――その後、新日本プロレス時代末期から退団までは、
結果だけで見ると不遇の時代だったと言えると思います。

田中:C.T.Uは楽しかったんですよ。でも、当時の親会社から
出向してきてる人が、自己紹介とかも無いままでサイトの
コメントとか見て『ここはこうなんで』とか言ってくるんですよ。
僕、そういうのメチャメチャ嫌いで。でも、その人に逆らうと
みんなチャンスもらえないから、大人としてちゃんと接してるんですけど、
僕と金本さんだけは反発してたんですよ。『なんでこんな人に
従わなきゃいけないんだ』と。そんな感じでいたら、案の定
チャンスが全然無くなってきて、いつも第1試合だったりとか、
若手とシングルとかばっかりになってきて。僕はそれまで
ジュニアの選手の中でも大会の中で試合が入ってないこととか
無かったんですよ。最後の2年くらいから反発し始めて、
それから後楽園3連戦とかでも一個も試合が無いこととか
増えてきたんですよ。でも、だからって急にその人にゴマ擦るのも
嫌じゃないですか。怪我も多かったんで、最後の一個前に
契約をするときに、その場にその人もいたんですけど、
ホントはその場で『辞めます』って言ってやりたかったんですよ。
でも、家族を路頭に迷わせるわけにはいかないんで、妥協して
サインをしたんですよ、僕は。それがすごい嫌だったんですよね、
妥協してしまったことが。それで、サインした日に嫁に
『来年辞めるけどいいか』って話して、最初嫁は『困る』
って言ってたけど、『新日本辞めてもちゃんとどこかに
上がれる自信あるから』って説得して。親会社の社長さんとかは
本当にいい人だったんですけど、1人だけ合わない人がいて、
モチベーションも上がらなくなったって感じですね。
https://spice.eplus.jp/articles/242178