲示を見て來て以來、初めて再びこの校門をくゞつた。
 寮までの沿道には、教室の壁と云はず物置の上と云はず、あらゆる空所にビラが貼つてあつた。而してそれには色々な漫畫や、奇拔な文句で飾り物の廣告がしてあつ

0558名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:57:10.810
今日は三月一日で、一高に記念祭がある日だ。その盛況は兼々話に聞いてゐたが、もとより私は得意な彼らの、得意の絶頂にある有樣を見に行く氣などはなかつた
。けれども一高出身である義兄が、どこからか入場券を手に入れて來て、姉や澄子さんが是非行くから、是が非でも私に從いて來いと云ふので、私もやむなく行つ
て見ることにした。
 午後になるとすぐ、白金から澄子さんがやつて來た。彼女は盛裝してゐた。いつもより顏も美しいやうな氣がした。私は嬉しいやうな悲しいやうな氣持で、このきら
びやかな彼女の粉飾を見た。彼女をかくまで入念に、化粧せしむる一高と云ふものを、私は讚嘆しながら嫉妬しなければならなかつた。
 二人は姉の支度が出來るのを待ちながら、これから行く記念祭に就ての事を二三話し合つた。澄子さんはこんな事を云つた。
「來
年は貴方に案内して頂けるわね。」
 私は聲を呑んだ。「さあ、どうですかねえ。あてになりませんね。」
「大
丈夫よ。きつと大丈夫だわ。」
 
私は答へなかつた。そして何だか胸を抑へられるやうな氣がした。つく/″\去年入つてゐればよかつたと思つた。入つてゐれば、今日なぞは大手を振つて、かう云

裝ひを凝らした令孃を案内してやれたのだ。さうすればどんなに、澄子さんも喜ぶだらう。そしてどんなに友人たちが、羨望の眼を以て見ただらう。……
 
姉の支度が出來たので、三人は揃つて出掛ける事にした。初春の太陽は午下りながら、薄ぼけた靄をかぶつて天心に在つた。暫く戸外へ出て見ない中に、春はどこ
ともなく地上に搖れ立つてゐた。記念祭にはお誂への天氣だ。

これでは嘸混み合つてゐるだらうと豫測された。
 校門の前は果して人で一つぱいだつた。しかもその大半は着飾つた女だつた。併し見渡した所、澄子さんに優つてゐるものは餘り無かつた。自分は幾らか得意な氣がした。
 
腕に[#「 腕に」は底本では「腕に」]黄色い布を捲いた委員が、「入れてやる」と云はん許りの高慢さで、吾々の入場券を改めた。

 私は昨年の受驗以來、自分の受驗番號の出てゐない掲示を見て來て以來、初めて再びこの校門をくゞつた。
 寮までの沿道には、教室の壁と云はず物置の上と云はず、あらゆる空所にビラが貼つてあつた。而してそれには色々な漫畫や、奇拔な文句で飾り物の廣告がしてあつ

0559名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:57:20.450
今日は三月一日で、一高に記念祭がある日だ。その盛況は兼々話に聞いてゐたが、もとより私は得意な彼らの、得意の絶頂にある有樣を見に行く氣などはなかつた
。けれども一高出身である義兄が、どこからか入場券を手に入れて來て、姉や澄子さんが是非行くから、是が非でも私に從いて來いと云ふので、私もやむなく行つ
て見ることにした。
 午後になるとすぐ、白金から澄子さんがやつて來た。彼女は盛裝してゐた。いつもより顏も美しいやうな氣がした。私は嬉しいやうな悲しいやうな氣持で、このきら
びやかな彼女の粉飾を見た。彼女をかくまで入念に、化粧せしむる一高と云ふものを、私は讚嘆しながら嫉妬しなければならなかつた。
 二人は姉の支度が出來るのを待ちながら、これから行く記念祭に就ての事を二三話し合つた。澄子さんはこんな事を云つた。
「來
年は貴方に案内して頂けるわね。」
 私は聲を呑んだ。「さあ、どうですかねえ。あてになりませんね。」
「大
丈夫よ。きつと大丈夫だわ。」
 
私は答へなかつた。そして何だか胸を抑へられるやうな氣がした。つく/″\去年入つてゐればよかつたと思つた。入つてゐれば、今日なぞは大手を振つて、かう云

裝ひを凝らした令孃を案内してやれたのだ。さうすればどんなに、澄子さんも喜ぶだらう。そしてどんなに友人たちが、羨望の眼を以て見ただらう。……
 
姉の支度が出來たので、三人は揃つて出掛ける事にした。初春の太陽は午下りながら、薄ぼけた靄をかぶつて天心に在つた。暫く戸外へ出て見ない中に、春はどこ
ともなく地上に搖れ立つてゐた。記念祭にはお誂への天氣だ。

これでは嘸混み合つてゐるだらうと豫測された。
 校門の前は果して人で一つぱいだつた。しかもその大半は着飾つた女だつた。併し見渡した所、澄子さんに優つてゐるものは餘り無かつた。自分は幾らか得意な氣がした。
 
腕に[#「 腕に」は底本では「腕に」]黄色い布を捲いた委員が、「入れてやる」と云はん許りの高慢さで、吾々の入場券を改めた。

 私は昨年の受驗以來、自分の受驗番號の出てゐない掲示を見て來て以來、初めて再びこの校門をくゞつた。
 寮までの沿道には、教室の壁と云はず物置の上と云はず、あらゆる空所にビラが貼つてあつた。而してそれには色々な漫畫や、奇拔な文句で飾り物の廣告がしてあつ

0560名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:57:28.750
今日は三月一日で、一高に記念祭がある日だ。その盛況は兼々話に聞いてゐたが、もとより私は得意な彼らの、得意の絶頂にある有樣を見に行く氣などはなかつた
。けれども一高出身である義兄が、どこからか入場券を手に入れて來て、姉や澄子さんが是非行くから、是が非でも私に從いて來いと云ふので、私もやむなく行つ
て見ることにした。
 午後になるとすぐ、白金から澄子さんがやつて來た。彼女は盛裝してゐた。いつもより顏も美しいやうな氣がした。私は嬉しいやうな悲しいやうな氣持で、このきら
びやかな彼女の粉飾を見た。彼女をかくまで入念に、化粧せしむる一高と云ふものを、私は讚嘆しながら嫉妬しなければならなかつた。
 二人は姉の支度が出來るのを待ちながら、これから行く記念祭に就ての事を二三話し合つた。澄子さんはこんな事を云つた。
「來
年は貴方に案内して頂けるわね。」
 私は聲を呑んだ。「さあ、どうですかねえ。あてになりませんね。」
「大
丈夫よ。きつと大丈夫だわ。」
 
私は答へなかつた。そして何だか胸を抑へられるやうな氣がした。つく/″\去年入つてゐればよかつたと思つた。入つてゐれば、今日なぞは大手を振つて、かう云

裝ひを凝らした令孃を案内してやれたのだ。さうすればどんなに、澄子さんも喜ぶだらう。そしてどんなに友人たちが、羨望の眼を以て見ただらう。……
 
姉の支度が出來たので、三人は揃つて出掛ける事にした。初春の太陽は午下りながら、薄ぼけた靄をかぶつて天心に在つた。暫く戸外へ出て見ない中に、春はどこ
ともなく地上に搖れ立つてゐた。記念祭にはお誂への天氣だ。

これでは嘸混み合つてゐるだらうと豫測された。
 校門の前は果して人で一つぱいだつた。しかもその大半は着飾つた女だつた。併し見渡した所、澄子さんに優つてゐるものは餘り無かつた。自分は幾らか得意な氣がした。
 
腕に[#「 腕に」は底本では「腕に」]黄色い布を捲いた委員が、「入れてやる」と云はん許りの高慢さで、吾々の入場券を改めた。

 私は昨年の受驗以來、自分の受驗番號の出てゐない掲示を見て來て以來、初めて再びこの校門をくゞつた。
 寮までの沿道には、教室の壁と云はず物置の上と云はず、あらゆる空所にビラが貼つてあつた。而してそれには色々な漫畫や、奇拔な文句で飾り物の廣告がしてあつ

0561名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:57:59.340
 何とはなしに私は彼を不愉快に感じた。それでかう云ふと、すぐ待ち合してゐた姉達に追ひつくため急いで彼から立去つた。
「誰方」と一緒になつた時、澄子さんが訊ねた。
「なあに去年推薦で入つた友達ですがね。あいつ自分で入つたやうに威張つてゐるんですよ。案内して呉れるつて云つたんですが、斷つてやりました。」
「あら、案内して頂いたらいゝぢやないの。」澄子さんの顏にはちらと不平が浮んだ。
「なあに大抵解りますよ。」私はかう云ひ切りながら、心では可なり不快だつた。
 三人は南寮から見初めた。見物人は丁度出盛つてゐた。藤と櫻の造花を吊つた廊下は、押されながらにやつと歩く程混み合つた。その中
を姉が一番前に立つた。澄子さんが續いた。私は一番後から護衞のやうに從つた。三人は隔てられたり一緒になつたりして進んだ。
 室々の裝飾は、豫期したやうな立派なものは少なかつた。機智で狡く手を拔いた物なぞに却て面白いのがあつた。「萬物は流る。ベルグソ
ン哲學の原理」と云ふのに、質屋の暖簾が懸けてあるのや、「夜間宙返り飛行」と云ふのに、藥鑵を暗い室の中央に逆さにぶら下げて、見物が、
索を曳くとスヰツチで豆電燈がつくのなぞが、その代表的なものだつた。又寮生活の實際を幾らか誇張した飾り物として、汚らしい寢室の萬年床の
枕許を、南京豆で山積させたのや、「向陵
十二時」と云ふ飛んでもない繪卷を、順々に見せる趣向なぞは、屡々澄子さんに私を顧みて「まあ」なる嘆聲を發せしめた。
 舊寮の廊下は暗くて見物人がもつと混み合つてゐた。殊にその中程の或る室の前では、その精巧なる飾物のために、人足が殊に停滯してゐた。それは
工科生の考案らしく、「運轉手の夢」と題するものであつた。小さい玩具の電車が、向うの隧道の中から出て、そこの花野に敷かれた鐡軌を傳はつて走る中、橋の
ない川に來かゝる。すると水中から突如として鐡橋が都合よくせり上がる。電車はそれを疾走して渡ると、今度は急な山にさしかゝる。けれども遂にその頂上に登り切つ
て、それから更に其上へ出てゐる滿月の口の中へ飛び込むと云ふ仕掛だつた。これは實によく出來てゐた。そしてそれは三分毎に發車するのであつた爲め、それを見るための人が、
室前に押し合ひへし合つてゐた。

0562名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:58:08.530
 何とはなしに私は彼を不愉快に感じた。それでかう云ふと、すぐ待ち合してゐた姉達に追ひつくため急いで彼から立去つた。
「誰方」と一緒になつた時、澄子さんが訊ねた。
「なあに去年推薦で入つた友達ですがね。あいつ自分で入つたやうに威張つてゐるんですよ。案内して呉れるつて云つたんですが、斷つてやりました。」
「あら、案内して頂いたらいゝぢやないの。」澄子さんの顏にはちらと不平が浮んだ。
「なあに大抵解りますよ。」私はかう云ひ切りながら、心では可なり不快だつた。
 三人は南寮から見初めた。見物人は丁度出盛つてゐた。藤と櫻の造花を吊つた廊下は、押されながらにやつと歩く程混み合つた。その中
を姉が一番前に立つた。澄子さんが續いた。私は一番後から護衞のやうに從つた。三人は隔てられたり一緒になつたりして進んだ。
 室々の裝飾は、豫期したやうな立派なものは少なかつた。機智で狡く手を拔いた物なぞに却て面白いのがあつた。「萬物は流る。ベルグソ
ン哲學の原理」と云ふのに、質屋の暖簾が懸けてあるのや、「夜間宙返り飛行」と云ふのに、藥鑵を暗い室の中央に逆さにぶら下げて、見物が、
索を曳くとスヰツチで豆電燈がつくのなぞが、その代表的なものだつた。又寮生活の實際を幾らか誇張した飾り物として、汚らしい寢室の萬年床の
枕許を、南京豆で山積させたのや、「向陵
十二時」と云ふ飛んでもない繪卷を、順々に見せる趣向なぞは、屡々澄子さんに私を顧みて「まあ」なる嘆聲を發せしめた。
 舊寮の廊下は暗くて見物人がもつと混み合つてゐた。殊にその中程の或る室の前では、その精巧なる飾物のために、人足が殊に停滯してゐた。それは
工科生の考案らしく、「運轉手の夢」と題するものであつた。小さい玩具の電車が、向うの隧道の中から出て、そこの花野に敷かれた鐡軌を傳はつて走る中、橋の
ない川に來かゝる。すると水中から突如として鐡橋が都合よくせり上がる。電車はそれを疾走して渡ると、今度は急な山にさしかゝる。けれども遂にその頂上に登り切つ
て、それから更に其上へ出てゐる滿月の口の中へ飛び込むと云ふ仕掛だつた。これは實によく出來てゐた。そしてそれは三分毎に發車するのであつた爲め、それを見るための人が、
室前に押し合ひへし合つてゐた。

0563名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:58:17.410
 何とはなしに私は彼を不愉快に感じた。それでかう云ふと、すぐ待ち合してゐた姉達に追ひつくため急いで彼から立去つた。
「誰方」と一緒になつた時、澄子さんが訊ねた。
「なあに去年推薦で入つた友達ですがね。あいつ自分で入つたやうに威張つてゐるんですよ。案内して呉れるつて云つたんですが、斷つてやりました。」
「あら、案内して頂いたらいゝぢやないの。」澄子さんの顏にはちらと不平が浮んだ。
「なあに大抵解りますよ。」私はかう云ひ切りながら、心では可なり不快だつた。
 三人は南寮から見初めた。見物人は丁度出盛つてゐた。藤と櫻の造花を吊つた廊下は、押されながらにやつと歩く程混み合つた。その中
を姉が一番前に立つた。澄子さんが續いた。私は一番後から護衞のやうに從つた。三人は隔てられたり一緒になつたりして進んだ。
 室々の裝飾は、豫期したやうな立派なものは少なかつた。機智で狡く手を拔いた物なぞに却て面白いのがあつた。「萬物は流る。ベルグソ
ン哲學の原理」と云ふのに、質屋の暖簾が懸けてあるのや、「夜間宙返り飛行」と云ふのに、藥鑵を暗い室の中央に逆さにぶら下げて、見物が、
索を曳くとスヰツチで豆電燈がつくのなぞが、その代表的なものだつた。又寮生活の實際を幾らか誇張した飾り物として、汚らしい寢室の萬年床の
枕許を、南京豆で山積させたのや、「向陵
十二時」と云ふ飛んでもない繪卷を、順々に見せる趣向なぞは、屡々澄子さんに私を顧みて「まあ」なる嘆聲を發せしめた。
 舊寮の廊下は暗くて見物人がもつと混み合つてゐた。殊にその中程の或る室の前では、その精巧なる飾物のために、人足が殊に停滯してゐた。それは
工科生の考案らしく、「運轉手の夢」と題するものであつた。小さい玩具の電車が、向うの隧道の中から出て、そこの花野に敷かれた鐡軌を傳はつて走る中、橋の
ない川に來かゝる。すると水中から突如として鐡橋が都合よくせり上がる。電車はそれを疾走して渡ると、今度は急な山にさしかゝる。けれども遂にその頂上に登り切つ
て、それから更に其上へ出てゐる滿月の口の中へ飛び込むと云ふ仕掛だつた。これは實によく出來てゐた。そしてそれは三分毎に發車するのであつた爲め、それを見るための人が、
室前に押し合ひへし合つてゐた。

0564名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:58:27.940
 何とはなしに私は彼を不愉快に感じた。それでかう云ふと、すぐ待ち合してゐた姉達に追ひつくため急いで彼から立去つた。
「誰方」と一緒になつた時、澄子さんが訊ねた。
「なあに去年推薦で入つた友達ですがね。あいつ自分で入つたやうに威張つてゐるんですよ。案内して呉れるつて云つたんですが、斷つてやりました。」
「あら、案内して頂いたらいゝぢやないの。」澄子さんの顏にはちらと不平が浮んだ。
「なあに大抵解りますよ。」私はかう云ひ切りながら、心では可なり不快だつた。
 三人は南寮から見初めた。見物人は丁度出盛つてゐた。藤と櫻の造花を吊つた廊下は、押されながらにやつと歩く程混み合つた。その中
を姉が一番前に立つた。澄子さんが續いた。私は一番後から護衞のやうに從つた。三人は隔てられたり一緒になつたりして進んだ。
 室々の裝飾は、豫期したやうな立派なものは少なかつた。機智で狡く手を拔いた物なぞに却て面白いのがあつた。「萬物は流る。ベルグソ
ン哲學の原理」と云ふのに、質屋の暖簾が懸けてあるのや、「夜間宙返り飛行」と云ふのに、藥鑵を暗い室の中央に逆さにぶら下げて、見物が、
索を曳くとスヰツチで豆電燈がつくのなぞが、その代表的なものだつた。又寮生活の實際を幾らか誇張した飾り物として、汚らしい寢室の萬年床の
枕許を、南京豆で山積させたのや、「向陵
十二時」と云ふ飛んでもない繪卷を、順々に見せる趣向なぞは、屡々澄子さんに私を顧みて「まあ」なる嘆聲を發せしめた。
 舊寮の廊下は暗くて見物人がもつと混み合つてゐた。殊にその中程の或る室の前では、その精巧なる飾物のために、人足が殊に停滯してゐた。それは
工科生の考案らしく、「運轉手の夢」と題するものであつた。小さい玩具の電車が、向うの隧道の中から出て、そこの花野に敷かれた鐡軌を傳はつて走る中、橋の
ない川に來かゝる。すると水中から突如として鐡橋が都合よくせり上がる。電車はそれを疾走して渡ると、今度は急な山にさしかゝる。けれども遂にその頂上に登り切つ
て、それから更に其上へ出てゐる滿月の口の中へ飛び込むと云ふ仕掛だつた。これは實によく出來てゐた。そしてそれは三分毎に發車するのであつた爲め、それを見るための人が、
室前に押し合ひへし合つてゐた。

0565名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 20:58:39.760
 何とはなしに私は彼を不愉快に感じた。それでかう云ふと、すぐ待ち合してゐた姉達に追ひつくため急いで彼から立去つた。
「誰方」と一緒になつた時、澄子さんが訊ねた。
「なあに去年推薦で入つた友達ですがね。あいつ自分で入つたやうに威張つてゐるんですよ。案内して呉れるつて云つたんですが、斷つてやりました。」
「あら、案内して頂いたらいゝぢやないの。」澄子さんの顏にはちらと不平が浮んだ。
「なあに大抵解りますよ。」私はかう云ひ切りながら、心では可なり不快だつた。
 三人は南寮から見初めた。見物人は丁度出盛つてゐた。藤と櫻の造花を吊つた廊下は、押されながらにやつと歩く程混み合つた。その中
を姉が一番前に立つた。澄子さんが續いた。私は一番後から護衞のやうに從つた。三人は隔てられたり一緒になつたりして進んだ。
 室々の裝飾は、豫期したやうな立派なものは少なかつた。機智で狡く手を拔いた物なぞに却て面白いのがあつた。「萬物は流る。ベルグソ
ン哲學の原理」と云ふのに、質屋の暖簾が懸けてあるのや、「夜間宙返り飛行」と云ふのに、藥鑵を暗い室の中央に逆さにぶら下げて、見物が、
索を曳くとスヰツチで豆電燈がつくのなぞが、その代表的なものだつた。又寮生活の實際を幾らか誇張した飾り物として、汚らしい寢室の萬年床の
枕許を、南京豆で山積させたのや、「向陵
十二時」と云ふ飛んでもない繪卷を、順々に見せる趣向なぞは、屡々澄子さんに私を顧みて「まあ」なる嘆聲を發せしめた。
 舊寮の廊下は暗くて見物人がもつと混み合つてゐた。殊にその中程の或る室の前では、その精巧なる飾物のために、人足が殊に停滯してゐた。それは
工科生の考案らしく、「運轉手の夢」と題するものであつた。小さい玩具の電車が、向うの隧道の中から出て、そこの花野に敷かれた鐡軌を傳はつて走る中、橋の
ない川に來かゝる。すると水中から突如として鐡橋が都合よくせり上がる。電車はそれを疾走して渡ると、今度は急な山にさしかゝる。けれども遂にその頂上に登り切つ
て、それから更に其上へ出てゐる滿月の口の中へ飛び込むと云ふ仕掛だつた。これは實によく出來てゐた。そしてそれは三分毎に發車するのであつた爲め、それを見るための人が、
室前に押し合ひへし合つてゐた。

0566名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:04:50.250
 私は偶然觸つたやうにして、出來るだけ無意味に彼女の手を取つた。彼女も默つて取らせてゐた。私は自分の慄へる掌の中に、しつとりと汗ばんだ、彈力のある柔かいものを感じてゐた。
人混みは中々動かなかつた。彼女は何にも氣附かぬ如く、肩越しに「運轉手の夢」を覗き込んでゐた。そして身を動かす毎に、氣づかぬほど微に手を握り返した。
 さう云ふ中にも見物は、押され/\て推移した。吾々はやつとその稠密な處を拔け出た。私は先刻と同じく不自然でないやうに、彼女の手を放した。先きに立つた姉は、さつさと歩き出した。
 一と通り寮内を見物して外へ出ると、そこの廣庭には戸山學校の音樂隊が來てゐた。丁度聞き覺えのある「ドナウの流れ」を奏してゐた。三人はその方へ近寄つて行つた。私の心はいつ
になく浮立つた。何だかすべて自分のために、行進曲を奏してゐるやうに思はれた。東寮の三階で叩いてゐる相撲の太鼓も、入口の屋根の上に陣取つて、傍若無人に高聲を發してゐる大學
生の一群も、もう私の癪には障らなかつた。
 吾々が歸途についた時には、まだ蕾の固い校庭の櫻の梢に、ぼんやり傾きかゝつた春日が漂ひ殘つてゐた。
 考へて見ると今日は、壓迫と刺戟とを交互に受けた。家へ歸つたら疲れてぼんやりした。けれどもその底にひそやかな幸福があつた。そして興奮が澱のやうに殘つてゐた。
「勉強しなければならない、今年こそはどうしても入らなければならない。」と思つた。ほんとに心からさう思つた。
 机に向つたら、いつもより頭が冴えてゐるやうだつた。私は一高の記念祭に行つた事を、改めて誰かに感
弟から手紙が來た。卒業試驗はもう濟んだから、卒業式が終り次第、すぐにもう上京したいと云つて來た。私は何だか愕然とした。弟の卒業するのは知つてゐながらも、もうそんな時期に達した
のかと思つた。私はそれを若い次の時代の、吾々を壓倒して來る警告のやうに感じた。さうだ、年少氣鋭の弟たちが、この四月から吾々の恐るべき競爭者として現はれるのだ。全く愚圖愚圖しては
ゐられない。何だか弟の上京を阻止したいやうな心持が、私の心の底にあつた。けれども返事にはさうは書けなかつた。此方の用意は整へて置くから、いつでも都合のいゝ時に、上京せよと云つてやつた。
謝したかつた。

0567名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:05:00.920
私は偶然觸つたやうにして、出來るだけ無意味に彼女の手を取つた。彼女も默つて取らせてゐた。私は自分の慄へる掌の中に、しつとりと汗ばんだ、彈力のある柔かいものを感じてゐた。
人混みは中々動かなかつた。彼女は何にも氣附かぬ如く、肩越しに「運轉手の夢」を覗き込んでゐた。そして身を動かす毎に、氣づかぬほど微に手を握り返した。
 さう云ふ中にも見物は、押され/\て推移した。吾々はやつとその稠密な處を拔け出た。私は先刻と同じく不自然でないやうに、彼女の手を放した。先きに立つた姉は、さつさと歩き出した。
 一と通り寮内を見物して外へ出ると、そこの廣庭には戸山學校の音樂隊が來てゐた。丁度聞き覺えのある「ドナウの流れ」を奏してゐた。三人はその方へ近寄つて行つた。私の心はいつ
になく浮立つた。何だかすべて自分のために、行進曲を奏してゐるやうに思はれた。東寮の三階で叩いてゐる相撲の太鼓も、入口の屋根の上に陣取つて、傍若無人に高聲を發してゐる大學
生の一群も、もう私の癪には障らなかつた。
 吾々が歸途についた時には、まだ蕾の固い校庭の櫻の梢に、ぼんやり傾きかゝつた春日が漂ひ殘つてゐた。
 考へて見ると今日は、壓迫と刺戟とを交互に受けた。家へ歸つたら疲れてぼんやりした。けれどもその底にひそやかな幸福があつた。そして興奮が澱のやうに殘つてゐた。
「勉強しなければならない、今年こそはどうしても入らなければならない。」と思つた。ほんとに心からさう思つた。
 机に向つたら、いつもより頭が冴えてゐるやうだつた。私は一高の記念祭に行つた事を、改めて誰かに感
弟から手紙が來た。卒業試驗はもう濟んだから、卒業式が終り次第、すぐにもう上京したいと云つて來た。私は何だか愕然とした。弟の卒業するのは知つてゐながらも、もうそんな時期に達した
のかと思つた。私はそれを若い次の時代の、吾々を壓倒して來る警告のやうに感じた。さうだ、年少氣鋭の弟たちが、この四月から吾々の恐るべき競爭者として現はれるのだ。全く愚圖愚圖しては
ゐられない。何だか弟の上京を阻止したいやうな心持が、私の心の底にあつた。けれども返事にはさうは書けなかつた。此方の用意は整へて置くから、いつでも都合のいゝ時に、上京せよと云つてやつた。
謝したかつた。

0568名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:05:06.210
私は偶然觸つたやうにして、出來るだけ無意味に彼女の手を取つた。彼女も默つて取らせてゐた。私は自分の慄へる掌の中に、しつとりと汗ばんだ、彈力のある柔かいものを感じてゐた。
人混みは中々動かなかつた。彼女は何にも氣附かぬ如く、肩越しに「運轉手の夢」を覗き込んでゐた。そして身を動かす毎に、氣づかぬほど微に手を握り返した。
 さう云ふ中にも見物は、押され/\て推移した。吾々はやつとその稠密な處を拔け出た。私は先刻と同じく不自然でないやうに、彼女の手を放した。先きに立つた姉は、さつさと歩き出した。
 一と通り寮内を見物して外へ出ると、そこの廣庭には戸山學校の音樂隊が來てゐた。丁度聞き覺えのある「ドナウの流れ」を奏してゐた。三人はその方へ近寄つて行つた。私の心はいつ
になく浮立つた。何だかすべて自分のために、行進曲を奏してゐるやうに思はれた。東寮の三階で叩いてゐる相撲の太鼓も、入口の屋根の上に陣取つて、傍若無人に高聲を發してゐる大學
生の一群も、もう私の癪には障らなかつた。
 吾々が歸途についた時には、まだ蕾の固い校庭の櫻の梢に、ぼんやり傾きかゝつた春日が漂ひ殘つてゐた。
 考へて見ると今日は、壓迫と刺戟とを交互に受けた。家へ歸つたら疲れてぼんやりした。けれどもその底にひそやかな幸福があつた。そして興奮が澱のやうに殘つてゐた。
「勉強しなければならない、今年こそはどうしても入らなければならない。」と思つた。ほんとに心からさう思つた。
 机に向つたら、いつもより頭が冴えてゐるやうだつた。私は一高の記念祭に行つた事を、改めて誰かに感
弟から手紙が來た。卒業試驗はもう濟んだから、卒業式が終り次第、すぐにもう上京したいと云つて來た。私は何だか愕然とした。弟の卒業するのは知つてゐながらも、もうそんな時期に達した
のかと思つた。私はそれを若い次の時代の、吾々を壓倒して來る警告のやうに感じた。さうだ、年少氣鋭の弟たちが、この四月から吾々の恐るべき競爭者として現はれるのだ。全く愚圖愚圖しては
ゐられない。何だか弟の上京を阻止したいやうな心持が、私の心の底にあつた。けれども返事にはさうは書けなかつた。此方の用意は整へて置くから、いつでも都合のいゝ時に、上京せよと云つてやつた。
謝したかつた。

0569名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:05:26.430
私は偶然觸つたやうにして、出來るだけ無意味に彼女の手を取つた。彼女も默つて取らせてゐた。私は自分の慄へる掌の中に、しつとりと汗ばんだ、彈力のある柔かいものを感じてゐた。
人混みは中々動かなかつた。彼女は何にも氣附かぬ如く、肩越しに「運轉手の夢」を覗き込んでゐた。そして身を動かす毎に、氣づかぬほど微に手を握り返した。
 さう云ふ中にも見物は、押され/\て推移した。吾々はやつとその稠密な處を拔け出た。私は先刻と同じく不自然でないやうに、彼女の手を放した。先きに立つた姉は、さつさと歩き出した。
 一と通り寮内を見物して外へ出ると、そこの廣庭には戸山學校の音樂隊が來てゐた。丁度聞き覺えのある「ドナウの流れ」を奏してゐた。三人はその方へ近寄つて行つた。私の心はいつ
になく浮立つた。何だかすべて自分のために、行進曲を奏してゐるやうに思はれた。東寮の三階で叩いてゐる相撲の太鼓も、入口の屋根の上に陣取つて、傍若無人に高聲を發してゐる大學
生の一群も、もう私の癪には障らなかつた。
 吾々が歸途についた時には、まだ蕾の固い校庭の櫻の梢に、ぼんやり傾きかゝつた春日が漂ひ殘つてゐた。
 考へて見ると今日は、壓迫と刺戟とを交互に受けた。家へ歸つたら疲れてぼんやりした。けれどもその底にひそやかな幸福があつた。そして興奮が澱のやうに殘つてゐた。
「勉強しなければならない、今年こそはどうしても入らなければならない。」と思つた。ほんとに心からさう思つた。
 机に向つたら、いつもより頭が冴えてゐるやうだつた。私は一高の記念祭に行つた事を、改めて誰かに感
弟から手紙が來た。卒業試驗はもう濟んだから、卒業式が終り次第、すぐにもう上京したいと云つて來た。私は何だか愕然とした。弟の卒業するのは知つてゐながらも、もうそんな時期に達した
のかと思つた。私はそれを若い次の時代の、吾々を壓倒して來る警告のやうに感じた。さうだ、年少氣鋭の弟たちが、この四月から吾々の恐るべき競爭者として現はれるのだ。全く愚圖愚圖しては
ゐられない。何だか弟の上京を阻止したいやうな心持が、私の心の底にあつた。けれども返事にはさうは書けなかつた。此方の用意は整へて置くから、いつでも都合のいゝ時に、上京せよと云つてやつた。
謝したかつた。

0570名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:05:36.930
私は偶然觸つたやうにして、出來るだけ無意味に彼女の手を取つた。彼女も默つて取らせてゐた。私は自分の慄へる掌の中に、しつとりと汗ばんだ、彈力のある柔かいものを感じてゐた。
人混みは中々動かなかつた。彼女は何にも氣附かぬ如く、肩越しに「運轉手の夢」を覗き込んでゐた。そして身を動かす毎に、氣づかぬほど微に手を握り返した。
 さう云ふ中にも見物は、押され/\て推移した。吾々はやつとその稠密な處を拔け出た。私は先刻と同じく不自然でないやうに、彼女の手を放した。先きに立つた姉は、さつさと歩き出した。
 一と通り寮内を見物して外へ出ると、そこの廣庭には戸山學校の音樂隊が來てゐた。丁度聞き覺えのある「ドナウの流れ」を奏してゐた。三人はその方へ近寄つて行つた。私の心はいつ
になく浮立つた。何だかすべて自分のために、行進曲を奏してゐるやうに思はれた。東寮の三階で叩いてゐる相撲の太鼓も、入口の屋根の上に陣取つて、傍若無人に高聲を發してゐる大學
生の一群も、もう私の癪には障らなかつた。
 吾々が歸途についた時には、まだ蕾の固い校庭の櫻の梢に、ぼんやり傾きかゝつた春日が漂ひ殘つてゐた。
 考へて見ると今日は、壓迫と刺戟とを交互に受けた。家へ歸つたら疲れてぼんやりした。けれどもその底にひそやかな幸福があつた。そして興奮が澱のやうに殘つてゐた。
「勉強しなければならない、今年こそはどうしても入らなければならない。」と思つた。ほんとに心からさう思つた。
 机に向つたら、いつもより頭が冴えてゐるやうだつた。私は一高の記念祭に行つた事を、改めて誰かに感
弟から手紙が來た。卒業試驗はもう濟んだから、卒業式が終り次第、すぐにもう上京したいと云つて來た。私は何だか愕然とした。弟の卒業するのは知つてゐながらも、もうそんな時期に達した
のかと思つた。私はそれを若い次の時代の、吾々を壓倒して來る警告のやうに感じた。さうだ、年少氣鋭の弟たちが、この四月から吾々の恐るべき競爭者として現はれるのだ。全く愚圖愚圖しては
ゐられない。何だか弟の上京を阻止したいやうな心持が、私の心の底にあつた。けれども返事にはさうは書けなかつた。此方の用意は整へて置くから、いつでも都合のいゝ時に、上京せよと云つてやつた。
謝したかつた。

0571名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:06:46.730
 薄暗い改札口に近く立つて、今着いた汽車から雜然と溢れ出た乘客の流れの中に、暫らくぶりで弟の元氣な顏を見出した時、私は鳥渡の間涙ぐましい氣になつた。私が認めると殆んど同時に
、弟の方でも私を見つけた。むつつりした弟の淺黒い頬にも、さすがに慕はしさうな表情があつた。
「どうだ元氣は。家では皆んな壯健かい。」私はさう挨拶の代りに云つた。
「ええ。」弟はかう簡單に答へながら、夕暮れかゝつた場内の雜沓を、驚いたやうに見てゐた。私はその田舍者らしい弟の樣子を、初めて兄らしい、先輩らしい感情で見た。
 二人は荷物を受取ると、俥を雇つて千駄木の家へ向つた。俥は池の端を通つた。花曇りの空は暮れ早く、不忍池の水面には、花明りの處々した上野の杜からかけて、蒼茫たる色に蔽はれながら、
博覽會の裝飾電燈を夢のやうに映してゐた。去年の自分に引比べて、俥上の弟はさぞ心をときめかせてゐるだらうと思つた。
 義兄の家では例によつて、初めての上京を祝ふ食卓が待つてゐた。去年は自分のために在つた。今年は弟のために設けられたのだ。私は妙な感慨を以て、眼に痛いほど白い卓布を、特別にか
けた餉臺とその中央の花瓶へ、姉が趣味ありげに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した、緋桃の小枝をぢつと眺めた。
 義兄はいつもの通り快活だつた。姉は姉らしい温情を、只管弟に見せようとしてゐた。
「健次さん、おまへさんは子供の時分から、きんとんが好きだつたから、西洋料理とはつかないけれどわざわざわたしが拵へたのよ。」姉はそんな事を云つて料理を進めた。
 兄は麥酒のコツプを差出しながら、こんな事を云ひ初めた。「もう中學も出たんですから、一杯やつてもいゝでせう。兄の監督附きなんだから。――ところが此兄貴至つて無精者でね。監督なんぞ
迚も出來やしないんですよ。僕は全く無干渉主義ですからね。その代りあなた方が落第したつて、(と云ひながら私の方をちらりと見た。)別に責任は感じません。が、まあ成るたけなら、しつかりやつ
て呉れるんですな。それは運不運はありますよ。けれども最善さへ盡せば、大抵うまく行くものですからね。さう云ふと少し失禮だが、まあ堪忍して貰ふとして、健吉君の去年の失敗なぞも、一つに
は運も惡かつたと同時に、力を出し切らなかつたせゐだと僕は解釋してゐるんです。」
 私は何だか不快と恥辱から、何

0572名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:06:55.860
 薄暗い改札口に近く立つて、今着いた汽車から雜然と溢れ出た乘客の流れの中に、暫らくぶりで弟の元氣な顏を見出した時、私は鳥渡の間涙ぐましい氣になつた。私が認めると殆んど同時に
、弟の方でも私を見つけた。むつつりした弟の淺黒い頬にも、さすがに慕はしさうな表情があつた。
「どうだ元氣は。家では皆んな壯健かい。」私はさう挨拶の代りに云つた。
「ええ。」弟はかう簡單に答へながら、夕暮れかゝつた場内の雜沓を、驚いたやうに見てゐた。私はその田舍者らしい弟の樣子を、初めて兄らしい、先輩らしい感情で見た。
 二人は荷物を受取ると、俥を雇つて千駄木の家へ向つた。俥は池の端を通つた。花曇りの空は暮れ早く、不忍池の水面には、花明りの處々した上野の杜からかけて、蒼茫たる色に蔽はれながら、
博覽會の裝飾電燈を夢のやうに映してゐた。去年の自分に引比べて、俥上の弟はさぞ心をときめかせてゐるだらうと思つた。
 義兄の家では例によつて、初めての上京を祝ふ食卓が待つてゐた。去年は自分のために在つた。今年は弟のために設けられたのだ。私は妙な感慨を以て、眼に痛いほど白い卓布を、特別にか
けた餉臺とその中央の花瓶へ、姉が趣味ありげに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した、緋桃の小枝をぢつと眺めた。
 義兄はいつもの通り快活だつた。姉は姉らしい温情を、只管弟に見せようとしてゐた。
「健次さん、おまへさんは子供の時分から、きんとんが好きだつたから、西洋料理とはつかないけれどわざわざわたしが拵へたのよ。」姉はそんな事を云つて料理を進めた。
 兄は麥酒のコツプを差出しながら、こんな事を云ひ初めた。「もう中學も出たんですから、一杯やつてもいゝでせう。兄の監督附きなんだから。――ところが此兄貴至つて無精者でね。監督なんぞ
迚も出來やしないんですよ。僕は全く無干渉主義ですからね。その代りあなた方が落第したつて、(と云ひながら私の方をちらりと見た。)別に責任は感じません。が、まあ成るたけなら、しつかりやつ
て呉れるんですな。それは運不運はありますよ。けれども最善さへ盡せば、大抵うまく行くものですからね。さう云ふと少し失禮だが、まあ堪忍して貰ふとして、健吉君の去年の失敗なぞも、一つに
は運も惡かつたと同時に、力を出し切らなかつたせゐだと僕は解釋してゐるんです。」
 私は何だか不快と恥辱から、何

0573名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:07:13.400
 薄暗い改札口に近く立つて、今着いた汽車から雜然と溢れ出た乘客の流れの中に、暫らくぶりで弟の元氣な顏を見出した時、私は鳥渡の間涙ぐましい氣になつた。私が認めると殆んど同時に
、弟の方でも私を見つけた。むつつりした弟の淺黒い頬にも、さすがに慕はしさうな表情があつた。
「どうだ元氣は。家では皆んな壯健かい。」私はさう挨拶の代りに云つた。
「ええ。」弟はかう簡單に答へながら、夕暮れかゝつた場内の雜沓を、驚いたやうに見てゐた。私はその田舍者らしい弟の樣子を、初めて兄らしい、先輩らしい感情で見た。
 二人は荷物を受取ると、俥を雇つて千駄木の家へ向つた。俥は池の端を通つた。花曇りの空は暮れ早く、不忍池の水面には、花明りの處々した上野の杜からかけて、蒼茫たる色に蔽はれながら、
博覽會の裝飾電燈を夢のやうに映してゐた。去年の自分に引比べて、俥上の弟はさぞ心をときめかせてゐるだらうと思つた。
 義兄の家では例によつて、初めての上京を祝ふ食卓が待つてゐた。去年は自分のために在つた。今年は弟のために設けられたのだ。私は妙な感慨を以て、眼に痛いほど白い卓布を、特別にか
けた餉臺とその中央の花瓶へ、姉が趣味ありげに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した、緋桃の小枝をぢつと眺めた。
 義兄はいつもの通り快活だつた。姉は姉らしい温情を、只管弟に見せようとしてゐた。
「健次さん、おまへさんは子供の時分から、きんとんが好きだつたから、西洋料理とはつかないけれどわざわざわたしが拵へたのよ。」姉はそんな事を云つて料理を進めた。
 兄は麥酒のコツプを差出しながら、こんな事を云ひ初めた。「もう中學も出たんですから、一杯やつてもいゝでせう。兄の監督附きなんだから。――ところが此兄貴至つて無精者でね。監督なんぞ
迚も出來やしないんですよ。僕は全く無干渉主義ですからね。その代りあなた方が落第したつて、(と云ひながら私の方をちらりと見た。)別に責任は感じません。が、まあ成るたけなら、しつかりやつ
て呉れるんですな。それは運不運はありますよ。けれども最善さへ盡せば、大抵うまく行くものですからね。さう云ふと少し失禮だが、まあ堪忍して貰ふとして、健吉君の去年の失敗なぞも、一つに
は運も惡かつたと同時に、力を出し切らなかつたせゐだと僕は解釋してゐるんです。」
 私は何だか不快と恥辱から、何

0574名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:07:27.080
 薄暗い改札口に近く立つて、今着いた汽車から雜然と溢れ出た乘客の流れの中に、暫らくぶりで弟の元氣な顏を見出した時、私は鳥渡の間涙ぐましい氣になつた。私が認めると殆んど同時に
、弟の方でも私を見つけた。むつつりした弟の淺黒い頬にも、さすがに慕はしさうな表情があつた。
「どうだ元氣は。家では皆んな壯健かい。」私はさう挨拶の代りに云つた。
「ええ。」弟はかう簡單に答へながら、夕暮れかゝつた場内の雜沓を、驚いたやうに見てゐた。私はその田舍者らしい弟の樣子を、初めて兄らしい、先輩らしい感情で見た。
 二人は荷物を受取ると、俥を雇つて千駄木の家へ向つた。俥は池の端を通つた。花曇りの空は暮れ早く、不忍池の水面には、花明りの處々した上野の杜からかけて、蒼茫たる色に蔽はれながら、
博覽會の裝飾電燈を夢のやうに映してゐた。去年の自分に引比べて、俥上の弟はさぞ心をときめかせてゐるだらうと思つた。
 義兄の家では例によつて、初めての上京を祝ふ食卓が待つてゐた。去年は自分のために在つた。今年は弟のために設けられたのだ。私は妙な感慨を以て、眼に痛いほど白い卓布を、特別にか
けた餉臺とその中央の花瓶へ、姉が趣味ありげに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した、緋桃の小枝をぢつと眺めた。
 義兄はいつもの通り快活だつた。姉は姉らしい温情を、只管弟に見せようとしてゐた。
「健次さん、おまへさんは子供の時分から、きんとんが好きだつたから、西洋料理とはつかないけれどわざわざわたしが拵へたのよ。」姉はそんな事を云つて料理を進めた。
 兄は麥酒のコツプを差出しながら、こんな事を云ひ初めた。「もう中學も出たんですから、一杯やつてもいゝでせう。兄の監督附きなんだから。――ところが此兄貴至つて無精者でね。監督なんぞ
迚も出來やしないんですよ。僕は全く無干渉主義ですからね。その代りあなた方が落第したつて、(と云ひながら私の方をちらりと見た。)別に責任は感じません。が、まあ成るたけなら、しつかりやつ
て呉れるんですな。それは運不運はありますよ。けれども最善さへ盡せば、大抵うまく行くものですからね。さう云ふと少し失禮だが、まあ堪忍して貰ふとして、健吉君の去年の失敗なぞも、一つに
は運も惡かつたと同時に、力を出し切らなかつたせゐだと僕は解釋してゐるんです。」
 私は何だか不快と恥辱から、何

0575名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:07:37.410
 薄暗い改札口に近く立つて、今着いた汽車から雜然と溢れ出た乘客の流れの中に、暫らくぶりで弟の元氣な顏を見出した時、私は鳥渡の間涙ぐましい氣になつた。私が認めると殆んど同時に
、弟の方でも私を見つけた。むつつりした弟の淺黒い頬にも、さすがに慕はしさうな表情があつた。
「どうだ元氣は。家では皆んな壯健かい。」私はさう挨拶の代りに云つた。
「ええ。」弟はかう簡單に答へながら、夕暮れかゝつた場内の雜沓を、驚いたやうに見てゐた。私はその田舍者らしい弟の樣子を、初めて兄らしい、先輩らしい感情で見た。
 二人は荷物を受取ると、俥を雇つて千駄木の家へ向つた。俥は池の端を通つた。花曇りの空は暮れ早く、不忍池の水面には、花明りの處々した上野の杜からかけて、蒼茫たる色に蔽はれながら、
博覽會の裝飾電燈を夢のやうに映してゐた。去年の自分に引比べて、俥上の弟はさぞ心をときめかせてゐるだらうと思つた。
 義兄の家では例によつて、初めての上京を祝ふ食卓が待つてゐた。去年は自分のために在つた。今年は弟のために設けられたのだ。私は妙な感慨を以て、眼に痛いほど白い卓布を、特別にか
けた餉臺とその中央の花瓶へ、姉が趣味ありげに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した、緋桃の小枝をぢつと眺めた。
 義兄はいつもの通り快活だつた。姉は姉らしい温情を、只管弟に見せようとしてゐた。
「健次さん、おまへさんは子供の時分から、きんとんが好きだつたから、西洋料理とはつかないけれどわざわざわたしが拵へたのよ。」姉はそんな事を云つて料理を進めた。
 兄は麥酒のコツプを差出しながら、こんな事を云ひ初めた。「もう中學も出たんですから、一杯やつてもいゝでせう。兄の監督附きなんだから。――ところが此兄貴至つて無精者でね。監督なんぞ
迚も出來やしないんですよ。僕は全く無干渉主義ですからね。その代りあなた方が落第したつて、(と云ひながら私の方をちらりと見た。)別に責任は感じません。が、まあ成るたけなら、しつかりやつ
て呉れるんですな。それは運不運はありますよ。けれども最善さへ盡せば、大抵うまく行くものですからね。さう云ふと少し失禮だが、まあ堪忍して貰ふとして、健吉君の去年の失敗なぞも、一つに
は運も惡かつたと同時に、力を出し切らなかつたせゐだと僕は解釋してゐるんです。」
 私は何だか不快と恥辱から、何

0576名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:11:51.770
時には二人で數學の難問なぞを見つけて、競爭的に解いたりする事もあつた。すると大抵私の方が早く考へついた。そんな時は何となく自信がついたやうな氣がした。併し松井を標準にしてゐる安心が甚だ危險なものである事は私も知つ
てゐた。知つてゐながら、知らず識らずに私はその自信にすら驕つた。
 或る時かう云ふ事があつた。松井が或る友達の處へ行つて、幾何の難問を一つ聞いて來た。それはその數學に得意な友人さへ、解き得ずに苦しんでゐたものだつた。
「どうだい。君も考へて見ないかい。是が出來れば數學の實力はもう大丈夫だぜ。」松井はかう云つて私を誘つた。彼のその顏には、私も大方出來ないだらうと云ふ、豫期があり/\現はれてゐた。
「それぢや一つやつて見ようか。」私はさう云つて問題を取り上げた。なるほどどこから手を附けていゝか解らないやうな難問だつた。私は一人で自分の室へ來て、その午後中考へぬいた。勿論頭の重いのは癒つてゐなかつたので、久しく
思考を費してゐると、とう/\ボンヤリして了つた。そこでぶらりと散歩に出た。それでも問題は頭にこびり附いてゐた。一と通り江戸川端を歩いて、水道端から小日向臺へ上らうとした。その時寺へ歸る坂の途中で、ふとその解き方の端緒が浮ん
だ。自分は小躍りした。そして急いで室へ歸ると、新らしい作圖を引いてやつてみた。やうやく解けた! 私は急いで次の間にゐる松井に呼びかけた。
「おい出來たよ。やつと考へついた。」
「さうか。どうやるんだ。」松井は別に驚嘆もしないで、さう云ひながら入つて來た。
 私は得意になつて説明してやつた。松井は「うむ、うむ」と云つて聞いてゐた。そして解き終つた時、
「成程なか/\面倒だね。」と云ひながら、まだよくは飮み込めてゐないらしく、作圖をと見かう見してゐた。私の氣持はいつになく晴れやかだつた。
 その二三日後だつた。私は散歩の序に義兄の家に寄つた。弟は相變らずむつつりと、机の前に坐つてゐた。
「どうだ勉強は。盛んにやつてるかい。」私は訊ねてみた。
「えゝ。何だかこの頃は少しだれ氣味で困ります。この間から一日十二時間勵行の日課を立てたんですが、なか/\時間割通りに行かないんで、姉さんに笑はれました。精々やつて十時間ですね。」
「そんなにやれるものか。」私は尠からず驚きながら反問した。
「だつて六時に起きて夜の十一時までやつて御覽なさい

0577名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:12:28.690
時には二人で數學の難問なぞを見つけて、競爭的に解いたりする事もあつた。すると大抵私の方が早く考へついた。そんな時は何となく自信がついたやうな氣がした。併し松井を標準にしてゐる安心が甚だ危險なものである事は私も知つ
てゐた。知つてゐながら、知らず識らずに私はその自信にすら驕つた。
 或る時かう云ふ事があつた。松井が或る友達の處へ行つて、幾何の難問を一つ聞いて來た。それはその數學に得意な友人さへ、解き得ずに苦しんでゐたものだつた。
「どうだい。君も考へて見ないかい。是が出來れば數學の實力はもう大丈夫だぜ。」松井はかう云つて私を誘つた。彼のその顏には、私も大方出來ないだらうと云ふ、豫期があり/\現はれてゐた。
「それぢや一つやつて見ようか。」私はさう云つて問題を取り上げた。なるほどどこから手を附けていゝか解らないやうな難問だつた。私は一人で自分の室へ來て、その午後中考へぬいた。勿論頭の重いのは癒つてゐなかつたので、久しく
思考を費してゐると、とう/\ボンヤリして了つた。そこでぶらりと散歩に出た。それでも問題は頭にこびり附いてゐた。一と通り江戸川端を歩いて、水道端から小日向臺へ上らうとした。その時寺へ歸る坂の途中で、ふとその解き方の端緒が浮ん
だ。自分は小躍りした。そして急いで室へ歸ると、新らしい作圖を引いてやつてみた。やうやく解けた! 私は急いで次の間にゐる松井に呼びかけた。
「おい出來たよ。やつと考へついた。」
「さうか。どうやるんだ。」松井は別に驚嘆もしないで、さう云ひながら入つて來た。
 私は得意になつて説明してやつた。松井は「うむ、うむ」と云つて聞いてゐた。そして解き終つた時、
「成程なか/\面倒だね。」と云ひながら、まだよくは飮み込めてゐないらしく、作圖をと見かう見してゐた。私の氣持はいつになく晴れやかだつた。
 その二三日後だつた。私は散歩の序に義兄の家に寄つた。弟は相變らずむつつりと、机の前に坐つてゐた。
「どうだ勉強は。盛んにやつてるかい。」私は訊ねてみた。
「えゝ。何だかこの頃は少しだれ氣味で困ります。この間から一日十二時間勵行の日課を立てたんですが、なか/\時間割通りに行かないんで、姉さんに笑はれました。精々やつて十時間ですね。」
「そんなにやれるものか。」私は尠からず驚きながら反問した。
「だつて六時に起きて夜の十一時までやつて御覽なさい

0578名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:12:36.690
時には二人で數學の難問なぞを見つけて、競爭的に解いたりする事もあつた。すると大抵私の方が早く考へついた。そんな時は何となく自信がついたやうな氣がした。併し松井を標準にしてゐる安心が甚だ危險なものである事は私も知つ
てゐた。知つてゐながら、知らず識らずに私はその自信にすら驕つた。
 或る時かう云ふ事があつた。松井が或る友達の處へ行つて、幾何の難問を一つ聞いて來た。それはその數學に得意な友人さへ、解き得ずに苦しんでゐたものだつた。
「どうだい。君も考へて見ないかい。是が出來れば數學の實力はもう大丈夫だぜ。」松井はかう云つて私を誘つた。彼のその顏には、私も大方出來ないだらうと云ふ、豫期があり/\現はれてゐた。
「それぢや一つやつて見ようか。」私はさう云つて問題を取り上げた。なるほどどこから手を附けていゝか解らないやうな難問だつた。私は一人で自分の室へ來て、その午後中考へぬいた。勿論頭の重いのは癒つてゐなかつたので、久しく
思考を費してゐると、とう/\ボンヤリして了つた。そこでぶらりと散歩に出た。それでも問題は頭にこびり附いてゐた。一と通り江戸川端を歩いて、水道端から小日向臺へ上らうとした。その時寺へ歸る坂の途中で、ふとその解き方の端緒が浮ん
だ。自分は小躍りした。そして急いで室へ歸ると、新らしい作圖を引いてやつてみた。やうやく解けた! 私は急いで次の間にゐる松井に呼びかけた。
「おい出來たよ。やつと考へついた。」
「さうか。どうやるんだ。」松井は別に驚嘆もしないで、さう云ひながら入つて來た。
 私は得意になつて説明してやつた。松井は「うむ、うむ」と云つて聞いてゐた。そして解き終つた時、
「成程なか/\面倒だね。」と云ひながら、まだよくは飮み込めてゐないらしく、作圖をと見かう見してゐた。私の氣持はいつになく晴れやかだつた。
 その二三日後だつた。私は散歩の序に義兄の家に寄つた。弟は相變らずむつつりと、机の前に坐つてゐた。
「どうだ勉強は。盛んにやつてるかい。」私は訊ねてみた。
「えゝ。何だかこの頃は少しだれ氣味で困ります。この間から一日十二時間勵行の日課を立てたんですが、なか/\時間割通りに行かないんで、姉さんに笑はれました。精々やつて十時間ですね。」
「そんなにやれるものか。」私は尠からず驚きながら反問した。
「だつて六時に起きて夜の十一時までやつて御覽なさい

0579名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:12:45.590
時には二人で數學の難問なぞを見つけて、競爭的に解いたりする事もあつた。すると大抵私の方が早く考へついた。そんな時は何となく自信がついたやうな氣がした。併し松井を標準にしてゐる安心が甚だ危險なものである事は私も知つ
てゐた。知つてゐながら、知らず識らずに私はその自信にすら驕つた。
 或る時かう云ふ事があつた。松井が或る友達の處へ行つて、幾何の難問を一つ聞いて來た。それはその數學に得意な友人さへ、解き得ずに苦しんでゐたものだつた。
「どうだい。君も考へて見ないかい。是が出來れば數學の實力はもう大丈夫だぜ。」松井はかう云つて私を誘つた。彼のその顏には、私も大方出來ないだらうと云ふ、豫期があり/\現はれてゐた。
「それぢや一つやつて見ようか。」私はさう云つて問題を取り上げた。なるほどどこから手を附けていゝか解らないやうな難問だつた。私は一人で自分の室へ來て、その午後中考へぬいた。勿論頭の重いのは癒つてゐなかつたので、久しく
思考を費してゐると、とう/\ボンヤリして了つた。そこでぶらりと散歩に出た。それでも問題は頭にこびり附いてゐた。一と通り江戸川端を歩いて、水道端から小日向臺へ上らうとした。その時寺へ歸る坂の途中で、ふとその解き方の端緒が浮ん
だ。自分は小躍りした。そして急いで室へ歸ると、新らしい作圖を引いてやつてみた。やうやく解けた! 私は急いで次の間にゐる松井に呼びかけた。
「おい出來たよ。やつと考へついた。」
「さうか。どうやるんだ。」松井は別に驚嘆もしないで、さう云ひながら入つて來た。
 私は得意になつて説明してやつた。松井は「うむ、うむ」と云つて聞いてゐた。そして解き終つた時、
「成程なか/\面倒だね。」と云ひながら、まだよくは飮み込めてゐないらしく、作圖をと見かう見してゐた。私の氣持はいつになく晴れやかだつた。
 その二三日後だつた。私は散歩の序に義兄の家に寄つた。弟は相變らずむつつりと、机の前に坐つてゐた。
「どうだ勉強は。盛んにやつてるかい。」私は訊ねてみた。
「えゝ。何だかこの頃は少しだれ氣味で困ります。この間から一日十二時間勵行の日課を立てたんですが、なか/\時間割通りに行かないんで、姉さんに笑はれました。精々やつて十時間ですね。」
「そんなにやれるものか。」私は尠からず驚きながら反問した。
「だつて六時に起きて夜の十一時までやつて御覽なさい

0580名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:12:53.620
時には二人で數學の難問なぞを見つけて、競爭的に解いたりする事もあつた。すると大抵私の方が早く考へついた。そんな時は何となく自信がついたやうな氣がした。併し松井を標準にしてゐる安心が甚だ危險なものである事は私も知つ
てゐた。知つてゐながら、知らず識らずに私はその自信にすら驕つた。
 或る時かう云ふ事があつた。松井が或る友達の處へ行つて、幾何の難問を一つ聞いて來た。それはその數學に得意な友人さへ、解き得ずに苦しんでゐたものだつた。
「どうだい。君も考へて見ないかい。是が出來れば數學の實力はもう大丈夫だぜ。」松井はかう云つて私を誘つた。彼のその顏には、私も大方出來ないだらうと云ふ、豫期があり/\現はれてゐた。
「それぢや一つやつて見ようか。」私はさう云つて問題を取り上げた。なるほどどこから手を附けていゝか解らないやうな難問だつた。私は一人で自分の室へ來て、その午後中考へぬいた。勿論頭の重いのは癒つてゐなかつたので、久しく
思考を費してゐると、とう/\ボンヤリして了つた。そこでぶらりと散歩に出た。それでも問題は頭にこびり附いてゐた。一と通り江戸川端を歩いて、水道端から小日向臺へ上らうとした。その時寺へ歸る坂の途中で、ふとその解き方の端緒が浮ん
だ。自分は小躍りした。そして急いで室へ歸ると、新らしい作圖を引いてやつてみた。やうやく解けた! 私は急いで次の間にゐる松井に呼びかけた。
「おい出來たよ。やつと考へついた。」
「さうか。どうやるんだ。」松井は別に驚嘆もしないで、さう云ひながら入つて來た。
 私は得意になつて説明してやつた。松井は「うむ、うむ」と云つて聞いてゐた。そして解き終つた時、
「成程なか/\面倒だね。」と云ひながら、まだよくは飮み込めてゐないらしく、作圖をと見かう見してゐた。私の氣持はいつになく晴れやかだつた。
 その二三日後だつた。私は散歩の序に義兄の家に寄つた。弟は相變らずむつつりと、机の前に坐つてゐた。
「どうだ勉強は。盛んにやつてるかい。」私は訊ねてみた。
「えゝ。何だかこの頃は少しだれ氣味で困ります。この間から一日十二時間勵行の日課を立てたんですが、なか/\時間割通りに行かないんで、姉さんに笑はれました。精々やつて十時間ですね。」
「そんなにやれるものか。」私は尠からず驚きながら反問した。
「だつて六時に起きて夜の十一時までやつて御覽なさい

0581名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:13:00.930
時には二人で數學の難問なぞを見つけて、競爭的に解いたりする事もあつた。すると大抵私の方が早く考へついた。そんな時は何となく自信がついたやうな氣がした。併し松井を標準にしてゐる安心が甚だ危險なものである事は私も知つ
てゐた。知つてゐながら、知らず識らずに私はその自信にすら驕つた。
 或る時かう云ふ事があつた。松井が或る友達の處へ行つて、幾何の難問を一つ聞いて來た。それはその數學に得意な友人さへ、解き得ずに苦しんでゐたものだつた。
「どうだい。君も考へて見ないかい。是が出來れば數學の實力はもう大丈夫だぜ。」松井はかう云つて私を誘つた。彼のその顏には、私も大方出來ないだらうと云ふ、豫期があり/\現はれてゐた。
「それぢや一つやつて見ようか。」私はさう云つて問題を取り上げた。なるほどどこから手を附けていゝか解らないやうな難問だつた。私は一人で自分の室へ來て、その午後中考へぬいた。勿論頭の重いのは癒つてゐなかつたので、久しく
思考を費してゐると、とう/\ボンヤリして了つた。そこでぶらりと散歩に出た。それでも問題は頭にこびり附いてゐた。一と通り江戸川端を歩いて、水道端から小日向臺へ上らうとした。その時寺へ歸る坂の途中で、ふとその解き方の端緒が浮ん
だ。自分は小躍りした。そして急いで室へ歸ると、新らしい作圖を引いてやつてみた。やうやく解けた! 私は急いで次の間にゐる松井に呼びかけた。
「おい出來たよ。やつと考へついた。」
「さうか。どうやるんだ。」松井は別に驚嘆もしないで、さう云ひながら入つて來た。
 私は得意になつて説明してやつた。松井は「うむ、うむ」と云つて聞いてゐた。そして解き終つた時、
「成程なか/\面倒だね。」と云ひながら、まだよくは飮み込めてゐないらしく、作圖をと見かう見してゐた。私の氣持はいつになく晴れやかだつた。
 その二三日後だつた。私は散歩の序に義兄の家に寄つた。弟は相變らずむつつりと、机の前に坐つてゐた。
「どうだ勉強は。盛んにやつてるかい。」私は訊ねてみた。
「えゝ。何だかこの頃は少しだれ氣味で困ります。この間から一日十二時間勵行の日課を立てたんですが、なか/\時間割通りに行かないんで、姉さんに笑はれました。精々やつて十時間ですね。」
「そんなにやれるものか。」私は尠からず驚きながら反問した。
「だつて六時に起きて夜の十一時までやつて御覽なさい

0582名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:13:42.720
 かう云ふ間にも、澄子さんの事は忘れられなかつた。
 日曜日毎には、私もきつと午前から義兄の家へ遊びに行つた。そして午後から澄子さんの來るのを待つた。併しさう繁々、澄子さんの來る日のみ目がけて、千駄木へ
行く事は氣がひけた。それで時々は他の日も訪れた。日曜日にも行き度いのを抑へて、三度に一度は我慢した。併しそんな日は家にゐても、少しも勉強が手につかなかつた。どうかするとかけ
違つて、二度も續けて澄子さんに會へない事があつた。或る日は私の行き方が遲かつた。
「先刻まで澄子さんがゐたんだけれど、三時からお友達のお宅へ行くんだつて、一時間ばかりゐて歸つて行つたよ。」と姉は私を見て微笑みながら低くつけ加へた。「お氣の毒さま……」
「馬鹿な。――」私は紅くなつて物が云へなかつた。
「澄子さんはこの頃健吉さんに久しくお目にかゝらないが、どうかしたかつて聞いてたよ。」
 姉は私のぽつとなるのを面白がつて追窮するらしかつた。私は内心それが嬉しかつた。
「僕だつてこの頃は勉強してゐるんですよ。」私はさう云ひながら、今迄の不勉強を自分で恥かしがつた。これからはきつと勉強しようと思つた。
 姉は猶も續けて同じ話に固執した。
「だけれど健吉ちやんも氣をお附けなさい。あの子はそれあ無邪氣なんですから。誰とでもすぐお友達になるのよ。健次さんとだつて、もう兄弟のやうに仲がよくつてよ。」
 私はどきりとした。姉の警告には私のぼんやり怖れてゐるものがあつたからだ。けれども私はさりげなく答へた。
「僕は別に何とも思つてやしないんですから、大丈夫ですよ。だから姉さんなんぞ、いくら冷かしたつて駄目です。」
 姉は眼で笑つて答へなかつた。
 實際弟と澄子さんとは、僕が寺へ移つて以來、特に親しくなつたやうに、私には感ぜられた。併しそれを私は自分の僻みだと思ひ返してゐた。弟はいつも家にゐるし、私は
外にゐるので、會ふ機會が自然弟の方に多くなると云ふ、位置の上からのみ生じた、何でもない親しさだと解釋してゐた。併し戀はさう云ふ位置からの
み生ずる、とも思つた。そして少しは不安を感じてゐた。
 二人の親しさを裏書する實例には、私も今迄一つ二つ出會つてゐた。

0583名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:13:58.400
 かう云ふ間にも、澄子さんの事は忘れられなかつた。
 日曜日毎には、私もきつと午前から義兄の家へ遊びに行つた。そして午後から澄子さんの來るのを待つた。併しさう繁々、澄子さんの來る日のみ目がけて、千駄木へ
行く事は氣がひけた。それで時々は他の日も訪れた。日曜日にも行き度いのを抑へて、三度に一度は我慢した。併しそんな日は家にゐても、少しも勉強が手につかなかつた。どうかするとかけ
違つて、二度も續けて澄子さんに會へない事があつた。或る日は私の行き方が遲かつた。
「先刻まで澄子さんがゐたんだけれど、三時からお友達のお宅へ行くんだつて、一時間ばかりゐて歸つて行つたよ。」と姉は私を見て微笑みながら低くつけ加へた。「お氣の毒さま……」
「馬鹿な。――」私は紅くなつて物が云へなかつた。
「澄子さんはこの頃健吉さんに久しくお目にかゝらないが、どうかしたかつて聞いてたよ。」
 姉は私のぽつとなるのを面白がつて追窮するらしかつた。私は内心それが嬉しかつた。
「僕だつてこの頃は勉強してゐるんですよ。」私はさう云ひながら、今迄の不勉強を自分で恥かしがつた。これからはきつと勉強しようと思つた。
 姉は猶も續けて同じ話に固執した。
「だけれど健吉ちやんも氣をお附けなさい。あの子はそれあ無邪氣なんですから。誰とでもすぐお友達になるのよ。健次さんとだつて、もう兄弟のやうに仲がよくつてよ。」
 私はどきりとした。姉の警告には私のぼんやり怖れてゐるものがあつたからだ。けれども私はさりげなく答へた。
「僕は別に何とも思つてやしないんですから、大丈夫ですよ。だから姉さんなんぞ、いくら冷かしたつて駄目です。」
 姉は眼で笑つて答へなかつた。
 實際弟と澄子さんとは、僕が寺へ移つて以來、特に親しくなつたやうに、私には感ぜられた。併しそれを私は自分の僻みだと思ひ返してゐた。弟はいつも家にゐるし、私は
外にゐるので、會ふ機會が自然弟の方に多くなると云ふ、位置の上からのみ生じた、何でもない親しさだと解釋してゐた。併し戀はさう云ふ位置からの
み生ずる、とも思つた。そして少しは不安を感じてゐた。
 二人の親しさを裏書する實例には、私も今迄一つ二つ出會つてゐた。

0584名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:14:09.500
 かう云ふ間にも、澄子さんの事は忘れられなかつた。
 日曜日毎には、私もきつと午前から義兄の家へ遊びに行つた。そして午後から澄子さんの來るのを待つた。併しさう繁々、澄子さんの來る日のみ目がけて、千駄木へ
行く事は氣がひけた。それで時々は他の日も訪れた。日曜日にも行き度いのを抑へて、三度に一度は我慢した。併しそんな日は家にゐても、少しも勉強が手につかなかつた。どうかするとかけ
違つて、二度も續けて澄子さんに會へない事があつた。或る日は私の行き方が遲かつた。
「先刻まで澄子さんがゐたんだけれど、三時からお友達のお宅へ行くんだつて、一時間ばかりゐて歸つて行つたよ。」と姉は私を見て微笑みながら低くつけ加へた。「お氣の毒さま……」
「馬鹿な。――」私は紅くなつて物が云へなかつた。
「澄子さんはこの頃健吉さんに久しくお目にかゝらないが、どうかしたかつて聞いてたよ。」
 姉は私のぽつとなるのを面白がつて追窮するらしかつた。私は内心それが嬉しかつた。
「僕だつてこの頃は勉強してゐるんですよ。」私はさう云ひながら、今迄の不勉強を自分で恥かしがつた。これからはきつと勉強しようと思つた。
 姉は猶も續けて同じ話に固執した。
「だけれど健吉ちやんも氣をお附けなさい。あの子はそれあ無邪氣なんですから。誰とでもすぐお友達になるのよ。健次さんとだつて、もう兄弟のやうに仲がよくつてよ。」
 私はどきりとした。姉の警告には私のぼんやり怖れてゐるものがあつたからだ。けれども私はさりげなく答へた。
「僕は別に何とも思つてやしないんですから、大丈夫ですよ。だから姉さんなんぞ、いくら冷かしたつて駄目です。」
 姉は眼で笑つて答へなかつた。
 實際弟と澄子さんとは、僕が寺へ移つて以來、特に親しくなつたやうに、私には感ぜられた。併しそれを私は自分の僻みだと思ひ返してゐた。弟はいつも家にゐるし、私は
外にゐるので、會ふ機會が自然弟の方に多くなると云ふ、位置の上からのみ生じた、何でもない親しさだと解釋してゐた。併し戀はさう云ふ位置からの
み生ずる、とも思つた。そして少しは不安を感じてゐた。
 二人の親しさを裏書する實例には、私も今迄一つ二つ出會つてゐた。

0585名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:14:27.240
 かう云ふ間にも、澄子さんの事は忘れられなかつた。
 日曜日毎には、私もきつと午前から義兄の家へ遊びに行つた。そして午後から澄子さんの來るのを待つた。併しさう繁々、澄子さんの來る日のみ目がけて、千駄木へ
行く事は氣がひけた。それで時々は他の日も訪れた。日曜日にも行き度いのを抑へて、三度に一度は我慢した。併しそんな日は家にゐても、少しも勉強が手につかなかつた。どうかするとかけ
違つて、二度も續けて澄子さんに會へない事があつた。或る日は私の行き方が遲かつた。
「先刻まで澄子さんがゐたんだけれど、三時からお友達のお宅へ行くんだつて、一時間ばかりゐて歸つて行つたよ。」と姉は私を見て微笑みながら低くつけ加へた。「お氣の毒さま……」
「馬鹿な。――」私は紅くなつて物が云へなかつた。
「澄子さんはこの頃健吉さんに久しくお目にかゝらないが、どうかしたかつて聞いてたよ。」
 姉は私のぽつとなるのを面白がつて追窮するらしかつた。私は内心それが嬉しかつた。
「僕だつてこの頃は勉強してゐるんですよ。」私はさう云ひながら、今迄の不勉強を自分で恥かしがつた。これからはきつと勉強しようと思つた。
 姉は猶も續けて同じ話に固執した。
「だけれど健吉ちやんも氣をお附けなさい。あの子はそれあ無邪氣なんですから。誰とでもすぐお友達になるのよ。健次さんとだつて、もう兄弟のやうに仲がよくつてよ。」
 私はどきりとした。姉の警告には私のぼんやり怖れてゐるものがあつたからだ。けれども私はさりげなく答へた。
「僕は別に何とも思つてやしないんですから、大丈夫ですよ。だから姉さんなんぞ、いくら冷かしたつて駄目です。」
 姉は眼で笑つて答へなかつた。
 實際弟と澄子さんとは、僕が寺へ移つて以來、特に親しくなつたやうに、私には感ぜられた。併しそれを私は自分の僻みだと思ひ返してゐた。弟はいつも家にゐるし、私は
外にゐるので、會ふ機會が自然弟の方に多くなると云ふ、位置の上からのみ生じた、何でもない親しさだと解釋してゐた。併し戀はさう云ふ位置からの
み生ずる、とも思つた。そして少しは不安を感じてゐた。
 二人の親しさを裏書する實例には、私も今迄一つ二つ出會つてゐた。

0586名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:15:25.290
又或る時はかう云ふ事もあつた。その日私は午後になるとすぐ千駄木へ出掛けた。彼女の來るのも大抵晝過ぎだつたから、今日はゆつくり會へるに違ひないと思つて行つた。すると電車を下りてから、義兄の家の方へ曲る横町で、私は見覺えのあ
る緑の日傘を認めた。それは遠くから此方へ向つて歩いて來た。初めは人違ひかと疑つた。が斜に傾げた日傘の下に、顏は殆んど隱れてゐるが、肩から下へかけての輪郭と、足どりには私の見逃せない彼女の特長があつた。私は遠くからそれを見
つけると、動悸の高まるのを意識しながら、さりげなく歩き進んだ。五六間の處で向うも自分を認めた。すると彼女はくるりと背後を振り向いた。そして背後の誰かに合圖するやうな事をした。その途端に私は彼女の後から、弟が困つたやうな顏で從いて來
るのを見た。私は咄嗟にはつと思つて立ちすくんだ。全身の血が一度に心臟へ衝いて來た。がその次の瞬間には、強ひて僞つた平靜の中に歩み寄つてゐた。三人は――互に向ひ合つて歩きつゝ、間隔を狹めてゐる私た弟とは、彼女を中心に道の中央でひたと顏を合せた、初夏の日はひつそりと光を降らして、土には物の影が濃かつた。
「もうお歸りですか。」私は聲を落着けて彼女に訊ねた。唇が獨りでに痙攣つた。

「えゝ、今日は朝から行つてたの。」彼女はいつものやうに平然と答へた。「それに今日は家に用があるのよ。――だから歸らうと思つてゐた處へ、健次さんが買物に出ると云ふから、そこまで送つて來て貰つたの。――だけど健次さんは妙な人よ。わざ/
\私を送つて來るつて云ひながら、戸外へ出ると後から離れて歩くんですもの。」
「一緒に歩くのは厭ですよ。知つた人に會ふといけないから。」弟はもつと無邪氣に云ひ譯した。
「どこまで行くんだ。」私は弟に訊ねた。それは思はず詰問するやうな口調だつた。
「そこの通りまで。」
「さうか。ぢや行つておいで。――それぢや澄子さん、左樣なら。」私は胸でわく/\しながら、さりげなく二人に一揖した。
「左樣なら、又今度の日曜にね。」澄子さんは鳥渡甘えるやうに傘の中の首を傾げた。
 私は二人を後に歩み去つた。がその足どりは性急だつた。眞晝の人通りの多い街中で、胸の中は嫉妬に充ちてゐた。私はかつとした日の光の外、他の何物をも見なかつた。
 義兄の家に着いた時は、それでも幾らか氣が靜まつた。そして姉の話を聞くとすつかり平ら

0587名無しさん@明日があるさ2019/06/26(水) 21:15:33.810
又或る時はかう云ふ事もあつた。その日私は午後になるとすぐ千駄木へ出掛けた。彼女の來るのも大抵晝過ぎだつたから、今日はゆつくり會へるに違ひないと思つて行つた。すると電車を下りてから、義兄の家の方へ曲る横町で、私は見覺えのあ
る緑の日傘を認めた。それは遠くから此方へ向つて歩いて來た。初めは人違ひかと疑つた。が斜に傾げた日傘の下に、顏は殆んど隱れてゐるが、肩から下へかけての輪郭と、足どりには私の見逃せない彼女の特長があつた。私は遠くからそれを見
つけると、動悸の高まるのを意識しながら、さりげなく歩き進んだ。五六間の處で向うも自分を認めた。すると彼女はくるりと背後を振り向いた。そして背後の誰かに合圖するやうな事をした。その途端に私は彼女の後から、弟が困つたやうな顏で從いて來
るのを見た。私は咄嗟にはつと思つて立ちすくんだ。全身の血が一度に心臟へ衝いて來た。がその次の瞬間には、強ひて僞つた平靜の中に歩み寄つてゐた。三人は――互に向ひ合つて歩きつゝ、間隔を狹めてゐる私た弟とは、彼女を中心に道の中央でひたと顏を合せた、初夏の日はひつそりと光を降らして、土には物の影が濃かつた。
「もうお歸りですか。」私は聲を落着けて彼女に訊ねた。唇が獨りでに痙攣つた。

「えゝ、今日は朝から行つてたの。」彼女はいつものやうに平然と答へた。「それに今日は家に用があるのよ。――だから歸らうと思つてゐた處へ、健次さんが買物に出ると云ふから、そこまで送つて來て貰つたの。――だけど健次さんは妙な人よ。わざ/
\私を送つて來るつて云ひながら、戸外へ出ると後から離れて歩くんですもの。」
「一緒に歩くのは厭ですよ。知つた人に會ふといけないから。」弟はもつと無邪氣に云ひ譯した。
「どこまで行くんだ。」私は弟に訊ねた。それは思はず詰問するやうな口調だつた。
「そこの通りまで。」
「さうか。ぢや行つておいで。――それぢや澄子さん、左樣なら。」私は胸でわく/\しながら、さりげなく二人に一揖した。
「左樣なら、又今度の日曜にね。」澄子さんは鳥渡甘えるやうに傘の中の首を傾げた。
 私は二人を後に歩み去つた。がその足どりは性急だつた。眞晝の人通りの多い街中で、胸の中は嫉妬に充ちてゐた。私はかつとした日の光の外、他の何物をも見なかつた。
 義兄の家に着いた時は、それでも幾らか氣が靜まつた。そして姉の話を聞くとすつかり平ら

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