盃を交わして手を組んだ藤田と平田は、さらに兄弟分の輪を広げた。
5つもの組織のトップと、盃を交わしていったのだ。
直嶋義友会、藤原会、中島連合会、稲葉地一家、中泉一家である。
対山口組の同盟として、ますます大きな勢力になっていたのだ。

しかし、その後すぐに、第一次頂上作戦と呼ばれる警察の厳しい取り締まりが始まり、松葉会と本多会は解散してしまうことになるのだ。
山口組は、厳しい取り締まりにも耐え、解散には至らなかった。

とは言え、解散した組織は名称などを変え、再出発したケースも多い。
本多会は大日本平和会と名を変えて再出発し、松葉会も復活した。
しかしながら残念なことに、大日本平和会には本多会時代の強さはなく、構成員の数も少ないものだった。
平田勝市も引退し、実子である平田勝義が跡目を継いだ。

そんな中でも、大日本平和会副会長で、愛媛を拠点に至誠会を率いていた竹形剛は、全国に名を轟かせる存在だった。
「伊予に男あり」と言われ、他団体からも一目置かれていたのだ。
イチモツも置かれていただろう。
ヤクザとして一流だったのはもちろん、芸術の分野にも精通していた親分だった。
お股のほうの精通は、何歳でしたかは不明である。
この至誠会を取り締まるために、大日本平和会を指定暴力団にしたほどだ。
しかし、竹形の死去と同時に、大日本平和会の衰退はさらに加速。
1997年、大日本平和会はついに解散したのだ。

今回は、本多会と大日本平和会の話を、かいつまんでお送りした。
チンをつまみたくなるエピソードは少なめだったことはご了承願いたい。