>>123
>交渉したのは96年末からで年頭には破談していたはず
>団体をクローズするまでにはタイムラグがある

馬場と武井の交渉は96年10月から約1年間行われた。
この時期、ゴング編集長の小佐野は何度も馬場に天龍の復帰について尋ねている。

WARにとって大きな興行が97年7月にあった。
「WAR旗揚げ5周年&天龍革命10周年&天龍源一郎プロレスデビュー20周年記念」興行で、
この興行は全日本の川田が参戦するかが大きなテーマとなった。

結局川田は参戦せず、天龍はターザン後藤とのシングル勝負。
前田が来場したから何とか格好がついたが、寂しさは隠せなかった。
天龍「もう少し時間をください」と全日本との交流をあきらめず。

結局、全日本との交流は実現せずに終わった。
Wは荒谷信孝をエースにするも、興行成績はまるで上がらない。
どんどん旗色は悪くなり、98年1月に全選手の解雇を発表した。
後年、武井「(借金苦で亡くなった)FMWの荒井社長の件は他人事でなかった」と回想。

全日本との縁の切れ目は、そのままWの終了を意味していた。