【昭 和】蔵前国技館【20世紀】 [無断転載禁止]©2ch.net
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両国国技館も最初はリングサイドはイスなしだった。
いつの間にかイスを設置する様になっていた。 今日は鶴田がファンクスのインタータッグに挑戦した日
同時に全日本の蔵前初使用 今日1995年10/9はやっぱり新日本プロレスリングVSUWFインターナショナルの全面対抗戦を思い出すな。
それか1981年10/9全日本プロレスリング創立10周年記念大会。
これは蔵前国技館だったかんな。
前日10/8は新日本プロレスリングが蔵前国技館で興行。
引き抜き合戦最中の両団体の熾烈な興行戦争と言われた。
観客動員数は新日本プロレスリングの勝ち。
でも水増しが当たり前の時代だから全く当てにならない。
《後楽園ホール3000人》発表の時代だかんな。 >>304
10・9アニバーサリーでビデオ鑑賞するには持ってこいの日ですね♪ あと10/9っちゅうたら1986年10/9は新日本プロレスリングの闘魂ライブだと思うた。
アントニオ猪木VSレオンスピンクス
前田日明VSドンナカヤニールセン
もう30年も前か。
この両試合で明暗の差が分かれた。
アントニオ猪木は落日のイメージが更に強まった。
一方の前田日明は『新格闘王』と呼ばれ始めて。
この試合を経て前田日明は本当の全盛期に入った、っちゅう意見もあった。
勢いも増して。
※真のガチンコの強さは全く別として。 最初の蔵前の前座で全日本を去った上田が八年後にメイン登場 そうらしいね。
新日本プロレスリングでも、かつては東京プロレスリングで一緒だったアントニオ猪木とラッシャー木村。
この時は若きエースのアントニオ猪木と若手前座の一人のラッシャー木村こと木村政雄。
その両者が15年を経て蔵前国技館という大舞台で対決。
むしろラッシャー木村視点から『ここまでビッグになった』と当時のゴング誌に掲載されていた。
東京プロレスリング時代はエースと前座。
アントニオ猪木はキャリア6年でラッシャー木村はキャリア1年前後?
でも東京プロレスリング時代にアントニオ猪木とラッシャー木村はタッグチーム組んだみたいだな。
6人タッグマッチとかで。
人数が少なかったからカード的に自然と組まれたみたいで。
そして東京プロレスリング崩壊後にアントニオ猪木は日本プロレスリングに復帰。
ラッシャー木村等数名は捨てられた形に。
アントキノイノキ、いやっあん時の怨執を抱えてアントニオ猪木戦に臨むラッシャー木村。
ゴング誌は盛り上げの為に当時の東京プロレスリング時代の背景を盛んに書き立てて煽り記事を。
今から思えば当のラッシャー木村はそんな事はとっくに忘れていたのでは?
忘れる事はなくとも、恨みに思う事もなく。
普通に当時の状況を受け入れていたと思うけどな。 特に相撲出身者にとって国技館は特別な会場
上田にとっては黄金コンビ相手の北米タッグ防衛戦
そして木村にとっては最後のワールドシリーズ優勝戦が初メインだったか >>304
21年かぁ…
隔世の感だねぇ。
健介の仏頂面入場、橋本のかったるそうな表情の中野戦。
解説の猪木&マサの橋本へのダメ出し。
で、四の字固めから前田が泣いてるぞっと。
映像所持してないけど鮮明に覚えてるわ。 85年にできた両国も築31年・・・そろそろ新国技館の建設か? 愛知県体育館が50年過ぎてるから
両国はまだまだ持つだろ 最後の猪木対長州見に行ったよ。帰路は口々に周りが、いい試合だったなあ。小杉に星野がガチ仕掛けた(ように見えた)試合が印象に残ってるね 蔵前国技館はプロレスリングの殿堂みたいなイメージだな。
新日本プロレスリングも全日本プロレスリングもビッグマッチ開催で使用。
昭和時代を感じさせる。
両国国技館はまた別のイメージ。
蔵前国技館は平成時代の東京ドーム的な部分があった。
シリーズ最終戦の使用も多かったからそのシリーズの集大成みたいな。
アントニオ猪木の両国国技館最後の試合が確か1989年2月22日の長州力とのシングルマッチ。
長州力に二度目のピンフォール負けで試合後に号泣というやつ。
この時を最後にアントニオ猪木は両国国技館では試合をせず。
セミリタイア後も両国国技館ではアントニオ猪木の試合は組まれず。
これはまたまただろう。
それか両国国技館は敢えて現役バリバリのみで試合を組んだのか?
アントニオ猪木は東京ドームや福岡ドーム等ドームでの試合は多かったが。
日本武道館や両国国技館での試合はなかった。
大阪府立体育会館での試合もなかったはず。
愛知県体育館ではあったな。
確か藤原喜明とのシングルマッチだったような。
1995年2月か3月頃に。
何かの記事でG1クライマックス中ではアントニオ猪木の試合は敢えて設けなかったらしい。
アントニオ猪木が試合すればG1クライマックスのイメージが薄れるから。
それにG1クライマックスは新日本プロレスリングの看板シリーズ。
だからこの期間中は敢えてアントニオ猪木は出場させなかったらしい。
来場しても解説等で。
そこは現役バリバリの選手達への配慮だとか。 その後の4月の東京ドーム初試合でアントニオ猪木はショータチョチョシビリに敗北。
異種格闘技戦初敗北。
ここでもアントニオ猪木は試合後に号泣。
5月の大阪城ホールではこのショータチョチョシビリに雪辱。
こっから議員になり、事実上のリタイア状態。
これ以降はスポット参戦となった。
ジャイアント馬場は前座試合の常連になる事でセミリタイア。
アントニオ猪木はスポット参戦でセミリタイア。
形は違えど二人共にそれぞれの形で第一線を退いた。
またジャンボ鶴田も肝炎後はアントニオ猪木同様にスポット参戦という形になった。
坂口征二は知らず知らずに試合数が減っていった。
徐々に試合数を減らす形でセミリタイア。
そしてキッチリと引退試合。
今は藤波辰爾や長州力はしっかりと団体に所属してる形ではない。
しかし上記の人達は団体に所属していたから。
だからセミリタイア等も引退試合もハッキリした形で行われた。
※ジャイアント馬場は正式引退の前に死去だが。 確か蔵前の最終興行はキッド&スミスの新日本ラストマッチ 84年のIWGP決勝の蔵前は、チケット完売で入りきれない客を
別室の広間を解放して1人2000円でクローズサーキットを設けたんだよね。
当日蔵前に入れなかった客は、1クローズサーキット2後楽園の全日本3帰る
の選択肢があった >>66
ボクシングの世界戦生中継試合だと、こんな感じで時間調整するよね。
第1試合、4回戦
第2試合、6回戦
第3試合、8回戦
第4試合、8回戦
第5試合、10回戦
第6試合、世界戦12回(この試合のみテレビ生中継)
予備カード1, 4回戦
予備カード2, 4回戦
世界戦以前の試合が早期KO決着の試合が続いて時間が余りそうな時は
時間調整として世界戦前に予備カードを組み込む。
判定決着が続いて時間が余らなかったら予備カードは世界戦終了後に行なう。 >>73
中卒デビューで蔵前最終年当時15歳だったとしても今は47歳なんだよね。
なので若貴兄弟は蔵前デビューは出来ない。
曙が中卒デビューだったらギリギリ出来たかな? 勘違いしてる人が多いけど
メインイベントと最終試合は別の概念だから
料理でもメインディッシュが最後に出てくる料理ではないのと同じ >>330
ボクシングの世界戦が午後3時か4時位からテレビ生中継される時。(一例)
第1試合、4回戦
第2時間、6回戦
第3試合、8回戦
第4試合、世界戦12回戦(この試合のみテレビ生中継)
第5試合、8回戦
第6試合、8回戦
予備カード、4回戦
こんな感じの興行の時、リングアナウンサーは
第4試合の世界戦の時に「本日のメインイベント」とコールして
第6試合の8回戦(予備カードが消化されなかったら7試合目の予備カード)の時は
「本日の最終試合」と、コールしますよ。 蔵前も両国も国技館は花道が短いから入場テーマが流れてすぐリングに入っちゃう印象があった。逆に大阪府立や愛知とかは通路に客が溢れ時間かかった印象があるね >>330
猪木vsウィリーの時のヤマハの試合とか 新日本最後の蔵前
事前発表のカードが、猪木vsデビットシュルツ、コブラvs小林
藤波、長州らは事前カードが発表されず主要カードから外された形になった。 >>332
坂口は入場テーマが前走のうちにリングイン出来てしまう >>335
それが坂口がエースになれない証拠。
ためができず、リングインしてもちょこっと手を上げて
せっかく高級ガウン着てるのに脱いじゃう。
コールされても若手みたいに頭を下げる。 歓声の響き方と密度が最高だった
これだけは武道館も両国もドームもかなわない >>339
同感。あの格闘場のエアポケットって感じがたまらなく好きだった。
小2の初蔵前観戦から小6の最後の蔵前までの5年間。計12〜3回は足を運んだかな。 橋本、武藤、蝶野は蔵前では試合をしてない。
でも入門年に蔵前が閉鎖。
蔵前でリングサイドには付いた。 テリーやブッチャーは蔵前でシングルでメインってあった?
彼等が全盛の頃は全日自体が蔵前をあまり使用しなかった。
むしろシン、ハンセン、ホーガンの方が蔵前メイン率が高い。 テリー×鶴田のNWA世界戦でテリーの蔵前シングルのメインあった。
まだテリー人気が大爆発する前だが、 全日は蔵前使用率が低かったからなあ。
80年代でも年間通じて新日の方が圧倒的に多かった。
ただ全日は最強タッグ最終戦は必ず蔵前だった。
84年大会は蔵前閉鎖だったから横浜だったけど。
逆に全日の両国使用率も低い。
だからシンやハンセンの両国での試合も数少ない。
もちろんファンクスやブッチャーも。 テリーの蔵前初シングルメインはNWA防衛の二年前の馬場のPWFへの挑戦試合 昭和の全日系外人は新日系外人と比べて蔵前のメイン登場率が低い。
でもそれは全日自体の蔵前使用率が低いから当たり前。
外人どころか馬場を始めとする日本人でも。
特に蔵前のシングルのメインとなればなおさら。
天龍は蔵前のシングルのメインは結局はなかった。 でもだからと言って新日<全日とはならない。
蔵前メイン登場率で測れるものでも比較できるものでもない。
それを言ったら平成以降はドームが基準になってしまう。
新日は毎年ドームを使用したし、年に複数使用も。
しかし全日はドーム自体を使用しなかったかんな。
馬場健在時での全日のドーム使用回数はたった二回だし。 新日に限定だとシンやハンセンは蔵前シングルメイン登場率は高いな。
藤波×長州は83年8月4日の蔵前大会ではメインだった。
猪木欠場シリーズだったっちゅうこともあって。
83年4月3日の藤波×長州はメインたったのかな?
長州が藤波からタイトルを奪取した試合。
この日の猪木はマサ斎藤かラッシャーとのシングルだった。 >>352
3日のメインは猪木VSラッシャーだよ。
21日のメインが長州VS藤波だったんじゃなかったかな?長州の初防衛戦。
その日猪木はマサとやってる。 >>351
ガラケーから脱して普通を装ってるおとぉちゃん。
消えろ。失せろ。逝けボケ。 意外にもブッチャーのシングルでのメイン登場は両団体を通して一回のみ 馬場戦も東体だったし
両団体でシングルのメインを張ったのはシンとハンセンだけか 新日の東体は入りが悪かった印象がある。
その辺りも新日が蔵前を重用した理由の一つかな。 単純に使用料だと思うよ
東体最後の新日vsUWFイリミネーションの時は超満員だった 東体は21時までに終わらせなければならない他条件がうるさいから 大きさよりも…猪木、対小林×2、大木戦ほか、4人の枡席に6人入れちゃう、立見も入るだけ、により1万6500人(実際はもっと入れたそうな)という超満員となる。消防署にはお詫びに出向くのだが、、すごい時代でした。 蔵前は数多くの名勝負を築いた。
昭和と言えば蔵前だし。
平成と言えば両国とはならないんだよね。 武道館は旧全日本が名勝負を生んだ
東京体育館は三沢がマスクを抜いたことしか印象ない 旧東京都体育館は毎度超満員の昭和新日本。ワールドリーグ坂口、モラレスを場外へデッドリードライブ‼からのリングアウト勝ち初優勝、
2階最前列席に座るとアンドレの頭が横に!
猪木vsブロディ、新日本vsUWF5対5、
古くはエドワード・カーペンティアの参加と発表してしまったシリーズ、
広くて観やすかった気がするなぁ。 おっと蔵前国技館か。やっぱりシンと上田馬之助さん、と、お二人による遠藤幸吉さん襲撃中継–NETも加担か⁈
一件。 控え室にはスーパースター、パワーズ、ボルコフが居たんだよな。
そこにシンと上田が登場。 スパス、ジョニパ、ニコボにタジェシ、ウマノス
大きい連中が普通に多かったんだなあ。 綱引きや5VS5のときって、
正規軍と維新軍のどっちの声援が大きかったの?
実際に見に行った人いるでしょ?
歴史の証言を残すため、正直なところ教えて >>373
綱引きでカードが発表されて一番盛り上がったのは前田vs長州。
タッグ屋でシングルが下手で体格差がある坂口vs浜口、
何度もやってる藤波vsカーン、結末が分かる猪木vs谷津は微妙な反応だった。
5vs5は維新軍が小林、寺西、谷津、浜口、長州と序列に沿った順で発表され、
古舘が「相対する正規軍、先鋒は藤波辰巳です」で蔵前がMAXの盛り上がりで
高田、健吾と続き、副将に藤原喜明でテンションアップ。
藤原ずニヤつきながら頷く姿は良かった。 クラマはシンニプロレもゼンニプロレも使っていた。
割合ではシンニプロレの方が圧倒的に多かったが。
でもその後はリョウゴはシンニプロレ、ブドカはゼンニプロレと。 この3文字こだわりのクズって、ずっと昔から、
方々でハゲだの素人童貞だまれだのと叩かれてるのに、
ぜんぜん改めない。
その精神力はすごいと思う。
同時に、この性格だから生涯不遇な童貞人生なんだとも思う。 >>365
旧東京体育館といえば82年春のブロディとスヌーカの仲間割れかな >>377
旧東京体育館は、力道山vsデストロイヤー、ワールドリーグ優勝戦猪木vsクリス・マルコフ、
最初の馬場vsハンセン、レフェリーのルー・テーズでの猪木v s藤波、新日vsUWFの5vs5イリミネーション、
ボブ・オートンが馬に乗ってきて通路が馬糞だらけ、三沢がマスク取った、
猪木vマシン2号で猪木のセコンドに赤いマシンのマスク被った俊二・・・ 東京体育館は終了と撤収時刻が厳しく決められており、
客の方も試合の余韻に浸ることができないため、
猪木はいちどもNWF戦などをやらなかった、と週プロに書かれていた。
UWFイリミネーションの号だったと思う。 >>379
パワーズから獲ったときとハンセンに獲られたときは東体だった。 80年12月、猪木&ローデスvsハンセン&シン、IWA世界戦・ラッシャー木村vsストロング小林
藤波&健吾&浜口&寺西という好カードもあった。確か第1試合は、荒川>前田
猪木vsブッチャーも東体だった。 >>380
シンには防衛
猪木vsシンは蔵前・東体・武道館と都内三大屋内会場全てを制覇 四十年前はなんといってもオープンタッグが代表だが同時期には猪木vsGアントニオ
また春には新日本が二連戦で国際も使用ととにかく蔵前ラッシュだった 当時の蔵前は今のドームみたいなもんだからね。
ビッグマッチの集大成が蔵前で中盤の山場が大阪府立。
更に脇を名古屋、福岡、札幌、仙台あたりで。 同時期の蔵前ラッシュとなれば78年の年末
三団体が全て開催 以前にあるサイトを見てたら
馬場の凱旋試合のコワルスキー戦が
ノーテレビだったと知って驚いた 本当の凱旋試合はその前日の力道山や東郷と組んでの六人タッグだったか 正式な帰国第1戦はさらにその前日のリキパレスでのエキジビション 日プロ最後の蔵前大会の時は宣伝カーが全日本の会場の前まで行ったとか ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ サイキョタグリはクラマが相性ピッタリだったな。
ザファンやアブチャ、スタハ、ブルブはクラマが合ってた。
クラマ撤去後はゼンニプロレはブドカが主に。
リョウゴはシンニプロレのメイン会場だったし。
でもクラマのあの雰囲気は本当に良かった。 全日は蔵前閉鎖後は武道館がメイン会場に。
新日は両国や後々にはドームと。
でも両国初興行は全日が先なんだよね。
ウォリアーズ初来日(第二戦目)とブロディと長州の不穏マッチ。 まだ両国を使えた時期から武道館で最強タッグの最終戦をやってたんだよな
今後果たして両国で最強タッグをやる日は来るのか >>397
いや、全日が武道館をメインに移すのは、輪島デビュー後だよ。
輪島の両国登場を自粛して武道館にシフト。
輪島デビューまでは、両国と武道館はほぼ同じ位の利用率だな。 >>398
全日を名乗る団体がが完全に消滅して、新日が開催権を手にしたら有りうるかも。
ただ暮れに開催ならドームがあるから両国はないだろうな。 今や最強タッグ名乗っても昔の全日のそれとは違うし。 最強タッグ最終戦は蔵前が定番っちゅうか固定だった。
蔵前閉鎖になり、それ以降は武道館。
特に昭和の最強タッグの蔵前はファンクスの為にあった。
最強タッグ自体がファンクス(特にテリー)の為のシリーズだったが。
新日はシリーズ最終戦(か終盤)で頻繁に蔵前を使用。
だから新日の蔵前といえば猪木のイメージがある。
全日は年間の蔵前開催率は新日と比べたら少なかったが。
その中で全日の蔵前といったらファンクスのイメージがあるね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています