Aleph 庚
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評論分が読めるようになるための近道は、
独特で難解な用語を根本から理解すること。
読解上欠かせない100語を厳選して収録。
定義およびその後が持っている思想的背景や、
押さえておきたい文脈などを複数提示する。
これらの用語を、ただ辞書どおりの意味ではなく、
もっと深い背景も含めて把握できれば、
評論文中での文脈をある程度推測する力がつくのではないか。
文章を読む<視点>が養える、「急がば回れ」を記述。 評論文の背景にあるものの考え方の基本を理解できるように、
こうした文章の書き手が前提にしている西洋の思想の伝統をさかのぼりながら
語意を考えるようにしている。
哲学的な解説が多い。
哲学というと面倒に思えるかもしれないが、
多くの文章は哲学の文脈を理解することで、
その意図するところがはっきりと見えてくるものだ。 各項目を読みながら、もっと新しい切り口や展開を考えて、
独自のバージョンを作ってもらえると、その用語がしっかりと身についてくると思う。 【アイデンティティ】
ポイント:
アイデンティティという語はそもそも、「この同じ(イデム)自分」という語から作られた。
アイデンティティを確立しているということは、この自分がどんな人間であるか、
自分が自分であり続けるというのはどういうことかを、自分がはっきりと納得しているということだ。 その根底には、自分がほかのだれでもなく、この自分であるのはなぜか、
世界にたった一人しかいない、自分にとってはかけがえのない自分であるのはどうしてか、
という大切な問いが含まれている。 切り口:
[顔]
人間のアイデンティティの最初の核になるものは何だろうか。
おそらくそれは顔だろう。
ぼくたちは自分だけの顔をもっている。
だからアイデンティティはまず、自分が自分だけの顔をもっているということに
かかっている。 でもとても皮肉なことなのだが、この顔というものは、自分には見えないものなのだ。
鏡に映っているぼくの顔は、ほかの人たちが見ている顔とは違うものだ。 アイデンティティの重要な要素であるこの顔をみずから見ることができないということは、
アイデンティティというものが、自分だけで確立できるものではないということを逆説的に
表現しているのだ。 自分がだれであるか、どんな人間であるかというのは、ぼくたちにとってはもっとも内的で、
他人とはかかわりのないものであるかのように思われるとしても、
その思い込みだけではアイデンティティは得られない。 自分のアイデンティティが、ほんとうに自分のもんとして納得できるためには、
ほかの人々から認められることが必要なのだ。 [名前]
同じことは名前についても言えるだろう。
だれもが自分の名前を大切にしている。
アイデンティティには「身元」という意味もある。 社会の中でぼくたちは、自分の名前で呼ばれることで、
自分が自分であることを確認しているし、納得することもできる。 それでいてこの名前というものにも奇妙な逆説がある。
名前というものはそんなに種類が多いわけじゃない。
同姓同名の人がたくさんいることは、電話帳で「小林秀雄」という名前を
探してみたらすぐにわかる。 評論家もいるし、画家もいるし、医者もいる。
みんな小林秀雄なのだ。 ここでも自己であることの核であるアイデンティティが、
社会のうちでの符号のようなものに託されていて、
社会の網の目の中でしか成立しないことが語られている。 [集団]
面倒なことは、ぼくたちは自分のアイデンティティを自分個人だけで
もっているわけではないということだ。 ときにある集団として、自分のアイデンティティを形成することもある。
家族や村のような共同体、武士のような身分が
このようなアイデンティティの核となることが多いが、
ときには国家のようなものもアイデンティティを生みだすことがあるのは、
オリンピックを考えてみればわかるだろう。 やがて他の星から人間とは異なる生物が到来したら、
地球人というのがアイデンティティの核になることだってあるだろう。 展開:
このアイデンティティというものは、
ぼくたちがかけがえのない自分であることの拠り所という重要な役割を
果たすものであるが、ときに<罠>をかける場合があることに注意しよう。 まずぼくたちはときに自分の自己性、アイデンティティを「確立する」ことに熱中すると、
自分の文化や伝統に思い入れをしたり、他なるアイデンティティを否定したり
するようになりかねない。 そもそもぼくたちに単一のアイデンティティがあると考えるのは、
間違いかもしれないのだ。 西洋の植民地では西洋の文化と現地の文化が複合して新しい文化が生まれた。
これをクレオールと呼んでいるので記憶しておいてほしい。
多なる文化が複合としてアイデンティティを構築している現代の文化と社会の
ありかたを示す概念だからだ。 日本の歴史の背後に、遠くペルシア、東南アジア、中国の長い歴史を思い浮かべて、
日本の文化の複合性を思い描いてみてはどうだろうか。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 走り書きで写したためレス2の評論「文」という正しい漢字、
レス22の行頭一文字スペースを空けてしまうケアレスミスをした。
今後もその様な事態は人間なので発生しかねない。
もしかすると気づかない部分もあるかもしれない。
気づいたら修正すべきだと指摘する。
(悠) ところで、何レスまでが保守可能なのだ?
もう少し書いてみるか。 【アイロニー】
ポイント:
ぼくたちはいつも自分の思うとおりのことを言うとは限らない。
思っていることと反対のことを言ったほうが、
相手がぼくの言いたいことがわかったりすることもある。
これがアイロニーだ。 黙れよ
もうそんな話聞きたくねえよ・・・
そういうの好きじゃない 皮肉やあてこすりなども、アイロニーの一種と言えるだろう。
道路に唾(つば)を吐いた友人に、
「君はなんとも礼儀をわきまえているね」
と言ったとしても、うっかりすると相手には通じないかもしれない。 それに濫用(らんよう)すると、嫌味な奴だと嫌われることもある。
もって回った言い方をしなくても、はっきり言ったらいいじゃないかと
反発されることもあるからだ。
なんとも言葉は難しい。 切り口:
[産婆術]
自分の考えていることと反対のことを言うことで、いったいどんないいことがあるだろう。
このアイロニーという語が生まれた歴史的な背景を考えてみると、
アイロニーを使うことは、相手にものを考えさせるすべとなることがわかる。 古代ギリシアの哲学者のソクラテスはポリスで知者として
知られている人々を次々と訪問した。 そしてたとえば美とはどういうものか、勇気とはどういうものか、
教えてほしいと頼んだのだ。
ぼくはまったく知らないからと。 すべての人に対してそう。。
ある意味あなたの欠陥なんだろうとは思うし、
それがあなただから嫌い 嫌いだけど、素晴らしい精神力とバランスと文句なんて
表立ってない行動力を持ってるよ 相手は勇(いさ)んでソクラテスに教えようとする。
すると知らないはずのソクラテスは、相手の言っていることに
矛盾があることを指摘する。
そして相手は、自分のうちに盲点があったこと、
知っていると思っていることを実はほんとうに知っていたわけではなかったことに気づくのだ。
ソクラテスはそのために「エイロニ」、
知っているのに知らんぷりをする奴と嫌われた。
ソクラテスが死刑にされたことの背景には、こうしたアイロニーの営みがあったわけだ。 でもこうしてソクラテスが作りだしたアイロニーという方法のおかげで、
そしてそれを記録した弟子のプラトンのおかげで、ポリスの住民たちと同じように、
ぼくたちは勇気とは何か、美とは何かをほんとうは知らないのではないか
という自覚に促される。
そして勇気とか美とかについて、自分でもう一度考えなおしてみようという
探究に誘われる。
これはアイロニーの力だ。
ソクラテスはアイロニーを駆使した対話によって、相手が知っていると思っていることを
実は知らなかったことに気づかせ、そこから真の知に向かって進ませようとした。
そして自分のことは真理を生みだすために手を貸す産婆のようなものだと考えていた。
アイロニーは産婆術でもある。 [真の認識]
ところでアイロニーには真理を生みだすだけでなく、
後になってその真理に気づかせるという皮肉な役割を果たすことがある。
たとえばぼくがそれまで長いあいだ親しくしてきた異性の友人に飽きて、
別れたいと思ったとする。そして
「こんな素敵な人と別れるなんて、ぼくはばかだよなぁ」
と言ったとする。 そのときぼくは本当に別れたいと思っているのだから、これはアイロニーの表現だ。
でも数年して、その人がほんとうにぼくのことを思って、
身をひいてくれたのだとわかったとしよう。
するとこのアイロニーの言葉は、実は真理だったことになる。
ぼくはその人と別れて、"ほんとうに"ばかだったのだ。
それがぼくの別れの言葉に含まれていたアイロニーなのだ。
こうしたアイロニーにおいては、見かけの表現と真実の事態が鋭く対立している。
そしてうわべだけの真実だと思われたことが、
実は真実だったことが明らかになるとき、
ぼくは自分の言葉のアイロニーの鋭さに大きな傷を負うことになる。 展開:
このようにアイロニーには創造的な力だけではなく、傷つける力がある。
アイロニーには鋭い棘(とげ)があるのだ。
アイロニーを語る人は、相手よりも高い目線から語ることが多いものだ。
でもアイロニーで相手を諫めようとしても、相手が反発を感じて
背を向けてしまったら、意味はなくなってしまう。
そんなときには、相手と同じ目線で語ろうとするユーモアやウィットを
用いたほうがいいのではないか、と考えてみるのも大切ではないだろうか。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 伸びるリードが出てから、もうめちゃくちゃ。
道路や歩道全部使って散歩。
犬が死んでも良いって考えなんだろう。 【アウラ】
ポイント:
キリスト教の聖画を見たことがあると思う。
聖者やイエスやマリアの頭の上に丸い輪のような後光がさしているよね。
あれがアウラなのだ。
周りの人々には後光が描かれていないので、
どこにでもいる人のように見えるけど、
アウラがついていると、特別な人、なにかありがたい人のように見えるはずだ。 切り口:
[個性]
聖者の絵では後光を書くことでアウラを表現することができたけれど、
現実の世界には後光をかついで歩いている人などいない。
でもぼくたちはある人とつきあっていて、その人に特別な力や強さを感じることがある。
その人が部屋に入ってくるだけで空気が変わってしまうという経験をすることがあるものだ。 これは個人的な愛着や印象だけに限るわけではない。
好きな人が部屋に入ってきたら、ぼくにとっては空気が変わるだろうけれど、
ほかの人にはその変化は感じられない。
アウラというのは、個人的な好みとは別に、
その人にかなり客観的に付着している力のようなものなのだ。
こうしたものをもっている人について、ぼくたちは
「あの人にはアウラ(オーラ)があるね」と認めるのだ。
ある種の強烈な個性でもある。 [オリジナル]
アウラという概念は、ドイツの哲学者のベンヤンミン(1892〜1940)のおかげで有名になった。
だからアウラという語が使われているときには、ベンヤミンの文脈も考えておく必要がある。
ベンヤミンはオリジナルな芸術と、複製された芸術の違いを強調するために、
複製ではないオリジナルな絵画には、アウラがあるが、
それが画集のように複製されたものだと、
ほんらいの作品のもつアウラが薄れてしまうことを指摘したのだ。 もちろん絵画の複製では原本の作品の肌理(きめ)も筆のタッチもほとんど再現できない。
かつて見たオリジナルの作品を思いだすために役立つくらいなのだ。
世界で唯一存在する作品のもつ「後光」が欠けているのは間違いない。
ただしベンヤミンはこの概念でたんにオリジナルの作品が優れていて、
複製の作品は価値が劣ることを主張したかったわけではない。
現代社会における大衆化の進行という、必ずしも悪くない効果が
あることも指摘していることを忘れないようにしよう。
高価な絵は秘蔵されてしまえば人の目から隠されるが、
画集であればだれにでも手に入れることができるだろう。
芸術はアウラを失うことで、現代にふさわしい大衆的なものとなった
という側面もあるわけだ。 [一回性]
アウラは芸術作品だけに登場するわけではない。
ぼくたちの生活においても、アウラが生まれることがある。
人間の生は一回限りで、二度と反復することができない性格のものだからだ。
たとえば秋の夕暮れに、真っ赤な夕日がつるべ落としのように沈んでゆくのを眺めながら、
二度と訪れないこの瞬間を享受することがある。
その瞬間に風景の中で自分の生の一回性を、まるで果物のように味わうことができるのだ。
その瞬間にぼくたちの生はアウラで満たされる。 このアウラは時が経っても消えないことがある。
夕日を眺めたのが、15歳の秋の法隆寺でのことだったら、
そしてその隣に大切な人がいたら、ぼくはその瞬間のことを
一生涯忘れないだろうし、その時刻の味を繰り返し味わうことができるだろう。
一回限りの生においてアウラは身体のうちに刻印されて、
繰り返し享受することができる大切な記憶とともに残されることもあるのだ。 展開:
ところで奇妙なことが発生する。
複製作品や技術的な工芸品でも、アウラが発生することがあるからだ。
ごく初期のコンピュータを考えてみよう。
博物館に収蔵されているコンピュータにはすでにアウラが発生している。
たとえばIBMがトイツで開発した初期のコンピュータは、まだ入力にカードを使う方式だが、
すでに歴史的な遺物としての雰囲気を漂わせている。
このコンピュータという量産品だけではなく、もはや稀少となった
このコンピュータの写真までが、不思議なアウラを放つのだ。
アウラのメカニズムにはまだ大きな謎が含まれている。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【アナロジー(類推)】
ポイント:
アナロジーは、異なる事物の間に、類似した関係を探そうとする。
古代のギリシアでは比例の関係で考えた。
2:4=7:Xなら、Xが14であることは、すぐにわかる。
同じような方法で、世界のさまざまな事象を、自分にとってなじみの事物からの
類推で理解しようとするのがアナロジーだ。
世界の認識は、この類推から始まるといってもいいだろう。
アナロジーは世界を認識したいという人間の欲望の表現なのだ。 切り口:
[モデル]
アナロジーは文学における比喩を作りだすだけでなく、
科学においても思考のモデルとして利用することができる。
たとえば原子核を取り巻く粒子の関係は、太陽系における太陽と諸惑星の関係を
モデルにして考えられることが多い。
そこでは中心にある重量の大きな物体が、重力を働かせて周囲の小さな物体をひきつけ、
回転させているからだ。
このアナロジーを宇宙に適用してみれば、その中心との距離と重力の大きさの関係から、
冥王星の行動を予測することなども可能になる。
アナロジーは科学において多くの発見をもたらす原動力となっているのだ。 [考えられないもの]
アナロジーは、ふつうの手段では考えられないものを考える手段として使われてきた。
たとえば、『聖書』でふつうには理解しがたいことが書かれていると、
ぼくたちが理解できるものに類推して解釈する長い伝統がある。
ただ文字どおりに読むだけでなく、ほかのものにあてはめても読まなければならない
とされてきたのだ。
それだけではなく、理解できないという事実に注目するためにアナロジーが使われることもある。
中世のキリスト教の神学では、神はぼくたちのあらゆる認識と創造の力をもってしても
認識できないものだと考えられていた。
その神の孤立した威力を思考するために、
神学者たちは「神とは……でないもの」という思考方法を採用した。
神について、人間や事物の類推から、さまざまな概念をあてはめてみる。
そして神はつねにその概念を超越したものと考えるのだ。
神がそれをどのように、どこまで超越しているかを考えることが、
神の特性と威厳を考えるための手段となるのである。 思考できないものを思考するために、まず類推関係を築き、
つぎにその類推関係がいかに成立しないかを考察し、説明する。
それが「思考できないものを思考する」ための方法だったのである。
ここではアナロジーは、高いところに登るための梯子(はしご)のように使われている。
最後の段を登りきったら、その梯子はもはや無用になるのだが、
そこまで登るためには、やはりその梯子が必要だったのである。 展開:
この類推は、比例のように確実な知をもたらしてくれるわけではない。
つねに正しい結論が得られる論理的な推論ではないからだ。
比例関係であれば確実に答えは計算できるが、あるものに類似しているからといって、
つねにそのものと同じような性質をもつわけではない。
古代ギリシアの哲学者プラトンの好きだった類推の一つを考えてみよう。
プラトンは船長が船を操縦する技術と、政治家が国家を統治する技術は似ているので、
アナロジーで考えることができると語っていた。
でも航海術と政治の技術にどのような類似があるのか、
うかつに議論が進められないことはすぐにわかる。 ぼくたちの認識はまず類推で動かされる。
それだからこそ、類推の危険性に自覚的であることが必要なのだ。
考えるときにはできる限り想像力を働かせて、豊富なアナロジーを試してみるべきだが、
そのアナロジーがもつ落とし穴には気をつけよう。
どこまで使えるアナロジーなのか、調べてみる必要があるというわけだ。 たとえば人間の身体がアナロジーに使われることが多い。
王は人間の頭であり、国民は人間の手足のようなものだというアナロジーは、
哲学でも宗教でもしばしば用いられる。
でもこのアナロジーの裏側には、
王権の正統性というイデオロギーがはりついているのはすぐにわかると思う。
アナロジーは考えるための道具であるとともに、考える道筋をあらかじめ作ってしまって、
思考の自由度を狭くする場合もあるのだ。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【異端】
ポイント:
異端という概念は、正統という概念と切り離せない。
正統的な教えに反していると非難される異端があるためには、
正統がなければならないし、正統という概念が生まれるためには、
正統的でない異端が存在していなければならないはずだ。
正統は異端との戦いのうちで作られていくものであり、
定規で線を引くように、異端を区別する正統的な教えが
最初からあると考えるべきではないだろう。 切り口:
[宗教的な異端]
異端という概念が西洋で確立されたのは、キリスト教の歴史において、
さまざまな教会会議での激しい論争のうちで勝利を収めた理論が確定される
ようになっていくプロセスの結果である。
何が正統と判定されるかは、その理論的な論拠だけでなく、
当時の政治的な背景にも大きく左右されることを忘れてはならない。
そもそも教会の会議を開催するのが、宗教的な権威ではなく、
ローマ皇帝という政治的な権威であり、
皇帝が何を支持するかが重要な役割を果たすこともあったのである。 後からふり返ると、正統な教義がもっとも普通的なものに見えるとしても、
どのような視点から見るかで、普遍性そのものが変わってくるのだ。
異端とされたアリウス派が正統な教義として定められていたら、
その後のキリスト教の歴史も正統的な教義も
ずいぶん別のものになっていたことだろう。 [他の分野の異端]
異端という概念はこのように最初は宗教的な領域で使われていたが、
やがて宗教以外の分野で主流派から逸脱する流れも異端と呼ばれるようになる。
政治の分野では、ソ連をスターリニズムが支配していた頃には、
スターリンの理論に抗する理論は異端とされ、多くの政治家が処刑されて姿を消した。
ナチス時代のドイツでも、ナチスの公的な理論から逸脱する派閥は異端として処分された。
文化大革命時代の中国で、毛沢東(もうたくとう)の理論から逸脱する政治家が処刑されたのは、
まだ記憶に新しい。 芸術の分野でも、その時点の主流派に対抗する流派は異端と呼ばれることになる。
古典派の絵画が主流だった19世紀半ばには、風景のまったく新しい見方を示した
印象派の画家たちは、異端として主流の展覧会から排除されたのだった。
ただし絵画や文学などの世界では、異端的な流派は新しい革命的な力を
そなえたものとして積極的に評価されることもある。
異端は正統という、こりかたまった既成の体制に攻撃を加え、
新しいものを創造する力となることもあるのだ。 展開:
正統と異端というものは、一つの制度への対応として考えるとわかりやすい。
ある制度として確立されたものは、その中心的なものを正統として表現することになり、
これに反するものは、異端として排斥される。
しかし異端にはこの制度を改造し、作り直していく要素がつねに含まれているのである。
既存の制度がその正しさと強さを輝かせるかに見えるとき、
その制度のうちに慣性のようなものが発生して、変化に抵抗するようになる。
正統として確立されたもののうちは、
制度の変革の芽をつねに摘んでしまう習慣が形成される。
制度のうちに多様性をもちこみ、正統とされたものを相対化することができるのは、
異端的な流れでなければならないのである。 ところで異端にはいくつかの落とし穴があることに注意しよう。
まず異端的な思想のうちには、異端であることで満足してしまう危険性がある。
あえて異を唱えることで満足してしまう危険性がある。
あえて異を唱えることに、存在理由を見いだす傾向が生まれることがあるからだ。
そして正統のもつ力を認識することができず、異端であることだけに
甘んじてしまうのである。 また異端であることは、正統になるための手段とされることもある。
みずから正統とされることだけを目指したり、
あるいは異端の流派の内部で、正統と同じふるまいを再生したりすることがある。
異端の流派が他の流派を排撃する方法が、
正統の流派とまったく同じであることも珍しくないのである。
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(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 【一元論と二元論】
ポイント:
一元論と対立するのは二元論ではなく、多元論であるというべきかもしれない。
一元論とは、世界のすべてをある一つの原理で説明することができるという思想であり、
多元論とは世界のすべての現象は複数の原理で説明しなければならないという思想だからだ。
二元論は多元論の一つにすぎないとも言えるわけだ。
しかし二元論はプラトン以来、哲学の重要な思考方法となってきた。
ある意味ではぼくたちの思考に住みついた考え方なのだ。 切り口:
[哲学の歴史]
哲学の歴史が始まってからというもの、哲学は一元論にとりつかれてきたと言ってもいいかもしれない。
哲学の「祖」と言われるタレス(前六世紀)は世界を「水」であると断言した。
それまでは世界のさまざまな事象を説明するのはギリシア神話の役割であり、
自然の現象もゼウスをはじめとした神々の行為として説明されてきたのである。
たとえば人間は、運命を司る女神アトロポスが糸を切る瞬間に死ぬことになっていたのである。 しかしタレスの「水」から始まって哲学者たちは、
世界を一つの抽象的な原理で説明しようと試みた。
あるものは世界は「火」であると語り、
あるものは「存在」という一なるものだと考えた。
この一元論的な説明は、天の一者からすべての世界が流れだしたと考える
プリティノス(205〜270)の新プラトン主義の哲学などにも引き継がれる。
歴史の全体を「絶対的な精神」が実現するプロセスと考えたドイツ観念論の代表である
ヘーゲル(1770〜1831)の弁証法の哲学も、歴史を動かす要因を経済的なものに見定めようとした
マルクス主義の唯物論(ゆいぶつろん)も、同じように一元的な説明を試みる思想だといってもいいだろう。 [二元論の魅力]
しかし世界を一つの原理だけで説明するのはかなりの力技ともいうべきものである。
「万物は流転する」とヘラクレイトス(前六世紀)が語ったように、
この世界は変化の絶え間ない現象の世界であり、
この変動し続ける世界を一つの原理だけで説明するのは困難に思えるからだ。
そこで登場したのが、流転する現象の世界と、
変化しない理念(イデア)の世界を対立させるプラトンの哲学だった。
プラトンはこの変化し、生成する世界の背後に、変化と生成を可能にする不変の世界が存在すると考えた。
変動する世界も、このイデアの世界を模倣することで可能となると考えたのだ。 この二元論という思考は、イデアを「精神的なもの」、
変化する世界を「身体的なもの」と考えることで、心身二元論を生みだす原動力となった。
ぼくたちの精神は身体という牢獄にとどまっているが、
死とともにこの身体を離れて、イデアの世界に帰還することができるかもしれないと考えたのである。
近代の哲学の土台を築いたデカルト(1596〜1650)も、思考する精神こそがもっとも確実なもので、
身体は物にすぎないと考えた。 ぼくたちには、自分の身体とは別に精神というもおがあると考える癖がある。
これはどこの文化にも見られる共通した思考習慣であり、そのことは否定できない。
だから二元論という思考はどうしても捨てがたいのだ。
精神と身体だけではない。
ぼくたちの思考の習癖となっている二元論的な対立には、
善なるものと悪なるもの、光と闇、実在と仮象(かしょう)、絶対者と絶対でない存在、神と人、エロスとタナトス
など、さまざまな対立関係が思考の枠組みのように使われるのである。 展開:
一元論は、奇抜(きばつ)な議論を展開するには魅力的な方法になる。
なじみの世界が二元論的なものだけに、それを貫く一つの説明原理を提示することは、
この多様な世界を理解するためにとても役立つことだからだ。
そこではぼくたちの想像力と構想力が試されることになる。
一方では二元論は使いやすいものであるだけに、つい安易に用いてしまう傾向がある。
人間の世界は善悪だけで語ることはできないはずだとはよくわかっていても、
善玉と悪玉の対立構図はすっきりする。
それだけに二元論の枠組みのもつ安直さをどう補っていくかという工夫が求められる。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
――”‐”ヾ'―‐ 別の読み物に集中しているのでこちらのチェックが疎かである。
平衡してやるのは(頭に湯気出るくらいなので)まだ難しい。 【イデオロギー】
ポイント:
イデオロギーは辞書では「人間の行動を支配する根本的な考え方の体系」
として説明されているが、否定的な意味で使われることが多い。
マルクス(1818〜83)は、さまざまな理論が科学的な装いのもとで、
資本主義の支配体制を擁護することを暗黙のうちに目的としていると考え、
これをイデオロギーだと批判した。
たとえば古典経済学は数学を使った客観的な科学であることを自称しているが、
実は資本主義を擁護する機能を果たしているというわけだ。
イデオロギーが意識的な形で使われて,体制擁護を直接の目的とするときには、
デマゴギーと呼ばれることが多い。 イデオロギーの特徴は、表面から見る限り、
特定の体制を擁護したり支持したりするものとは見えないことにある。
マルクスは、哲学のような普遍性を目指す理論も、
無意識のうちに体制を補強する役割を果たしていることがある点に注目したのだった。 切り口:
[諸刃(もろは)の剣]
ある理論をイデオロギーであり、意識せずに特定の体制を擁護していると批判することは、
その機能が無意識的なものであることを指摘する限りにおいて、
諸刃の剣のような役割を果たすことに注目しよう。
それが無意識的なものであるということは、批判された側にとっては、
特定の体制を擁護していることを否定できないということである。
だからある理論をイデオロギーと批判する側は、
相手の反論を禁じてしまうことができるという優位を手にする。 ところがこの優位はみずからに跳ね返ってくる。
その理論をイデオロギーだと批判された側は、
同じ論理をもって相手の理論をイデオロギーだと批判することができるのだ。
そして相手は、それに理論的に反論することができない。
マルクス主義はブルジョアジー(資本家階級)の理論をイデオロギーと批判したが、
すぐにブルジョアジーの陣営から、
マルクス主義こそがイデオロギーであると反批判されたのだった。 [終焉論]
イデオロギー的な対立はもはや終焉を迎えたという議論が、
アメリカを中心として第二次世界大戦後から活発になってきた。
さらに冷戦が終わると、社会主義と資本主義のイデオロギーの対立という構図は
もはや無効になったことも、この終焉論を後押しすることになった。
もはやイデオロギーではなく、実証的な科学の時代となったというのである。
しかし、イデオロギーが終焉したという議論そのものがイデオロギーとしての
役割を果たす可能性があることから目を背けてはならない。
これは資本主義の論理が世界を支配しているという事実的な確認と、
それが世界を支配することが望ましいという倫理的な主張をともに含むものだからだ。 [イデオロギーの外部]
このイデオロギーの理論については、
アルチュセール(1918〜90)の議論を忘れることはできない。
アルチュセールは、近代社会において人々が主体となるためには、
イデオロギーという枠組みを必要とすると強調したのである。
社会の中で生きるためにはさまざまな観念の枠組みを必要とする。
善悪、正義、責任などの価値判断そのものが、
こうした外部の枠組みのうちでしか形成されないのである。
一つの文化の中で生きるということは、
一つの価値体系のもとで生きるということであり、
それはだれもがあるイデオロギーの中で生きているということだ。
自分の議論にはイデオロギー的な要素はないと主張することは、
最悪のイデオロギーのうちに落ち込むことなのである。 展開:
だからといって、自分の思考の枠組みそのものであるイデオロギーを
そのまま受け入れてもよいということにはならない。
ぼくたちが無意識的にどのような思考の傾斜の上に立っているか、
どのように考え、どのように判断する傾向があるか、
それが文化的にどのように規定されているか、
これを考えることは思考にとっての重要な課題だからである。
イデオロギーを単純に批判することも、そのまま受け入れることも、
みずから思考するという課題を放棄することにほかならないところに、
イデオロギーの難しさがある。 【イメージ】
ポイント:
イメージという語は広がりの大きな語だ。
像、表象(ひょうしょう)、印象などさまざまな意味で使われるので、注意が必要だ。
イメージは、ほんものでは「ない」という否定的な意味をそなえている。
「イメージだけでものを言う」というように使われると、
本質を理解せずうわべだけを見ていると非難していることになる。
イメージは表層にすぎず、本質はその背後に隠されているというわけだ。
しかしぼくたちが何かを認識するとき、物そのものを把握することはできない。
外界(がいかい)の事物を認識する手段は「像」としてのイメージなのである。 切り口:
[模像(もぞう)]
このように外界の事物を把握するには、事物そのものでなく、その「像」によらなければならない。
プラトンは変動するこの世界の事物は、そもそも真なる実在を模倣したものにすぎないと考えた。
机は机のイデアのイメージを分かちもつことで机になるのだというわけだ。
だとすると、机の像を描いた絵画(かいが)は、実在よりも劣った事物を模写したものにすぎないから、
模写の模写、事物よりもさらに劣ったものだというわけである。
プラトンはこれを「模像」と名づけ、物そのものから二重に離れていると考えた。 [印象]
世界をイデアとそのイメージという二元論的な対立で考えるこのプラトンの哲学は、なかなか魅力がある。
でも外界を認識するには、この「像」によるしかないのもたしかだ。
ぼくたちは生まれてから、自分の身体をもって知覚してきたことをもとにして、
世界について判断をするようになる。
だから人間の認識にとっては、事物のイメージこそがもっとも大切な意味をもつ。
人間の判断の根拠は知覚されたイメージだけなのだ。 [思考停止]
こうしてだれもイメージなしでは世界を認識することができない。
ただし、イメージというものが無垢(むく)ではないことにも注意しよう。
ぼくたちは見えるものすべてを見ているわけではないし、
存在しないものを見ていると思い込むことがある。
見たと信じ込んだことで、考えまで左右されることもある。
像にはつねにある思い込みがまつわりついていて、
同じものについてそれぞれが別の像を抱いているかもしれないのだ。 たとえば湾岸戦争のときに原油まみれた鳥の写真が人々の目を奪った。
あとでこの写真はメディアの操作による「でっちあげ」であったことが明らかになったが、
まっ黒に汚れて飛べなくなった鳥のイメージが、湾岸戦争の正当性と、
戦争と環境破壊についての考え方を決定してしまったのはたしかだ。
ときにイメージはぼくたちから自分で考える力を奪い、他者の思想が押しつけられることもある。 [情報操作]
またアメリカの同時多発テロの後、崩れるツインタワーの映像がテレビで何度も映しだされた。
たしかに繰り返し放映する価値のある映像だったが、ツインタワーがテレビの画面を占領することによって、
ある情報操作が行われていたこともたしかだ。
アメリカ国民は悲劇の感情と報復の意思とを二つながらに感じ続けたはずである。
さらにあの映像が流されることで、ほんらいなら映されるべきなのに、
無視されることになった映像も多かったはずなのだ。 アメリカの大統領選挙ではテレビ討論が重要な役割を果たす。
2000年に行われたゴア候補とブッシュ候補の討論では、
ゴアがこれみよがしに溜め息をつくたびに、票が減っていったという。
現代の政治の世界は、メディアにおける政治家のイメージが選挙を左右するほどに、
イメージの力は大きくなっている。 展開:
テレビや映画では、ほとんど見えないほどのわずかな時間だけ、
明確なメッセージを伝える画像を流すことで、視聴者の無意識に訴えて、
広告したり政治的なメッセージを伝えたりするサブリミナルという手法が利用されることがある。 ぼくたちは無意識的な欲望には強く影響されるだけに、
思考の方向性そのものを決定してしまうイメージの力には
つねに警戒を怠(おこた)らないようにしたい。 ,,_,,
(@v@)
(_ .(:ヽ
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