【1989年】もし猪木が最初の選挙で落選していたら?【スポーツ平和党】
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アントニオ猪木も寄る年波には勝てず、なんとかそのセンスでカバーしていたものの
昭和末期のファイトは全盛期を知るファンには悲しいものがあったのも事実。
1989年の参議院選挙で運よく当選できたのでスムーズに第一線から退くことができたが、もし落選していたら?
無理してエース路線を続けた?それとも緩やかに第一線から退いて行った?その時期は? プロレスはスポーツでも何でもないのに「スポーツを通じて国際平和」という寝言がまかり通った、
当時はそんな時代だった 生き抜くためならなんでもやる、それがある意味ストロングスタイルだと思う。
タレント業に重点を置いて、歯に衣着せぬ発言でワイドショーで重宝されるコメンテーターに上手くシフトしたんじゃない? あの時も比例最後の50番目でギリギリ当選だったような。本当に運にも恵まれてる。
でも落選してたらまだエースを続けざるをえないから辛かっただろうな。 新日本プロレスは武装化を進め、武藤、蝶野、橋本達は地下鉄にサリンを撒いていたに違いない >>1
>それとも緩やかに第一線から退いて行った?その時期は?
これが想像できないんだよなあ。
馬場には鶴田というみんなが認める後継者がいたが、猪木の場合はみんな一長一短で。
スケールが全然違うが後年の三沢のように無理して何年も続けてたんじゃないかな。 >>7
>馬場には鶴田というみんなが認める後継者がいたが
馬場は鶴田を後継者にしたくなかったようだよ
レフリー和田京平が語るには「馬場さんはいつも言ってた。
団体を背負う後継者には大学出の奴(鶴田のこと)より、本当にプロレスが好きなやつがいいなって。
天龍のことだと思った。」って…
テリー・ファンクも。ある時期インタビューで言ってたことだけど、
「馬場から話を聞いたが、馬場の後を継ぐのは鶴田じゃなく天龍になりそうだよ」
(でもそのあと、天龍は全日を離脱したが) 実際、全日からノアが離脱したさいも、それは三沢であって
誰も鶴田を団体のリーダーにしようとしなかった。
ようは、鶴田ファンは外からは「鶴田が、みんなが認める馬場の後継者」と思いがちだっただろうけど
全日内では鶴田は、馬場や選手たちから人望がまったく無かったみたいだよ。 天龍が離脱せずに天龍全日が実現しても、歴史はたいして変わらなそうなのがなんとも……
SWS的な全日になって三沢離脱で崩壊とか、
WJ的な全日になって三沢離脱で崩壊とか…… 少なくとも、鶴田が全日の社長になることもないし、
鶴田をトップにした新団体もないよ。
誰も鶴田についてこないから。
なので「馬場には鶴田というみんなが認める後継者がいたが…」は、ありえなかった。
それが現実。 >>7
全日創立時に馬場はもう全盛期を過ぎてたし、入団したときから鶴田がエース候補だったのに対して
猪木は当初から絶対エースだったからなあ。
三沢と比べるのはさすがに無理があるがエース交代のタイミングは非常に難しい。 まあタイミングを逃してあと2〜3年はトップでやってただろうな。
体力の衰えはセンスだけじゃカバーしきれないから苦戦したと思う。 政治に行けなければ新日に介入しまくるだけ
今頃潰れてそう 参議院は6年だからよかった。
猪木エースなら三銃士へスムーズに移行できなかっただろう。 1993年の50までにはエースは退いたでしょうな
さすがに50のエースはないと 猪木の後は複数エース制になったもんな
誰がやっても不満は出たはず
当選は本当に絶妙なタイミングだったよ SWSができた頃も猪木エース路線か
北尾もいたよな。想像できんなあ。 それか90年のデビュー30年記念を節目にしたかもね 衆議院に挑戦
当選ならスムーズに第1線
落選ならまたクーデター起されそう >>5
現在は麻生派の長の山東昭子と最後の議席を争ったてたな
以前に山東がゴルフ番組収録のため委員長なのに委員会欠席して問題になったのも響いたかどうか分からんけど 最初の選挙の時は「スポーツ平和党」という有効票よりも「アントニオ猪木」と書かれた無効票の方が遥かに多かったということだが(当時の比例代表制に候補者投票制度は無かった)猪木の支持者ってそこまでバカなのかと驚いた記憶がある >>24
近年当選したときも「猪木に政策とか問うなよ」とか抜かしてたからな 猪木が議員になっていなかれば、
馳もなっていないんじゃ? 猪木は議員当選した時は引退を考えたと
でも様々な状況で引退できなかった 猪木 落選場合、後々二足鞋体系、皆無状態。
不呂令須選手、巡業帯同 当然。 >>24
今でも5ちゃん見るだけでも選挙制度理解してない奴たくさんいるし
当時の猪木ファンならそんな間違いして全く不思議やないな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています