昔は錆びたパチンコ玉が沢山混じっていた
大当たり中玉が詰まって出てこなくなる事がよくあり自分で台の上をパカッと開けてホースの部分を叩いていた
真っ黒になった玉とかあった
閉店間際に確変継続してると翌日朝イチで確変中の台を打たせるサービスあった
川崎の店で主婦売春が見つかり数人が逮捕されたことがあった
出球貸し球中にビーチボールみたいに虹球仕込んでおいてそれカウンターにもっていくと数百円程度の景品の福引きがあった
そこそこ好評だったけど「出たのに拾えなかった」クレームとか通常日の回収が面倒ですぐ終わった
昔のジジババは優しい人が多かった
客が10人くらいしかいないお店で朝一に行くと玉1000円分サービス遊戯中は缶ジュースやみかんを配る っていた
昔の羽根物は4000発終了が基本で2.5円は3000発終了
役物がなかった
昔は1回交換の時に上皿に500円分ほどの玉を残して交換するセコい人がいた
1K40回ぐらい回る台とか普通にあった
コカコーラの自販機がほとんど無かった
客よりも店員が威張りくさっていた
呼び出しボタンを押して店員が来る前に消さないと店員に怒られた
隣に座った見ず知らずの人とも、息が合えば飲料のやり取りを行っていた
昔の休日はパチンコ屋に行くのが楽しみだったが今はその逆
パチンコ屋に併設されたスマートボール屋があった
自販機にはホームアップがあった
中高年が多く働いていた
昔は島の端っこに両替機を兼ねた玉貸し機が有って、極稀に残り9000円を取り忘れたw
台間サンドは基本100円玉でないと玉貸し不能なホールばっかりだった
JETカウンターから出て来たのは、帯状のパンチングリボンだった
スーパーコンビ等の一発台で、タイムサービス10000個を開催するホールが有った
遊技スタイルは基本1回交換で、無制限遊技はスロのAタイプだけだった そのため、パチは同じ台での20万勝ちは夢のまた夢だった
大半のパチ屋が寮完備で、夜逃げ君や前科者が店員となり、絶好の隠れ蓑になってた
平成に入った頃、三重県に宿泊出張に行ったらスロが無くて愛知県まで打ちに行ったw
パチもスロも呼び出しランプに大当り情報も回転数表示も無かった為スロは野生のカンで出る台を予想するしかなかった
博打場で低姿勢なんて誰も求めてない、という事は参加人口の激減が証明してる(おじきよりも、玉出せと言いたい)
台の灰皿に吸い殻が溜まってるかどうかで、台の良し悪しの判断材料になった
しかし個人のタバコ消費ペースによって根拠はない
上皿にタバコを押し付けられた跡があって溶けてた台が何台もあった
学生服のまま打てたが、抜き打ちで私服警官の巡回があるから上着だけは脱いでてくれって言われた
補導員が巡回してた(今でも覆面は巡回している)
パチンコ台のガラスを全部叩き割った人が新聞に乗ってた
そもそもプッシュボタンがなかった
小箱 800発 羽根物やチューリップ台に置いてある
1500発ぐらいの箱 大量出玉の羽根物の時によく見かけた中途半端な大きさ
2000発ぐらいの箱 フィーバー機はだいたいこれ
4000発ぐらいの箱 一発台や権利物
6000発ぐらいの箱 3回権利や一発台でも見かけた
中古台が5千円で買えた
数百円で遊べた時代の最大の理由は、完走率の低いオール13個戻しだったから
all10なら100円で2鳴きはしたから遊べた。マックスの15賞球は500円で1から2鳴きだった
羽根ものの話は100円35ヶ時代と25ケ時代が錯綜してしまっている
昔の上野はバチンカーには伝説の聖地だった
1990年前後のパチンコ界は、活気があって平和で熱くて楽しかった
玉が詰まる度にVに玉入れてくれてた(今は謝るだけで何もしてくれない)
小冊子の代わりに上板にリーチ案内が貼ってありました
オーナーの馬がG1勝ったらしくそのとき打ってた客全員にドル箱1箱ずつ玉配ってた
スロは回転早すぎて目押しが難しかった
ちんどん屋が駅前練り歩いたり 選挙カーみたいな新装時専用の宣伝カーもあった
今の台みたいに馬鹿みたいなハマりなんてなかった
中国人とか中東系の奴等が異常に多かった
店で小学校くらいの女の子がビッグシューター打っててワロタ
その子が当たったら店員のおっちゃんも「おー、上手だなー」とか言ってニコニコしてたしおまけに店内を犬が走り回ってるし何でもありだった
昔は台の建て付けが悪かったのでハンドルや下皿を引っ張ったりして自力で寝かせを変える事が出来た
正月は子供が打ってても怒られなかった