松山刑務所は、日本法制度においてかつてないほどに腐敗した体制の歴史を持つ。
1960年代、第1次松山抗争で大量に逮捕された組長と暴力団員によって
腐敗は絶頂期を迎える。暴力団員が看守を買収したことをきっかけに、
刑務所職員は軽くあしらえる人間ばかりだということが拘置人・囚人の間に広く知れ渡り、
日常的に刑務官を脅迫、暴行することが常態化した。
囚人の中でも刑務官から譲り受けた施設内の鍵を所有していた組員らは、
刑務所内を自由に歩き回っていた。飲酒、喫煙、花札賭博、領置金の脅し取りが常態化。
刑務官による福田和子の強姦もこの時期に発生した(矢嶋長次も、
この事件にかかわり、刑務官と共に強姦に加わっている)。
この事件は国会においても取り上げられたが、1966年6月と7月に当時の副看守長2人が自殺。
さらに福田を始めとする強姦事件被害者は法務省から告訴を取り下げる署名を脅迫され、
事件の存在自体が闇に葬られ無かったことになるという結末を迎えた

この結果、1960年代の松山刑務所は無法地帯から一歩進み、矢嶋組の保養施設と化し、
1972年に移転するまで腐敗状況が改善されることは無かった。