短歌と文法
宮地の論の滑稽さは、「文法的誤り」と宮地が断定した歌を宮地が
完全に理解していることである。それだけわかってたら何もケチつけること
あらへんやんか! 曙覧の「多かり」はカリ活用形容動詞の終止形と見て全然問題じゃない。
宮地はこの程度のいい加減な知識で人を批判し、教えを垂れてるんだ。
クソ野郎だ。 http://www.genji.co.jp/kensaku.htm
上のページで「多かり」「おほかり」を検索してみなさい。
幾らでも出てくるよ。中古和文、和歌では「おほかり」「多かり」があたりまえ。 宮地だけが特にクソなわけじゃない。現代歌人俳人はすべてこの調子の
鉄面皮だ。 >>3
源氏物語の例は宮地も指摘しているではないか。 和歌の「おほかり」の例(表記は適当に変えたが本旨には影響するものではない)。
もちろん全部橘曙覧より古い。
おほかりやたち別れてのなごりにはあはれいはでと思ふことのみ 久安百首
おほかりと思ふものから桜ばな見るところには安くやはゆく 古今和歌六帖
あふみのうみへたはおほかりいつくにかきみか舟とめ枕せりけむ 夫木抄
思ひやる心のほどははてもなし風のいたらぬくまはおほかり 忠岑集
天の川めづらしきことおほかりとよこそこのころさわくてふなれ 中務集
宮地の発言を一部不正確に批判したことは訂正するが、和歌でも「おほかり」が
ふつうであること、「おほかり」はカリ活用の形容動詞として形容詞とは別に
扱われるべきことは訂正の必要なし。 >>9
もう一点、宮地がクソ野郎だということも訂正の必要なし。 「いるけど盛り上がらない、個人攻撃で盛り上げたい奴ならいる」でFA 添削指導の中で文法添削も必ず行われてるよ。それでも文法談義は
要らないか。添削を批評しないという鉄則が文法添削に関しても適用されるのか。 口語で詠めば済むことだろ?というか、自分が使いこなせる言葉で詠むべきじゃないのか。 口語短歌は難しい。"文語短歌"は馬鹿でもチョンでも死刑囚でも詠める。 文法を論じる歌人は文法を短歌の約束事なたは作歌法の一部ぐらいにしか
考えていない。文法の"間違い"がなぜいけないのかを語ることはない。
偉い先生の指導で"正しい作歌法"を身に付けたいと思ってるお客さんを相手に
思いつきを垂れ流してるだけ。 独創的な用例か、作者のたんなる勘違いかくらいは判定したいものです。 >>20
あんたが宮地の一文を読まずにレスしてることだけはキチンと判定できた。 ぼくは短歌に興味をもちはじめた頃、新聞短歌などによく見られるような、身辺雑記風の
内容を文語で書いただけの短歌にかなり疑問をかんじました。日々のちょっとした思いの
ようなものを、わざわざ読者が親しみにくいような文語で書いて、それでちょっと高尚な
文学風になったかのように気取っているだけのようなものに見えたからです。日々に思っ
たちょっとしたことを読者に伝えたいのなら、文語なんかではなく読者に親しみやすい現
代語で、わかりやすく伝えるのが本当ではないかと思いました。歌人がなぜ文語なんても
のを使いたがるのかが理解できませんでした。その気持ちは、もしそれらの短歌がそのよ
うなものであるかぎりは変わりありません。
しかし「雅(みやび)」の立場に立つのなら、むしろ短歌とは日々のちょっとした思い
を読者に伝えるために書くものではないのであって、ぼくが疑問をもつべきだったのは文
語を使用することより、身辺雑記風の内容のほうだったのかもしれません。
そもそも短歌とは、江戸時代まではそのような身辺雑記を書くものではなかったわけで、
むしろ花鳥風月など「雅」の世界をたのしむための「風流」としてあったもののようです。
それが身辺雑記になったのは、おそらく正岡子規が提唱した「写生」という方法論が、さ
らに私小説などの影響を受けてきた結果のようです。でも、そうだとしたら、いったい
「写生」したり私小説的な内容を書くためになんで57577の短詩形にこだわらなけれ
ばならないのか、そこのところがわからなくなります。ぼくが感じていた疑問はつまりは
そこにあったようです。そして多分、その疑問は散文的な意味での「写生」という方法論
を前提とするかぎり、解けないもののような気がします。
やはり短歌というのは「雅(みやび)」とは切り離せないものなんじゃないでしょうか。
そう考えると、むしろ近代短歌というのは短歌の歴史のなかで、当時の時代の影響を受けす
ぎた奇妙な時代だったのではないかという気にもなってくるのです。 >>23
短歌はなんで57577でなければいけないのかと尋ねてるのと同じだね。
伝統だからとしか答えようがない。伝統が嫌いなら短歌にかかわるな。 言語学板から来たんだが、
宮地伸一という人は、「多かり」以外の形容詞カリ活用終止形も、短歌では誤用ととがめず認めるべきだ、と言ってるんだろ?
>>5 歌の例はないんじゃないか? 変態の 長谷川櫂(長谷川隆喜)と その党類
いずれも生きる 価値は無し
臆病卑劣にして無知無教養かつ下賤な部落民の田舎者、
長谷川櫂=長谷川隆喜も、その同類たる変質者どもも
もろともに即刻頓死して果てるがよい。
さもなければ、早く朝鮮半島に強制送還されて、叩き殺されるか
餓死して醜き屍を晒すがよいだろう。
長谷川は熊本県下の業病筋の血統に生まれたことを隠しているが、
加藤神社などに集っていた癩患の仲間で鮮奴の穢多風情でしかない。
今はおぞましい禿頭に面体崩れたる白癩の進行ぶりを必死で覆い隠して
居るらしい。 絶対に近くに寄るべきでは無いぞ! 日本語の文法の本をたづね来ぬかまはず歌へと吾答へにき 土屋文明 文法講釈ってさ国語学者呼んできてではやっておくれ、中学方式とっくに忘れちゃったよ、自然に使える=文法解釈不要だよ、それより57577は日本語のもっとも完全な形です、韻律がぴったり行く、二倍率になるのとあるみたいです、がたがた言わないで復活させりゃいいです 長い間試行錯誤していて、ついにできたという喜び、はじめて日本の伝統に一歩踏み入れた、人間になったという自覚があります、仏の悟り無自覚の覚はお釈迦さまを見るという無上楽、これは捨てて捨てて捨てきって行く、歌の道は手すさびですが、 仏の無上道が結局は感動を与えます、黄金の延べ板という芭蕉の俳句を、わしは思います、てにをはのはしっくれが最重要です、まずもって言葉そのものを知る、十年二十年かかります。 いにしへは飯を盛るとふ朴柏おほにし咲けば人恋しかも
蒲原平野をみそなわすお寺ですよ、歌作りもどうぞ、仏の道を尋ねる人はうっふっふ世界にたった一人の正師に出会えますよ。
朴柏おほにし咲けばいにしへゆつばくろ問へり四天王門 >>28 「伝統的国文法では、カリ活用終止形は原則として誤りとされている。例外は『多かり』だけだ」というのが、宮地の趣旨だろう。
「多かり」が古歌に現れないというのは確かに宮地の誤りだが、話の本筋とは関係がない。 >>28 歌でも「多かり」が普通、当たり前と言えるほど用例数があるのかどうかは、まだわからない。
例が存在することだけは >>9 によってわかった。
たとえそれが普通だったとしても、国文法がカリ活用終止形一般を認めていないことは動かない。 >>38-39
御丁寧にありがとう。
和歌の例は短時間に見つかったものだけを挙げたのだからもっと探せば
もっと見つかるだろう。だが、もっと大切なことは、あと幾つ見つかるかではない。
「多し」が見つからないなら和歌においても散文と同じく「多かり」がふつうだとい
うこと。
「話の本筋」が「宮地の言いたいこと」の意味なら確かにこの事は話の本筋とは
関係ない。しかし、『江戸時代までで私が見つけた例は、橘曙覧の頼山陽を詠んだ
「外史朝廷(そとつふびとみかど)おもひにますらをを励ませたりし功績おほかり」と
いう一首だけである。』などと、さも膨大な和歌集を読破渉猟したかのようなはったりを
かましながらカリ活用形容動詞の概念すら知らずに文法の講釈をする短歌結社ボス
はクソ野郎だ、というのが当方の話の本筋なわけです。 宮地が「かり」を認めるのは偉い歌人さんが使ってるからだよ。ザコの"間違い"は
いかに大量で規則的でも認めない。宮路にとっては文法とはそんなもの。
西岡のほうがずっと誠実だ。 >>44
「西川」の間違い。>>1でリンクした西川阿舟。 字数を合わせるためにインチキ語形変化させてる歌が多いのが問題だと思う。
口語に比べて文語のほうが表現の幅が広いと言うけど、どうだろうな。
>>48
字数合わせのためのデタラメ、しかも誰にも見抜かれない。それが"文語"短歌の
本質。カタコトが伝え以上の内容は絶対に伝えられないのだから口語より表現の幅が
広いわけがない。貧弱なことこの上ない。 >>49
字数合わせのデタラメとして一部だけ「文語」的な表現を使う「口語」短歌のほうが多くないか? >>50
字数合わせのデタラメとして一部だけ「口語」的な表現を使う「文語」短歌も多い。
それというのももともと"文語"短歌が字数合わせのデタラメだから可能になった。 文法は"文語"短歌だけの問題でないことがよくわかった。
文法の"間違い"ではなくて文法の崩壊消滅こそが真実の姿だ。